「正義は力の等しい者の間でこそ裁きができるのであって、強者は自らの力を行使し、弱者はそれに譲る、それが世の習いというものだ」
トゥキュディデス『歴史』※1
日本アニメーション史上、おそらく最高傑作であり、かつ最大の問題作である押井守監督による劇場用長編アニメーション「機動警察パトレイバー2 the Movie」(1993年)。
未だ、多くの映画ファンやインテリの間で話題になり、議論になる本作ですが、その中でも、物語中盤、実質的な主人公である後藤喜一と自衛隊の情報部員(陸幕調査部別室)の荒川茂樹によって交わされる「戦争と平和の問答」は、本作のテーマ、押井守の政治思想が強く滲み出た印象的な場面です。
以前、別の記事で、押井守の戦後論としての「機動警察パトレイバー2 the Movie」考察を書きましたが、今回は、よりミクロ的に、この「戦争と平和」の問答を読解していきます。
また、それに関連する別場面での、後藤と荒川の会話も共に考察していきます。
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「戦争と平和」
まず、件の問答を確認しておきましょう。
航空自衛隊の自動警戒管制組織を舞台にした「幻の空爆」が演じられた後、葛西臨海公園(水族園)で密会する後藤と荒川の間で、以下のようなやりとりが交わされます。
荒川「後藤さん。警察官として、自衛官として、俺達が守ろうとしているものってのは、何なんだろうな。
前の戦争から半世紀。俺もあんたも生まれてこの方、戦争なんてものは経験せずに生きてきた。
平和、俺達が守るべき平和。
だがこの国の、この街の平和とは一体何だ?
かつての総力戦とその敗北。米軍の占領政策。ついこの間まで続いていた核抑止による冷戦とその代理戦争。そして今も世界の大半で繰り返されている内戦、民族衝突、武力紛争。
そういった無数の戦争によって合成され支えられてきた、血まみれの経済的繁栄。
それが俺達の平和の中身だ。戦争への恐怖に基づくなりふり構わぬ平和。
正当な代価を、よその国の戦争で支払い、その事から目を逸らし続ける不正義の平和。」
後藤「そんなきな臭い平和でも、それを守るのが俺達の仕事さ。不正義の平和だろうと、正義の戦争より余程マシだ。」
荒川「あんたが正義の戦争を嫌うのは、よく分かるよ。かつてそれを口にした連中に碌な奴はいなかったし、その口車に乗って酷い目にあった人間のリストで歴史の図書館は一杯だからな。
だがあんたは知ってる筈だ。正義の戦争と不正義の平和の差はそう明瞭なものじゃない。平和という言葉が嘘つき達の正義になってから、俺達は俺達の平和を信じることができずにいるんだ。
戦争が平和を生むように、平和もまた戦争を生む。
単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか?
その成果だけはしっかりと受け取っておきながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。いや、忘れた振りをし続ける。そんな欺瞞を続けていれば、いずれは大きな罰が下されると。」
後藤「罰? 誰が下すんだ?神様か?」
荒川「この街では誰もが神様みたいなもんさ。いながらにしてその目で見、その手で触れることのできぬあらゆる現実を知る。何一つしない神様だ。神がやらなきゃ人がやる。いずれ分かるさ。俺達が奴に追い付けなければな。」
黄昏の迫った東京湾岸の風景と共に、高速艇に揺られる後藤が、荒川と交わした会話を反芻するといった形になっています。以下の章では、それぞれの台詞の意味・背景を読解していきます。
「それが俺たちの平和の中身だ」
荒川は、経済大国となった戦後日本のそれが、血まみれだと言います。
武器輸出を事実上禁じ(武器輸出三原則)、平和主義を標榜してきた日本が、なぜ、そう言われるのか。
そもそも、敗戦後、吉田茂の軽武装路線・経済優先の戦略と米国(特にマッカーサーの)による日本非武装化の方針がありました。
