“地方”の“東京”への“恥”の意識を好ましくないものと考える人も多いであろう。だが“地方”は“東京”にたいして“恥”の意識をもつことにおいてはじめて“地方”を自覚し、“東京”は“地方”を否定することにおいてしか“東京”であることはできなかった。このディレンマは、近代日本そのもののディレンマなのであって、このディレンマを回避したいかなる思想もリアリティをもつことはありえない。
磯田光一『思想としての東京』講談社、1990年、44頁。
一体、こんな記事に需要があるのか、甚だ疑問ですが、若気の至りか、蛮勇か、つい書いてしまったので、公開します…。
埼玉県の自虐と東京の歪んだ優越感を、パロディとして描いた漫画『翔んで埼玉』。作者は『パタリロ!』の魔夜峰央。
このギャグマンガが実写・映画化されました。
まあ、作中、埼玉県は、もうそれは酷い酷い扱いを受ける訳で、その様はアパルトヘイト下の南アフリカか公民権法以前のアメリカ南部と見紛うばかりなのです。
この戯画化された「地方蔑視」「東京―地方」の関係は、これはこれで色々考察し甲斐があるなと(正気か?)、今回、考察してみることにしました(やめとけ)
(原作コミックは参照していません。映画のみです)
※以下ネタバレあり
どこが歴史の分岐点か?
一応、時代設定として、1990年代というテロップがある本作。
現実の歴史と、全く違う戦後を歩んだようですが、一体どこで史実と乖離したのでしょうか。
そもそも、「東京都」が出てくるので、1943年までは、史実通りと推測されます。
戦時下の1943年に東京府と東京市が廃止され、東京都制が施行され、「東京都」の名称が生まれるからです。
では、太平洋戦争が史実通りに進行したとしたら、作中のような「日本」はどうしたら生まれるのでしょう?
最も可能性が高いのは、米国の占領政策が、史実と違った場合でしょう。
第二次大戦で、枢軸国だったドイツと日本は、連合国の軍事占領下に置かれる訳ですが、その扱いは大きく異なっていました。
ドイツは中央政府が事実上崩壊・消滅していた為、連合国の軍政が敷かれます(直接統治)。
中央政府が無い以上、ドイツの再建は、地方から始まるしかありません。
一方、日本は、日本政府自体は敗戦後も存続し、マッカーサー率いる連合国総司令部(SCAP、いわゆるGHQ)に隷属、間接統治の形を採ります。
おそらくここが分岐点になるでしょう。
もし、敗戦前後に、日本政府が崩壊あるいは有名無実化していれば、米国は、ドイツ同様の直接統治の形態を日本にも敷いた可能性があります。
ドイツ占領における米国の方針は地方(州など)からのボトムアップ型になります。
ドイツの将来の政治構造については「ドイツの施政は政治構造の分権化および地方責任制の発展を目指す」方向で行うことが、ポツダム協定で謳われており、具体的には州権を強くした連邦制国家を作ることであった。
小栁順一『民軍協力(CIMIC)の戦略』芙蓉書房出版、2010年、38頁。
もし、日本政府が実質的に消滅していたなら、占領軍の政策は、地方、つまり都道府県のレベルからの再建になったかもしれません。
作中、異常なほどに知事の権力が強いことが示唆されています。本作での最大の対立要因となった「通行手形」(都道府県境を超えるための国内旅券)の発行権限は東京都知事のようで、総務省など中央ではありません。
(同じような制度で、国内パスポートがあったソ連では、それはソ連内務省の管轄でした)
終盤、一都三県が騒乱状態になっても「日本政府」は、全く事態に関与せず、最初から存在しないような扱いです。
これは、もしかすると、そもそも「日本政府」が存在しないか、あるいはお飾りのような存在なのではないか。
日本は各・都道府県を構成国とする連邦制国家なのかもしれません。
占領政策が都道府県単位を出発点とするボトムアップ型で展開され、勢い、統治・行政の基礎は、都道府県になった訳です。
天皇制の廃止
「王冠は敗戦を生き延びることが出来ない」
ハロルド・ラスキ
作中の各都道府県には激しい対立構造や制度的差別が存在します。
一体、これは、どういうことでしょう。
そこには、「同じ日本人同士」という同胞意識が極端に希薄化か、実質的には喪われていることが窺えます。
言い換えれば「日本国民」という意識の欠如。
それを解く鍵は、「近代国家」あるいは「国民国家」と呼ばれる政治的共同体にあります。
近代国家、国民国家とは何でしょうか?
