2015年(仏、ベルギー、ルクセンブルク)、監督ジャコ・ヴァン・ドルマル
あらすじ
ベルギー、ブリュッセル。
この街のアパートメントの一室に住む、酒浸りのろくでなし親父。
毎日、妻と娘に暴言を吐いて、時には手も上げる。
そんな彼の正体は「神」だった。
毎夜、書斎のパソコンで、人類に不幸の種を撒き、それを嘲笑って悦に入るのが日課。
そんな父に愛想尽き果てた10歳の娘のエア(演:ピリ・グロワーヌ)は、一大反抗作戦を仕掛けた。
父の書斎に忍び込み、全人類宛てに「余命メール」を送信し、パソコンを使えなくした上で、家出を決行した!
※以下、ややネタバレあり
とってもキュートなハートフル・コメディー映画(?)
神の娘が送った余命メールで、自らの命数の残りを知った故に、人生の意味を問い直す人々の姿を描いたハートフルなコメディー映画です。
なにより、主人公のエアが可愛い!愛らしい彼女が、人生を問い直そうとする6人の老若男女の元を訪ね歩く物語です。
なぜ6人かというと、同じく家出中の兄JC(イエス・キリスト)の助言で、自分の12の使徒とエアの6人を合わせて18人にすれば、「新・新約聖書」が完成し、世界が変わる!というから。
(18人というのは、エアの母=女神が、野球好きだから)
「キュート」な「ハートフル・コメディー映画」という看板に噓偽りは無いんですが、それ
は、本作の一面に過ぎません。
エアの可愛らしさに塗色されていますが、本作は結構「攻めて」います(彼女に騙されてはいけない!)。
とにかく、エアの父親、神(演:ブノワ・ポールヴールド)が、ほんとに最低なヤツです。
人間の不幸を嘲笑うわ、小さな悪戯を仕掛けるわ、エアを叩くわetc.
エアを追いかけて、ブリュッセルの街に来た後も、子どものパンは奪うわ、炊き出しの列を横入りするわ、親切な神父の過去のトラウマを抉り出すわ、でやりたい放題(人々からボコボコにされますが・・・)
なんでこんなヤツが神なのか?エアにまで「最低な神ね」と吐き捨てられます。
ちょっと待ってください。この「神」の行動、そんなに間違っていないんです。
実は鋭い神学的作品
旧約聖書の神は、結構コワイ存在です。
短気ですし、妬みます。全然優しくありません。自らへの侮辱(涜神行為)には、皆殺しをもって応じようともします。
「ヨブ記」をご存じでしょうか?善良で敬虔な人ヨブを、神とサタンがヨブの敬虔さを試してみる為、次々と苦難を与え不幸にしてしまう物語です。
また、キリスト教には「予定説」というものがあります。これは、個々人の運命(誰が救済されて、誰が救済されないのか)は、あらかじめ定まっており、善人だろうと悪人だろうと関係ない。人間の因果応報の全面否定です。
「神はなぜ悪を放置するのか?」といった神と悪の問題(議論)を、神議論(弁神論)と言います。ヨブ記にはじまり、20世紀でいえば、アウシュヴィッツとヒロシマの惨状。
なぜ悪があるのか?悪が許されているのか?という疑問。
これは神学、宗教哲学の一大テーマです。
本作に答えがありました。あのブリュッセルの酔っ払い野郎のせいです。
「死」とは何か
そんなクソ親父に反抗したエアは、世界中の人々に余命メールを送信します。
「死」は誰にもいつかは訪れますが、普段、それを人は「忘れたふり」をして、日常を過ごしています。その逃れられない真実を、突然、突き付けられた訳です。
多くの人が、自分の人生の「意味」を問い直そうとします。その姿が、6人の使徒に代表されているのです。
逆に言えば、「死」というのは誰も経験したことが無いわけですから、恐れることも本来はナンセンスなんですよね。
死を恐れない元祖といえば、この人、ソクラテス。彼の独壇場『ソクラテスの弁明』では
「死を恐れるということは、いいですか、諸君、知恵がないのに、あると思っていることにほかならないのです。なぜなら、死を知っている者は、だれもいないからです。」
『プラトン全集1』岩波書店、1975年、82頁
言われてみればその通りです。
余命メールが来て、ようやく「死」と向き合う位に、人間は度し難いのです。
カトリーヌ・ドヌーヴ!
あらすじ位しか前知識なく鑑賞したんですが、まさか使徒のひとりとして、カトリーヌ・ドヌーヴが出演しているとは!
フランスが誇る世界的大女優です。「世界で最も美しい」とさえ言われていました。
個人的には、近年だと「8人の女たち」(2002年、フランソワ・オゾン監督)。若かりし頃だと、「終電車」(1980年、フランソワ・トリュフォー監督)での彼女が好きですね。
それはさておき、その彼女の役が、結構ぶっ飛んでいるというか・・・、なかなか衝撃的でした、はい。