しかし、このマッカーサーの方針に対して、ワシントンから異議が唱えられます。いわゆる「逆コース」です。
マッカーサーの路線を批判した人物として、米国務省のジョージ・F・ケナンが知られていますが、ケナンの考え方は、以下のような国際政治のリアリズムにあります。
リアリズムの中核にあるものは、主権国家とその背後にある特殊な歴史に対する厳粛な態度である。一国の歴史は、その国に固有な、特殊なものであり、ユニヴァーサルな尺度で判断できない。しいてユニヴァーサルな尺度を探せば、それは法律的な、抽象的な、浅薄なものになり、それを他国にあてはめようとすれば、イデオロギーである。
片岡鉄哉『日本永久占領』講談社、1999年、108頁。
平和憲法により「東洋(太平洋)のスイスたれ」と考えていたマッカーサーの路線(それはリアリストから見れば、法律的な、抽象的な、浅薄なものに見えたでしょう)とは大きく対立するのは明白です。米ソの蜜月は終わりが見え、冷戦という「長い長い戦い」が迫っていました。そこに、ナイーブな、理想主義が入り込む隙は無さそうでした。
マッカーサーは自分自身でつくった、とんでもないジレンマにひっかかってしまった。憲法は、占領統治と全改革の頂点であり、金字塔であり、彼の「偉大さ」の証であった。この憲法を恒久化するためには、その生いたちを隠し、一刻も早く占領を終結する必要があった。占領が長引けば、憲法が怨恨の対象になりかねない。それを避けるためには一刻も早く講和にもっていきたい。だが憲法がある限り、日本は占領継続以外に防衛の手段がない。
同上書、115頁。
このマッカーサーのジレンマは、そのまま戦後日本のジレンマとなります。
朝鮮半島で戦いの火の手が上がったことで、それは決定的になります。
日本はジレンマを抱えたまま、「平和憲法下の再軍備」に走ります(警察予備隊の創設)。
しかし、日本にとって幸運であったのは、このジレンマによって、大規模な軍拡も海外派兵も回避できたことです。
今度は、軍事力ではなく、経済力を武器に世界に躍り出る切符を手に入れた訳です。
その結果、戦後日本は経済大国としての地位を築きます。
では、その手は血に汚れていないのか?
否、その繁栄は、やはり血まみれなのです。
現代日本が平和主義を標榜しようがしまいが、憲法9条を掲げようが。
そもそも、資本主義経済は「闘争的」なもの、勝者と敗者を生むものです。
これは、1960年代以降に登場した「従属論」で考えると、もっともわかりやすいかもしれません。
従属論は、先進国(中心国)に対して従属している発展途上国(周辺国)の関係を説明したもので、前者の繫栄は、後者の犠牲(搾取)によって成り立っているということ指摘しています。
実際、先進国は、途上国の安価な労働力・資源・原材料によって、その繁栄を手にしており、他方、途上国側では、それを原因とした紛争や内戦、腐敗政治は後を絶ちません。
それこそ、途上国の民衆の「血と涙」によって手にされた、「血まみれの経済的繁栄」なのです。
日本も例外ではありません。それどころか、トップランナーです。
後年、押井守が監督した映画「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」(1992年公開)、その士郎正宗の原作コミックの冒頭
「奴隷の国が奉仕を怠ると貴族の国が飢えますからねえ」
士郎正宗『攻殻機動隊』講談社、8頁。
という台詞が飛び出しますが、まさにこれが中心国と従属国の関係でしょう。
戦後日本は、G7という「貴族のクラブ」の一員でした。
この関係は、現在の日本国内の、いわゆる「格差社会」を思い浮かべれば容易に想像がつきます。
一部の富裕層と、低所得・非正規雇用・貧困層という二極化しつつある状況。
後者が前者に奉仕する関係。荒んでゆく後者の世界とそれが視界に入らない前者の世界。
後者の世界は殺伐とし、争いが絶えず、希望も見えません。