そもそも、「ネイション(国民)」というのは、近代に人工的・作為的に作られたものです。
フランスを例にとれば、慣習・文化・言語の違いを矯正・統合して無理に「フランス人」という単位を創出(イメージさせ)させます。
これを、「ステイト(秩序状態・権力機構)」と結び付けた政治概念が「ネイション・ステイト(国民国家)」です。
日本が近代国家になったのは明治維新以降といわれます。
日本は清の二の舞にならないためにも、急いで近代化する必要があった。
そこで明治の建国の父たちが目をつけたのが「天皇」です。
彼らは百五十を上回る藩の政府を統一して近代国家をつくる必要があった。これは、どうしても王政復古をして天皇のカリスマに頼る他に道がない。国家を天皇に置き換えて、天皇という個人に忠誠を誓う制度をつくるのが、国家の統一のたった一つの手段であった。
片岡鉄哉『日本永久占領』講談社、1999年、89頁。
それまで、伝統的なアニミズムの神官・祭祀王、斎主であった天皇が、いわば「神輿」として担ぎ出されたのです。
一君万民、国父たる天皇にとって、国民(臣民)全員は同じ子供「赤子」であるという「神話」が成立し、国民国家の紐帯となります。
この天皇制国家の神話は、最終的には太平洋戦争で絶頂を迎えます。
史実では、天皇制国家は、象徴天皇制という別の「神話」に置き換えられます。
その謳うところは、天皇は「国民統合の象徴」です。
政治学において、「ミランダ」「クレデンダ」という概念があります。
米国の政治学者チャールズ・E・メリアムが提唱した概念です。
ミランダは、政治権力が被治者からの服従を得るために行う権威化の手段の内に、情動的・感傷的・非合理的・非理性的なもののことを総称しています。例えば、儀式、栄典、国旗、国歌、軍事パレード、王制などが挙げられます。
他方、理性的な手段はクレデンダと言われます。
戦後日本における後者の代表が日本国憲法であるとするなら、前者の代表は象徴天皇です。
人は、決して理性的なだけの存在ではありません。むしろ非理性的な部分で、そのアイデンティティを維持している部分が大半かもしれません。
非理性的な統合シンボルとしての天皇が欠ければ、日本国民の同胞意識は保てるのでしょうか?
作品世界の戦後は、天皇制を廃止してしまっている可能性が極めて高い。
国民国家としての繋ぎ目であるそれを失って、明治維新以前に逆戻りしたのです。
ネイションの解体です。
(皇室がその後どうなったかですが、昭和天皇が退位し、京都に戻って、元の斎主の家柄に落ち着いたというのが妥当なところでしょうか)
そもそも、広大な領域に広がる国内の住民が「同じ国民」というフィクションは相当無理があります。
リアルなのは、お互いが顔を実際に合わせられる共同体、簡単に旅行ができる範囲、自然障壁などによって隔離された区域。
そういった「地域」こそが生活している住人にとってはリアルな同胞・同族意識の持てる場です。
アリストテレスは『政治学』の中で、
国家の最善の限界とは―自足の生活の要求を満たすために許されるかぎり多く、一見で見渡すことができる程度に多い人口
アリストテレス『政治学』京都大学学術出版会、2018年、356頁。
と書いています。
では、天皇を失って、再び散り散りになった後の共同体の単位は?維新前の江戸諸藩300余りでしょうか?
