「哲学者」という自称あるいは肩書についての違和感

「ではまさにこの点についても,君は同じ考えだろうか?ほかでもない,多くの人々が哲学に対してきつく当ることのそもそもの責任は,その柄でもないのによそから入りこんできた,あの騒々しい連中にあるということだ。彼らは,お互いに罵り合い,喧嘩腰であって,いつも世間の人間たちのことばかり論じるという,およそ哲学には最もふさわしからぬことをしている」

プラトン『国家』(下)岩波書店、2000年、58-59頁。

テレビなどで識者・専門家が登場し、キャスターが紹介したり、肩書のテロップが出ます。

「●●大学教授」とか「元●●」、あるいはその人の専門分野から「経済学者」「社会学者」・・・etc.

ところで、「哲学者」という紹介や肩書で紹介される方が時たま見受けられます。

これを観た時は、いつも大きな違和感を感じずにはいられません。

今回はこの違和感を探ってみます。

なぜ肩書が必要なのか?

そもそも、メディアに識者が登場する時、なぜ肩書を明示する必要があるのでしょうか?

それは言う間でもなく、その識者の言葉に専門性を、製作者サイドも視聴者も期待しているからです。

どこの誰かわからない人の意見は求めていないという事です。

それは、そのメディアが取り上げている事象・事件・問題に関して、その事柄に関しての

固有の、専門の知識(専門知)が存在していることを暗黙の内に世間が了解しているからです。

逆に、いわゆる「街の声を聴いてみました」的な街頭インタビューは、専門知を求めている訳ではなく、多数の意見、思いの傾向を集めているに過ぎません。世論ということです。

専門知とは異なるもの、それは臆見(ドクサ)です。

ここに知識と憶見(ドクサ)の違いがあります。

例えば、テレビショーなどで、専門家を呼んでいるのは、その分野の専門知からの分析・解説を聞きたいのであって、他方、雛壇に並ぶ門外漢の芸能人に意見を尋ねるのは、その延長線上にある世論というドクサを代弁させているに過ぎません。

学問の分化と哲学との緊張

さて、しかし、「哲学者」に専門知があるのでしょうか?

ふと気づいたのが、その違和感は歴史を遡るほど増していくという点です。

例えば、「国際政治学者」という肩書きにはさして違和感を抱きませんが、それは国際政治学が比較的「若い」学問であるからではないでしょうか。

国際政治学は20世紀の二つの過酷な世界大戦をその契機として生まれた学問といえます。

一方、「哲学」は(議論はありますが)その生誕を紀元前の古代ギリシアに求められます。

古代ギリシアにおける「哲学」はその語義「知を愛する」の通り、全ての知的な営みを包括したものでした。

その後の歴史(学問史)は、この哲学から、様々な学問が分派(分離)し、専門化していく歴史でもあります。

例えば、自然に関することは、近代になると「自然哲学」か「自然科学」へと分離(独立)
します。

このような哲学からの各学問の分離(枝分かれ)については様々な議論・アプローチがありますが、本記事の関係で注目したいのは、哲学には、倫理的・規範的な部分が遺された点にあります。

つまり、哲学から分離した各学問が「科学」を標榜する時(社会科学とか)、そこには、数量的・物質的な側面がメインであり、倫理とかの問題には大きく関わらない。

このような二分構造(あるいは対立構造)は、政治学の分野で見ると分かりやすいです。

政治学で「科学」を標榜する時、それは「政治科学」ですが、他方、哲学と極めて近しい(一分野でもある)古代からの「政治哲学」が存在します。

政治科学が、現実の政治(現象)を分析したり、予測したり、数値化・数量化するのに対して、政治哲学は、倫理的な問題や抽象的な政治論を扱います。

この政治哲学の特徴を最も端的に示しているのが、以下の一節です。

政治哲学は、政治的事柄の自然と、正しいあるいは善い政治秩序の双方を真に知ろうとする試みである。

レオ・シュトラウス『政治哲学とは何であるか?とその他の諸研究』早稲田大学出版会、2014年、4頁。

「正しい」とか「善」という、およそ「科学」に似つかわしくない事柄を探求するのです。

哲学には、このような価値判断、正邪の問題が絡んできます。それが、他の学問との摩擦を生んでいるのです。

哲学者への期待

情報番組において、インテリをコメンテーターにして、様々な問題について意見を求めるものをよく見かけます。

これは、要するに、その人に「哲学者」の役割を期待している訳です。

東浩紀は「哲学」を「観光」に喩えています

観光客は無責任にさまざまなところに出かけます。好奇心に導かれ、生半可な知識を手に入れ、好き勝手なことを言っては去っていきます。哲学者はそのような観光客に似ています。哲学に専門知はありません。哲学はどのジャンルにも属していません。それは、さまざまな専門をもつ人々に対して、常識外の視点からぎょっとするような視点を一瞬なげかける、そのような不思議な営みです。

東浩紀『弱いつながり』幻冬舎、2014年、155頁。

コメンテーターが担っている役割そのものですね。

専門知を超えて、各事象への価値判断(究極的には正邪・真偽の判断)を期待しているとも言えます。

では、(雛壇芸能人は論外として)、各分野の研究者などは、そのまま即「哲学者」と見なされるのでしょうか?