これをそのまま、国際関係に置き換えれば事態は明白です。
但し、日本が他の先進国と唯一異なるのは、その繁栄での、軍事的な負担を、例の「ジレンマ」を利用することで、大きく回避することが出来た点です。
そのことに、負い目を感じることもなく、さりとて開き直ることもなく・・・。
ただ目を逸らし続ける「不正義の平和」。
「正義の戦争」と「言葉遊びの20世紀」
対して後藤は、そんな平和でも「正義の戦争よりは余程マシだ」と答えます。ここで、荒川は、後藤が「正義の戦争」を嫌うことに共感しながら、「平和という言葉が嘘つき達の正義に」なったと言います。
これはどういう意味なのでしょうか。
ここには、20世紀が辿った、「戦争」概念に関しての、悲喜劇が背景にあるのです。
「戦争」に正邪の問題を持ち込んだものとしては、まず「正戦論」が挙げられます。
これは、読んで字の如く、「戦争」には「正しい戦争」と「不正な戦争」に分けられるという考え方で、キリスト教の教父アウグスティヌスやトマス・アクィナスらに始まり、近代、「国際法の父」と言われるH・グロティウスにまで至る思想体系です。
(※キリスト教思想の文脈で登場しますが、あくまで「正戦」であって、「聖戦」ではない点に注意)
しかし、近代になってくると、正戦論の代わりに「無差別戦争観」が現れます。
そもそも主権国家には、それを裁く上位の権威が存在しないので、実際、正邪を判定するのは不可能で、当の主権国家が、自国の戦争を「正戦」だと言えば、それは正当になってしまいます。
つまり国際社会というのは政府(世界政府)が存在しないアナーキーな場であり、正邪の判定者がいないのです。
この戦争観のもとでは、戦争は双方が「国家理性」に基づいて自由に行う政治の延長であり、そのどちらが正しく、どちらが不正かを決定する法的根拠は存在しない。
秋元雅和『平和主義とは何か』中央公論新社、2013年、107頁。
この戦争観はいたってシンプルで理解し易いし、普遍的です。なぜなら、現実の国際関係の現実を、そのまま認めているのですから。
ところが20世紀になると、事態は急変します。
「国家が自由に振舞った」結果、第一次世界大戦は空前の規模の破壊と犠牲を生みました。
この惨禍への恐怖と反省から、正戦論の系譜に位置するひとつの条約が結ばれます。
「パリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)」です。
これは、「戦争」自体を違法化しようとする試みでした。
しかし、現実に「戦争」は、この後も起こりました。空前の第一次世界大戦は、絶後にはならずに、更に膨大な犠牲をもたら第二次世界大戦が勃発します。
なぜこうなったか?
法的に「戦争」を違法化しても、現実に国家が存在する以上、国家はその国家理性に基づいて行動します(「国家理性」に関しては後述します)。
そこで、国家は、現象としての「戦争」を、名目上は「紛争」や「事変」、「自衛」と言い換えて、続けていったのです。
不戦条約の流れは、第二次大戦後も国連憲章の形で、より強化されます。
しかし、同じ理由から、国家は相も変わらず、実質的な「戦争」を嗜んでいます。
ここで見えるのは、「戦争」概念が、一面「言葉遊び」のようになり、実態(現象)と言葉が遊離してしまった状態です。
「戦争」という言葉を葬ったところで、「戦争」は消える訳ではないのですから。
この現象と言葉の遊離は、激しいプロパガンダ戦と欺瞞を招くことになりました。
「この戦争は自衛のための戦争である」「平和の為に戦う」「国際の平和と安全の為の武力制裁」etc.
荒川の言う通り「平和という言葉が嘘つき達の正義」になった観があるのが、20世紀以降の「戦争」観を巡る状況でした。
「モニターの向こうに戦争を押し込め」
20世紀の後半の戦争に関して荒川は更に言葉を進めます。
「単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか?