市町村単位でしょうか。
確かに作中でも、大宮VS.浦和とかでてきましたが、政治行政の単位としては小さすぎるので、都道府県でしょうか。
物理的な統治の面を考えた時、政治権力の最大の責務である「秩序維持」の面からすると、市町村単位は何かと不便のようです。
史実の戦後、占領軍は日本の警察の大改革に着手し、内務省を廃止。人口5000人以上の市町村が独自に警察組織を設立できる自治体警察制度を導入しました(1947年)。
全国に大小様々なそれぞれ独立した警察が雨後の筍のように成立しました。その数1500(!)
ところが、これだけバラバラの警察ができると、特に小規模な自治体では問題が噴出します。そもそも予算が少ないので警察官や装備が十分に整えられない。
また、管轄区域が市町村の行政区域だと、他の自治体に犯人が逃走したら広域捜査ができない。
小さいコミュニティ故に、癒着や恣意的な警察権の行使が行われ、腐敗する。
などなど、問題が続発する訳です。
これではさすがに治安が保てないと、1954年に「警察庁+47都道府県警察」という実質上の国家警察に1本化されました。
ちなみに、現在の日本の消防制度は、この自治体警察制度と同じもので、市町村単位が基本の自治体消防制度です。
しかし、国は、現在消防の広域化(小規模消防本部の統廃合)を推奨しています。上記の警察の問題と同じく、予算や人員の効率的運用や大規模広域災害への対処能力を確保する為です。
将来的には、東京消防庁のように、都道府県単位の消防が理想になるでしょう。
ともかく、「翔んで埼玉」の世界線では、都道府県の連邦制の可能性が高いのでしょう。
そして、天皇制なきところのアイデンティティ、新たなナショナリズムの単位は、「●●県人」という形に落ち着くしかなさそうです。
東京は経済特区?
日本が連邦制だとして、そこでの都道府県には明らかな序列があります。
関東圏においては、東京都と準じて神奈川県が優越的地位にあり、埼玉・千葉県は冷遇されています。
このような状況になったのは、史実のような一億総中流化と称されるような形での高度経済成長は存在しなかったからでは、ないでしょうか。
作中、東京は史実並みの経済発展を謳歌しているように見えますが、埼玉の様子はそれとは正反対、比ぶべくもないような有様です。
この大経済格差。
戦後の経済発展はあったが、それは、日本全体ではなく、一部の地域に集中して、限定してなせた「奇蹟」だったのでしょう。
史実日本の場合、高度経済成長は戦後民主主義と一応セットだった面がありますが、他のアジア諸国にとっては、そうではありませんでした。
いわゆる「開発独裁」(権威主義的開発国家)です。「開発」(経済発展)を優先する為に、民主主義・自由を後回しにしたのです。
それを踏まえると、「翔んで埼玉」の戦後日本は、この方式に近かったのではないでしょうか?
つまり、アジア諸国と足並み揃えて日本も開発独裁国家だったと。
東京都(と神奈川県)は事実上、「経済特区」のような扱いで、リソースを集中し、史実に劣らない(もしかするとそれを超える)経済発展・繁栄を手に入れた。
もう少し範囲を広げて、東京から名古屋、大阪に至る「東海道メガロポリス」のみに国富を集中させ、繁栄を謳歌した。
但し、他の日本の「地方」は見捨てる形で。そこに埼玉・千葉も入っているのでしょう。
本作での最大の争点となる通行手形という国内パスポートも、元来は経済特区を隔離する為の措置でしょう。
問題は、これを仕組んだのが誰か?ということです。
開発独裁にはそのセットにそれを強力に指導するストロングマンの存在が欠かせません。
シンガポールのリー・クアンユー、インドネシアのスハルト、韓国の朴正煕、台湾の蒋親子…etc.
では、日本は?