議論はありますが、「哲学者」ないし「哲学」という言葉は、個々に分化した専門知を超えた()()の存在を前提にしているのではないでしょうか。その「何か」を、神や真理、普遍など、どのような名で呼ぼうと構いません。

ここでの要点は、個々の専門知を超えた、それらを統御・総攬する「知」が、独立して存在するという前提に立っているという点です。

従って、個々の専門知のプロフェッショナルであるからといって、イコール、そういった高次の「知」に必ずしも与っているとは限らない筈です。

「哲学者」と「専門家・学者」の差異

そのような高次の知、便宜上「哲学知」としますが(古代のように形而上学でもいいのですが)、それに彼の人が与っていると、如何にして知る事が出来るのでしょうか。

これは、極めて難しい問題です。

なぜなら、専門分化した専門知は、それぞれ、総論と各論が体系化され、読むべき古典、教えるべき共通知、教育・研究機関、学位などが存在し、「専門家」と呼ばれる人が自他(社会)ともに認められる形で存在します。

故に職業としての肩書も成立する。「経済学者」とか「社会学者」とか。

こう書くと、

「え?大学にも哲学科はあるし、哲学の講義も教科書もたくさんあるでしょ?」

と当然の疑問の声が上がるはずです。

それはその通りなのですが、「哲学」になるとやや話が複雑になってきます。

確かにコメンテーターやゲストに「●●大学教授(ギリシア哲学)」とか「本日はマルクス主義がご専門の●●大学教授の・・・」みたいな専門家はご登場されますし、彼ら彼女らは、専門教育を受けた、「哲学」の専門家です。

ところが、ここで言う「哲学」と先ほどからの「哲学知」という概念には、微妙なズレがあります。

ここでのアカデミックな「哲学」は、要するに、「哲学()家」(哲学史研究者)であったり、哲学の各論としての美学とか論理学とか分析哲学とか・・・etc.、それらのエキスパートであって「哲学()者」な訳です。

「普遍に与る」「真理に与る」といった一種、現世を超越してしまった「哲学者」という人種とは必ずしも一致しない。

再び、自称「哲学者」への違和感

古代ギリシアの哲学者(・・・)プラトンは、主著『国家』の中で、国家を船に喩える話をしますが、そこで、哲学者を「星を見つめる男」に喩えています。

周りの水夫からは、役立たずと思われていますが、彼が見ている星空は、高度な航海術であり、星座や星の位置、水平線の高さといった事から航海しようとしている訳です。いわゆる「スターナビゲーション」。

水夫たちは、それを知らないので、彼のことを、「要らぬ議論にうつつを抜かす男」なぞと小馬鹿にします。

プラトンは、これを国家(社会)の現状と真の哲学者の置かれた不遇に関しての比喩として展開していますが、本記事との関係で言えば、専門知を極めた専門家は、優秀な卓越した水夫ですが、果たして、星(真理・普遍・形而上世界)を見る真の舵取り(哲学者)であるかはその限りではありません。

勿論、アカデミックの専門家で「哲学者」(星を見つめる人)と呼びたくなる方は、幾人もおれらますが、問題は、それが、果たして、今、肩書として呼びうるものなのかです。

「星」というのは、人間の一生、否、人類の歴史と比べれば、永遠に思えるものです。

その様な星の世界は、時空間を超えた普遍に似通っています。

果たして、そんな星=普遍を観る(テオリア)することが人の身に可能なのか?

仮に可能だとして、もっと時間をかけて、他者から、その真偽を吟味する必要があるのではないのか(歴史の審判)?

故に軽々に「哲学者」を名乗るのは危ういし、半ば、人の世から片足を出してしまったようなこの人達を、肩書きという浮世の一時の職業名のような形で「哲学者」と紹介するのは余りに不釣り合いではないのか。

ここに違和感の核心があります。

念のため断っておきますが、「哲学者」の肩書への違和感のお話であって、現在その肩書のある方が、専門知において、学者としてダメとかそういう話では全くございませんのであしからず。

但し、自称「哲学者」は、それだけで誤解を受ける可能性もあります。わざわざ火の粉を身に振りかけているような感があります。

「私は星が見える」と名乗っている場合、無知の知を忘れた、一種の知的傲慢さを感じさせることがあります。

哲学に対して寄せられている、これとは比較にならないほど最も強力な非難・中傷はといえば、その原因は、哲学的な仕事にたずさわっていると自称(・・)している者たちにある。君が紹介する哲学誹謗者が、『哲学に赴く者の大多数は、まずまったくの碌でなしであり、その中の最も優秀な者たちですら、役立たずの人間だ』と言うのは、ほかならぬそういう自称哲学者たちのことを言っているのだ。

プラトン『国家』(下)岩波書店、2000年、31頁。