その成果だけはしっかりと受け取っておきながらモニターの向こうに戦争を押し込め、ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。」
このモニターに押し込めた「戦争」に関しては、哲学者の東浩紀もジャン・ボードリヤールと並んで、押井守のパト2を評価しています。
戦争のゲーム化が進むその状況をジャン・ボードリヤールは、「湾岸戦争はなかった」という言葉で表現した。エンターテインメントの世界では、押井守の『機動警察パトレイバー2』が、もっともすぐれた批評的な反応として挙げられるだろう。押井はそこで、東京を舞台に、存在しない戦争をメディアのなかだけで存在させようとする倒錯したテロリストの欲望を描き出してみせた。
東浩紀『テーマパーク化する地球』ゲンロン、2019年、70頁。
東はここで、「ニンテンドー・ウォー」と呼ばれた湾岸戦争(1991年)によって象徴された「戦争のゲーム化」「現実の虚構化」を論じているのですが(更にイスラム国に関して論を進めているが、詳しくは本書にあたられたい)、パト2の場合、横浜ベイブリッジを爆撃した機体の映像の真偽やバッジ・システム上にだけ存在した3機のF16Jがこれに当たります。
この「モニターの向こうの戦争」は、実は逆説的な意味も持ちます。
それは、モニターの向こうから戦争がやってくることも意味するからです。
20世紀の終盤に「RMA(軍事革命)」という言葉が持て囃されました。
最近ではあまり聞かなくなりましたが、逆に言うと、あえて口に出すまでもない軍事的常識になったとも言えます。
端的に言えば、情報技術革命の軍事版です。昨今流行りのサイバー攻撃などもここに入ります。
第二次世界大戦の様な総力戦においては、前線(戦場)と銃後(後方)の区別が消滅してしまい、民間人も大きな犠牲を出しました。
RMAの場合、その「前線」とか「後方」という二次元・平面的な概念そのものを消滅させるインパクトがあります。
情報は、非物資的な存在だからです。
戦争の進行過程、目的を変えてしまいます。
工業化時代の戦争では、相手国の「軍隊の撃破」が戦争の目標として追及されてきた。軍隊を撃破すれば、国民や領土を、攻撃側は自動的に手中に収めることができるし、反対に防御側は、撃破に成功すれば、相手国の手に落ちることを拒否することができるからである。しかし、情報化社会における戦争では、「軍隊の撃破」ではなく、非軍事目標を攻撃して相手国の国家機能を麻痺させることが追求されるであろう。
中村好寿『軍事革命(RMA)』中央公論新社、2001年、50頁。
80年代までの工業化時代の軍隊(近代的軍隊)は、敵主力軍(野戦軍)の撃滅を目標とするクラウゼヴィッツ的な存在でした。
ところが、RMAの軍隊は、敵対国のC4I(指揮・統制・通信・情報・コンピューター)を麻痺させてしまえば、重厚長大な従来の大軍を必要としない。
RMA軍は湾岸戦争(1991年)でその最初の片鱗を見せ、イラク戦争(2003年)では、その真価を見せつけました。
RMAには「前線」が存在しないので、軍隊だけではなく、一般市民の社会生活も脅かされる場合があります。
インフラの停止はもちろん、自宅で眺めているモニター(テレビ、パソコン、携帯電話端末etc.)が知らぬ間に操作され、自身の情報や行動をコントロールされる事もあり得ます。
ちなみに、パト2の中の体制側(自衛隊・警察)は、工業化時代の近代的軍隊であり、一方的に翻弄されます。
“配備されていないF16Jの映像”やら“幻の爆撃”やら“広域ジャミング”なぞを次々に繰り出して、首都や統治機能の「麻痺」を狙う柘植一派の戦術は、RMA的な脱近代的軍隊の特徴があり、パト2は軍事における「近代」VS.「脱近代」を描いている側面もあると言えます。
この時代は、「戦争」が変化する過渡期なのです。
「後編」では、「何一つしない神様」と下されるべき「罰」。また、警視庁会議室での後藤の独語、さらに物語終盤に口にされる「国家に真の友人はいない」を紐解いていきます。
【続】
【後編】はこちら
→後藤と荒川の「戦争と平和」の問答を紐解く【後編】~最高意思決定の段階では国家理性だけが存在する
【脚注】
※1.トゥキュディデス『歴史2』京都大学学術出版会、2012年、75頁。