田中角栄?(笑)
ここでネックになるのが、最初から指摘している「日本政府の存在感の欠如」です。
中央の強力な指導者が存在するならば、彼の存在を匂わせないと、本作は成立しないのです。
なぜなら、開発の方向性(東京優遇)とそれを保障する差別政策を打倒しようとする埼玉解放戦線の行動は、テロリスト・国事犯(政治犯)なので、その弾圧・鎮圧は、どうしても国家の役割となる。
しかし、出てくるのは、東京都の実力組織SAT(Saitama Attack Team)や警視庁ばかりです。
思うに、通行手形発行権を手にする東京都知事は、かなり強い政治権力を持っていますが、ストロングマン、日本の開発独裁を指導する人物とは思えない。
なぜなら、作中、その知事自身が、不正蓄財で警視庁に逮捕されています。
普通に開発独裁の指導者ならば軍・警察は私兵の筈。
民衆蜂起による最期ならば、蜂起した人民に打倒されることでしょう(エドゥサ革命のマルコスを見よ)。
しかし、作中では埼玉・千葉県民の蜂起は、あくまで暴動の類で、それを利用した不正蓄財の告発という、いささかスケールの小さい騒擾で描かれます。
ルーマニア革命のように、軍が民衆側に味方してチャウシェスク大統領を逮捕した様子と重ね合わせる方もいるかもしれませんが、警視庁が蜂起民衆側に呼応して知事が逮捕されたわけではないのです。警視庁は政治的中立をある程度保っている。
なぜなら、麻実 麗ら暴動の首謀者らも、騒乱罪の疑いで、警視庁に連行されて行きます。
本当の革命なら、麗らは新しい革命政府首脳に大逆転なのに。
ここから類推できることは、都知事は極めて上位の政治的実力者だが、それを上回る法秩序・政治的権威は存在している。
本来なら、それは日本政府、国権の三権なのですが、先ほどから繰り返しているように、その影が見えません。
あるとすれば、全国知事会議が存在して、その同輩中の首席。
想像するに全国知事会議常務委員会(チャイナセブンならぬジャパンセブン)の議長席が東京都知事の指定席。ここが日本連邦制の最高指導部。
それ故、最有力者ではあるが、独裁者ではなく、巨大なスキャンダルならば失脚もする。
ジャパンセブン以外の知事は序列化されており、埼玉県知事は最も下位、末席の位置づけなんでしょう。
(ジャパンセブンに入る知事はどこでしょう?東京、大阪、京都、愛知、兵庫、福岡、神奈川あたりか…)
ともかく、この全国知事会議、特にその常務委員会こそが、実質的に、準日本政府なのです。
…なぜ「日本政府」と言い切らないのか。「準」が付くのはなぜなのか。
それは、やはり、本当の意味での、主権国家としての日本政府は、この作品の世界線に存在しないからです。
分断して統治せよ
「権力に本質的に備わっているダイナミズムは、そもそも連邦制度とは相容れないものである。権力というのは「連邦的」な形式を失わせながら永遠に中央集権化していくか、さもなければ合意、もしくは秩序だった全員の認めるプロセスがある、なしにかかわらず、地方分権化して、完全な分離独立運動へと容易に転がりだすものだ。」
ルトワック『“ルトワック”のクーデター入門』芙蓉書房出版社、2018年、85-86頁。
仮に、全国知事会議が準中央政府たる連邦制国家日本が成立していたとして、なぜそうなってしまったのか?
なぜ、日本政府は存在しないのか?
