押井守×おおのやすゆき『西武新宿戦線異状なし』~永遠の「少年」たちの革命ごっこ

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「血を流すべき時に流さなかった歴史のツケは必ずまわってくるってことさ。

内戦ひとつまともにできねえオレたちの国みてェにな」

『西武新宿戦線異状なし』日本出版社、1994年、124頁(カントク)

【あらすじ】

静岡で平凡に暮らす高校生丸輪零。そんな日常をぶち壊すように、東京にてクーデター勃発!

あっという間に革命勢力により国道16号内円が「解放区」にされた東京と、大阪に退避した日本政府による分断国家となったニッポン。 

気が付けば、零は、越境し、革命志願兵として革命防衛隊に入隊!憧れの戦車部隊に配属されるが・・・。

置き土産を探しに・・・

押井守原作、おおのやすゆき画によるミリタリーコミックです。

もちろんタイトルはレマルクの『西部戦線異状なし』のオマージュ(パロディ)。

東京で自衛隊一部勢力によるクーデターが勃発し、臨時革命政府が成立。

ロマン求めて、解放区に越境した平凡なミリタリーオタクの高校生が配属されたのは、たった1両のポンコツ戦車回収車しか装備がない、名前ばかりの部隊。

おまけに隊員は一癖も二癖もある怪しい男3人組(「カントク」「トメ」「トッつあん」)。

この三人組、物資の横領やらなんやらで、贅沢三昧。

秋葉原のCDやらPC機器やらを国道16号の「向こう側」(日本国)に売りさばいたり、親衛戦車連隊(旧富士教導団)の90式の部品を横取りしたりと、好き勝手にやっています(それに哀れ主人公も加担させられる訳ですが)。

ところが、それがバレて検挙されると、突然、党政治局直属の政治(コミッ)委員(サール)である謎の美女ケイの指揮下に入り、「ある目的」の為に、軍用列車で西武新宿線を西へ、西へ・・・。

この目的=置き土産を探しにいく道中。長編にして、様々なエピソードを盛り込めれば、なお良かったなと思います。

永遠の「ごっこ」としての「革命」

本作で描写される東京は往年のベイルートの様な有様です。

蜂起に続く、分裂した自衛隊(政府軍と反乱軍)による市街戦(7日戦争)で、廃墟同然、ケイ曰く「首都の廃墟で難民まがいのキャンプ生活」の有様です。

経済大国ニッポンの首都・大都会(メガロポリス)東京が、その地位から滑り落ちた惨めな姿。

都心は市街戦で廃墟同然。

郊外、国道16号線周辺も軍事緩衝地帯と化し、住民は消え、ただ巨大なカッラポの住宅地が延々と拡がる。

そこで赤軍(旧自衛隊反乱軍)だけが元気に張り切っている風景。

これは、「ごっこ」ではないか。ふと、そう感じました。

この「ごっこ」の体現者が作中のカントクなんでしょう。

カントクは、パトレイバーの後藤隊長などに見られる押井守得意の中年オヤジ、もちろん、押井守自身の代弁者。

宮崎駿が押井守の代表作「機動警察パトレイバー2theMovie」を巡る対談で、次のように言っています。

「それで自衛隊を町の中に出してきて、これは軍隊だと見せたいと。そこで押井さんはどこにいるかというと、軍隊の戦車の中の戦車兵のほうにいるんだ。だからあの映画は下々の兵士に対しては、 実に心配りがされている映画で(笑)。その辺に生きている納税者に対しては一切の心配りのない映画。」

月刊「アニメージュ」1993年10月号、29頁。

これ、カントクと近くありませんか?

終盤、「置き土産」を巡って、米軍が放棄した横田基地で、ケイとカントクが言い争います。

ケイ「いつまでも首都の廃墟で難民まがいのキャンプ生活を続けるわけにはいかないのよ!!」

カントク「俺ぁ、それでもかまわねぇ・・・。と言うより、それこそが俺にとっての革命なのさ。そのために、いいトシして越境してきたんだ・・・。嬢ちゃんにはわからんだろうがな。」

ケイ「―野良犬らしいセリフね・・・」

『西武新宿戦線異状なし』日本出版社、1994年、238頁。

ケイの信じる「革命」、共産国家として独立するそれと、カントクの「革命」には埋めようもない「溝」があります。

自衛隊のクーデターによる東京解放区の誕生は、それが「ごっこ」だったとしても、平凡な、怠惰な「戦後」を生きていかざるを得ない男たちにとって、一種のユートピアなのかもしれない。

たとえ、国道16号の向こう側(日本)が、モノが溢れた豊かな世界であっても、そこは「退屈」で「窮屈」な「永遠の日常」なのです。

カントクにとって、この「日常」から脱却することが自身の「革命」なのでしょう。

その「ごっこ」を暮らすためなら、別に、マルクス・レーニン主義だろうが世界革命だろうが、お題目は何でもいい。

「天皇陛下万歳」が翌日から「ウラー」になっても構わない。

べつに「革命ごっこ」であろうと「戦争ごっこ」であろうとどちらでも構わない。

「戦後」という「日常」からの脱却だけが目的なのです。

戦車の上から眺められれば、それでいい。その状況こそが目的になる

これは、後年、押井守が劇場版「機動警察パトレイバー2theMovie」で描いた「戦争」と酷似します。そこでの「戦争」は、戦争という状況を演出してみせること、それ自体が手段ではなく目的でした。

★関連記事「機動警察パトレイバー2 the Movie」の政治哲学的考察【全3回】

カントクて何のカントク?

こう見ていると、零とカントクは、共に夢見がちな「少年」と言える。

ただ、前者が、「世間」を知らない、まだ本当に少年であるのに対し、後者は、酸いも甘いも知る中年。「戦後」という日常に辟易してる男である点です。

前者は今の「日常」の退屈を、それが将来も延々と続くことを知らないが、予感している故に、越境しますが、後者は「日常」が延々と続くことを達観している。

結局、カントクは、一体何の「監督」だったのでしょう?

草野球?工事現場?

ケイの言う通り映画監督だったのかもしれません。

但し、()井守(・・)監督(・・)という。その分身、代弁者として。