2000年(豪)、195分
「たとえ、明日、世界が終ろうとも、今日、私は林檎の木を植える」
マルティン・ルター
あらすじ
台湾海峡封鎖を発端にした米中の緊張は、遂に、全面核戦争に発展した。
その結果、北半球は濃密な放射能に汚染され、全滅。
わずかに南半球諸国に人類は生存していた。
辛くも北半球を脱出した米海軍原子力潜水艦チャールストンは、オーストラリア・メルボルン港に逃れていた。
しかし、北半球を覆う放射能帯は徐々に南下しており、オーストラリア、南半球もそれに覆われ、全人類が滅亡するのも時間の問題だった。
そんな折、北半球の一部で放射能が低くなって、人間も生存できる可能性が一部の科学者から提唱される。それを証明するかのように、アラスカから、断片的な謎の電子メールが発信されていることが判明。
オーストラリア政府は、チャールストン号に単独での調査行を命じる。
果たして、そこに希望はあるのか?
ネビル・シュートの傑作小説の映画化
全面核戦争直後の終末の日々を、美しく、そして悲しく綴った、ネビル・シュートの傑作SF「渚にて」の映画版です。
本書の映像化は2度目で、最初は、1959年にグレゴリー・ペックを主演(潜水艦艦長)に、映画化されました。こちらは原作通り、米ソの全面核戦争により北半球が死滅します。
ちなみに、「エンド・オブ・ザ・ワールド」というタイトルの映画は、もう一作ありまして、2012年のアメリカ映画です。むしろ、こちらの方がメジャーですかね。
同じく人類終末の日々を扱っていますが。核戦争ではなく、巨大隕石の衝突が原因で、衝突までの僅かな日々を、ラブロマンス・ラブコメディーとして描いています。
閑話休題。では、本題に入っていきましょう。
※以下、ネタバレあり
怒れる男たち
本作は「静かな怒り」を秘めた男たちの物語という側面があります。
- 祖国を失ったスコーピオンの艦長ドワイト・タワーズ(演:アーマンド・アサンテ)
- ドワイトとの連絡将校となったホームズ豪海軍大尉
- 放射能汚染の状況を観測する科学者オズボーン博士(演:ブライアン・ブラウン)
彼ら三人三様の「怒り」があります。
ホームズには愛妻と幼い娘がおり、これから数か月後に「決断」しなければならないことに苦悩しています。
始終、酔っぱらっているようなオズボーンが、最も「怒り」を表に出しています。
政治家や軍人への嘲笑的な態度。
「政治家でも文字ぐらいは読めるだろう」
タワーズとも時折、ぶつかります。
「撃ったんだろ?“命令だから撃った“か。ナチと同じだ」
それは、このような「最悪の事態」を招いた国家・政治・軍事に対する怒りであり、もはや、どこにぶつけていいのかわからないそれを、酒で紛らわせているのです。
そして、ひたすら艦長の職責を全うしようとするタワーズ。
しかし、封印していた「家族」への思いが、爆発する瞬間が訪れます。
調査行で上陸したアラスカのとある住宅。
そこで見た、ベッドで静かに安楽死(自殺用アンプルを服用)した親子4人の遺体。
放射能で死ぬ前に、家族揃って・・・。
彼は「激昂」します
「一体なぜこんなことになった!なぜなんだ?!誰か教えてくれ!なぜこんなことに!!」
そして、タワーズには「秘密」がありました。
果たして人は、核を撃てるのか?
アラスカへの調査行の帰路。
艦は、母港が近いサンフランシスコ沿岸に立ち寄ります。
潜望鏡からの映像は、崩落したゴールデンゲートブリッジ、廃墟となったサンフランシスコ市街・・・・。
言葉を失う乗組員たちの前でオズボーンが口を開きます。
「こうなる前に、止める勇気のある奴はいなかったのか?」
その時、副長がある「秘密」を語ります。
タワーズ艦長は、実は核ミサイルを発射していなかった事実を。
その言葉を聞いて、オズボーンのタワーズを見る眼差しは一変します。
明らかに敬意が、人間として尊敬するという姿勢が、言葉ではありませんが溢れます。
核兵器を実際に発射する、つまり、そのトリガー、ボタン、発射キーを預かっている軍人たちが、「その時」に本当にそれを押せるのか?
確かに広島上空のエノラ・ゲイの乗員には出来ましたが、その後、世界はヒロシマを知ってしまった。
自分の指が何十万、何百万人の老若男女を焼き尽くすことになると知っていて・・・。
米ソ開戦の危機を描いた映画「ウォー・ゲーム」にこんなシーンがあります。
冒頭、米空軍のICBM(大陸間弾道弾)の地下発射サイロの管制室で勤務する二人の軍人。
いつもの日常の筈が、突然、警報が鳴る。
それは核攻撃命令を知らせるものでした。
手順通り、実行しようとする2人。
2人が同時に発射キーを回せば、ICBMは発射されます。それは、数十分後に遠くどこかの都市が、人々が核の業火に焼き尽くされることを意味する。
年嵩の軍人は、キーを回せません。手を放してしまう。
「・・・できない」
若い軍人が拳銃を向けて発射するように迫ります。
(続きは、映画本編でどうぞ)
相互確証破壊(MAD)という言葉があります。核保有国同士が核戦争を出来ない理由。核を撃てば、核の報復で、結局自国も滅亡するので、核を使えなくするという抑止理論。
しかし、万が一、それが崩れた際(発狂や事故など)、核の撃ち合いは起きうるのか?
その日になるまでは、神のみぞ知るです・・・。
願わくば、その日、その時、人々に勇気と理性があらんことを。
終末の日々、明日は来なくても・・・
放射能帯が徐々にオーストラリア大陸を浸食し始め、人々は様々な行動に出ます。
勿論、自暴自棄になる人々もいるでしょう。
しかし、家族や恋人、趣味に没頭して、人生の最後を味わおうとする人々の姿が原作でも本作でも主流です。
考えてみれば。「死」は、いつ何時、訪れるものだと知る者は誰一人いません。
「死」だけは偶発的であり、平等です。
それがたまたま(人類の愚かさからなのですが)、突然、全員に「予告」されてしまったのです。
そうであるならば、たとえ、終末の天使のラッパが奏でられようとも、その日一日を同じように生きるのが自然なのでしょう。
・・・とはいえ、自分の幼子に、安楽死のアンプルを注射しなければならない両親の絶望。
・・・希望の可能性の潰えた日々。
もし私なら、こう呟くことしかできそうにありません。
神よ、なぜです?