本記事の冒頭での議論を更に進めることになりますが、その消滅パターンは大きく分けて2つあります。
- 1945年8月14日の宮城クーデターが成功し、戦争が継続。本土決戦となった場合(ドイツと同じ運命)
- 連合国の占領政策が史実より過酷で、日本政府が実質的に解体させられた。
前者①の場合、本土決戦という悪夢が展開されます。東京や松代が陥落するまで戦われたかは定かではありませんが、作中の埼玉の発展途上な光景は、これだと説明がつくかもしれません。なんせ焦土になるでしょうから。
このパターンの場合、ソ連軍は北方四島では飽き足らず、北海道にも侵攻してくるでしょうし、目も当てられない状況が待っています。北海道は日本から切り離され赤化・衛星国になっているかもしれません。
ナチス・ドイツと同じく日本政府は消滅します。
後者②の場合、1945年8月15日に、史実通り降伏していますが、連合国の対日方針が極めて厳しいものになったパターンです。
史実の日本占領は比較的穏健でしたが、当初からその方向性だったとは限りません。
ドイツに対する占領計画では、悪名高い「モーゲンソー計画」が企図されていました。
これは、モーゲンソー米財務長官の名を冠したもので、ドイツから工業力を完全に取り上げて、牧畜国家にしてしまおうというものであり、あまりの過酷さから、実際には実施されませんでした
日本に対しても、同様の措置が適用されてもおかしくはありません。
両方のパターンで言えることは、日本への「恐怖心」です。
大日本帝国の急激な版図拡大と、ミッドウェー海戦以後の執拗なまでの抵抗は、連合国にとっては「異質」への恐怖以外の何物でもありません(カミカゼを見よ)。
憲法9条や在日米軍の「瓶の蓋論」もこの系譜から出てきます。
そこで、連合国、特に米国は次のような対日方針を決断したのではないでしょうか。
日本帝国を解体し、都道府県の連邦制国家とする。その都道府県の知事の協議体をもって国政の最高機関とするが、その決定には対しては米国が拒否権を持つ。また、外交権はこれを米国が監督し、安全保障上の責任は米国が担任するものとする。
要するに、米国の保護国です。内政自治権を認められたに過ぎないのです。
ちょうど、米国統治下の沖縄の琉球政府のようなイメージでしょうか。
この世界線の日本は、「エコノミック・アニマル」かもしれませんが、G7というクラブには決して入れません。
更に敷衍すれば、日帝復活を阻止するには、日本人が再びネイションとして結集しないように、都道府県間に対立構造を作り、憎悪を煽った方が良い。
ローマ以来の「分断して統治せよ」です。
さすがアングロサクソン、イギリス兄貴の植民地経営をよく学んでいらっしゃる。
つまり、「主権」(その国家の絶対的・不可分・不可侵な最高の権力)は米国の手にあります。
日本人同士が、いくら国内で争っていても、それは、所詮「コップの中の嵐」です。
米国は傍観。
それが日本国の再統一、主権回復に向かわない限りは。
この仮説で行くと、日本は自前の軍隊を当然有していないので、自衛隊も存在しません。
代わりに強力な在日米軍が駐留しているはずです。
日本側の物理的強制装置は、自治体警察(都道府県警察)のみで、機動隊が最も強力な実力手段になります。
埼玉・千葉解放戦線が都心になだれ込んでも、機動隊による鎮圧行動しかなされませんでした。つまり非致死性武器(警棒、放水)による制圧と逮捕。
もし、これが、通行手形撤廃のような、現地人(=日本人)同士の「コップの中の争い」ではなく、日本の主権回復などの要求であったならば…。
そこに立ち塞がるのは、機動隊員ではなく、完全武装の在日米軍部隊であり、放水や警棒の代わりにアメリカ兵のM16小銃が火を噴いたことでしょう。
「天皇」から「東京」へ
私には、“東京”がどうあるべきかを性急に考えるよりは、“東京”とは何であったかを内側から自覚するほうがはるかに重要であろうと思われるのである。
磯田光一『思想としての東京』講談社、1990年、44頁。
さて、以上のように、作品世界の隠された政治構造を妄想・邪推シミュレートしてみましたが、今一度、なぜ「東京」と「埼玉(地方)」という構図だったのでしょうか?
「翔んで埼玉」の東京―地方の対立関係を更に大きく、全国規模にした作品として、筒井康隆のSF小説『東海道戦争』が挙げられます。
この作品では、ある日、突然に東京と大阪が「戦争」を始めてしまう様を、ブラックユーモアいっぱいに描いています。自衛隊も警察も東西に分裂し、東京側の自衛隊は、東海道を西侵してくる。
そんな世情騒然の中、こんな場面があります。
聴衆を前に、曽根崎警察署長が演説をぶっているのですが、
「マスコミに毒された・・・中央意識・・・地方人共通の敵であり・・・日本の・・・対外的威信ひいては国家的信頼感を失墜」
筒井康隆『東海道戦争』中公文庫、1994年、23頁。
このプロパガンダには、「地方人」としての劣等感とそれを逆手にとった闘争心が満ち溢れています。
なぜここまで、「地方人共通」の敵に「東京」は、なりえるのか?
そして、東京の「中央意識」とは何か?
これを考える上で、再び「天皇制」に注目してみましょう。
日本を代表する政治学者丸山真男(1914-1996年)は、その代表的論文「超国家主義の論理と心理」(1946年)で、天皇制国家の構造を明らかにしています。
そこで、「天皇」と「距離」について、次のような分析をします。
曰く、日本では、あらゆる分野(学問・芸術・宗教も含む)が、国家に内包されていて、国家(公)と拮抗する「私(個人)」というものが確立されていない。
結果、個人の価値は、その国家の中心たる「天皇」との距離によって、その価値が決まる。
天皇に近い層から最も遠い層に至るまで、全臣民が配置される形を採る「国体」、即ち「天皇との距離」というこのシステムは、上からの圧迫感・重圧を常に感じて、それを己よりも「下」へと移譲するという構造に陥る。
下へ下へと「抑圧」が移譲されていくことになるのです。
(丸山はこれが日本国外にまで拡大して、アジア侵略での悲劇があったことも論じています)
史実戦後の象徴天皇制において、これが継承されたかどうかは、また別の議論として、「翔んで埼玉」の戦後日本においては、このシステムはそのまま主役を変えて生きています。
天皇に代わってそこにいるのは、「東京」です。
どれだけ自分が「東京」に近いか。それを作中では「都会指数」という言葉で表しています。
「中央意識」です。
当然「抑圧の移譲」も健在で、東京の中心を離れれば離れる程に、その地域と住民の価値は下落していきます。
冒頭の白鵬堂学院のクラス(居住地別)の「序列」が紹介されるシーンは、これそのものです。
埼玉は抑圧される最下層です。
現実の、やれ世田谷だ、田園調布だ、麻布だ、などという唾棄すべきマウント合戦の本質はここにあります。
止まれ。しかし、敗戦によって、「東京」も実は「地方」だという逆説が生まれます。
“東京”に君臨したマッカーサーという名の政治的父性が、外国人であったということである。 マッカーサーの故国アメリカを中央とすれば、日本は”地方”である。そして”東京”はまぎれもなく“世界の地方都市”にすぎなくなった。
磯田光一『思想としての東京』講談社、1990年、125頁。
東京の背後には、米国という「本当の中央」が君臨している訳です
それによって、東京は必死に米国を、ひいては西洋を模倣し始めます。
(注意すべきは、明治期の文明開化とは、本質の部分で異なるのです)
異人マッカーサーが世界の中心的父性として君臨したとき、”地方人”にすぎない“日本人”の示した反応は次のような二重性をもった。その一つは、父性を模倣することによってしか自己の価値を示すことができなくて、アメリカ文明の浸透をほとんど無際限にしてしまったことである。
同上書、125頁。
麻実麗は米国帰りということで、白鵬堂学院の生徒が羨望の眼差しを向けますが、あれこそ、まさに宗主国アメリカへの崇拝と劣等感の裏返しでしょう。いわば「名誉白人」。
(ちなみに、麗が米国帰りというのは、植民地経営において、属国のエリートを宗主国が育てるという支配システムの伝統に適っていますね)
そして、このシステムでは真の中心に対しては、叛逆はありえません。
天皇に対しての決定的な叛逆がないように、アメリカに対しての決定的な叛逆もない。
表に出てきている「東京」という模倣者に「地方」の敵意は集中します。
その最大値が東海道戦争の世界線であり、そのスケールダウンしたものが「通行手形撤廃闘争」です。
あれ?現実の戦後民主主義も同じじゃねえ?
【参考文献】
磯田光一『思想としての東京』講談社、1990年。
片岡鉄哉『日本永久占領』講談社、1999年。