映画「未知への飛行」感想(オリジナル版とリメイク版)~「政治的に正しい」たったひとつの冴えたやり方

「未知への飛行」(原題 フェイル セイフ)オリジナル1964年/リメイク2000年

「エホバ言給ひけるは汝の子、汝の愛する息子、即ちイサクを携てモリアの地に到り、わが汝に示さんとする彼所の山に於て彼を燔祭として捧げるべし」

創世記 22章

【あらすじ】

核爆弾を搭載した米空軍の戦略爆撃機の一編隊に、攻撃命令の暗号が発信される。攻撃目標「モスクワ」。

しかし、それは機械の誤作動だった!呼び戻す術を失うペンタゴン。

全面核戦争を回避すべく米ソ両首脳と米ソ両軍は、なんとか爆撃機を止めようとするが・・・。

有り得たかもしれない偶発核戦争の恐怖

フェイルセイフとは、「故障は必ず起こる」という前提で、システムや設計に、安全策を講じることです。

核兵器に関しては、事故や狂気、叛乱など、最高指導部が意図しない核攻撃を防止しようと、様々な措置が講じられています。

この概念を提唱したのが、ランド戦略研究所の戦略家アルバート・ウォルステッターです。

ウォルステッターは自分の研究をさらにもう一歩推し進めて、アメリカの歴史に永久に残るような概念を編み出した。「フェイルセーフ(多重安全装置)」である。戦争計画者はもはや、なにも見えない暗闇の中で作戦を遂行したくないし、作戦からの逸脱などの混乱のせいにしたくはなかった。核攻撃はどんなときでも計画的でなければならず、決して偶発的であってはならないのである。(中略)フェイルセーフは、「あらゆるものが計画通りに動くとは限らない」という彼の認識が土台になっている。

アレックス・アベラ『ランド~世界を支配した研究所』文藝春秋、2008年、118頁

そんな、対策をすり抜けて発生してしまった「最悪の事態」を描いたのが本作です。

1964年に制作されたポリティカルスリラーの傑作です。2000年にはリメイクもされています。

原作は『未確認原爆投下指令』

今回は、オリジナル版・リメイク版を比較しながら、密室劇の傑作ともされる本作の魅力に迫ります。

余談ですが、アメリカ映画では、同時期に同じような内容の作品が2つ作られることが屡々(しばしば)、見受けられますね。

例えば、地球への隕石衝突阻止を描いた「ディープ・インパクト」と「アルマゲドン」。

近年だと、ホワイトハウスがテロリストに占拠される「エンド・オブ・ホワイトハウス」と「ホワイトハウス・ダウン」

実は、本作も、同時期スタンリー・キューブリック監督の「博士の異常な愛情」が公開されています。共に、誤った命令による偶発核戦争をテーマにしていますが、「博士の異常な愛情」が、全編、ブラックユーモアに彩られたシニカルなコメディに対して、本作は、終始、リアリズムを追求した社会派の作品となっています。

↑オリジナル版

↑リメイク版

※以下、ネタバレあり

犠牲、犠牲、また犠牲

それはありふれた機械の故障。

しかし、爆撃機編隊には、モスクワ核攻撃の指令が発信されてしまいます。

なんとか米軍内で事態を収拾しようと、大統領は非情の決断をします。既に爆撃編隊から離脱して、帰途にあった護衛の戦闘機編隊に、引き返して、爆撃機の「撃墜」を命じます。

しかし、戦闘機の燃料は僅かであり、それは、戦闘機が北極海に「墜落」することを意味します。

パイロットを犠牲にした追撃は失敗に終わります。

大統領は、クレムリンのソ連書記長とホットラインをつなぎ、なんとかソ連の報復を待ってもらい、爆撃機阻止に共に協力するところまで漕ぎつけます。

そして、米軍に対して、仮想敵であるソ連軍と協力して、友軍の爆撃機を撃墜しろ、と大統領命令を発します。

理性でわかっていても、体がいう事を聞かない米軍将兵の姿が描かれます。

オマハの戦略空軍司令部で、司令官ボーガン大将が、ソ連側に「軍事機密」を明かすように部下に迫りますが、佐官も、尉官も口が動かない。そして、最後に指名された曹長は、なんとかそれを説明し、しかし、自席で項垂(うなだ)れます。

ひとつの見せ場である副官カシオ大佐の扱いはオリジナルとリメイクで、かなり違います。

オリジナルでは、ソ連軍への協力を良しとせず、ボーガン大将を殴り倒し、「指揮宣言」をしますが、すぐに警備の空軍憲兵に取り押さえられてしまいます。

対して、リメイク版は、ソ連による謀略の疑いを必死で説明し、ボーガン大将に叱責されますが、「抗命」はしません。

しかし、仮想敵への協力には納得できず、それをラスコブ下院議員に窘められる場面もあります。

ラスコブ「ソ連がしっかりやれば望みはあるかもしれない。」

カシオ「望み?爆撃機と18人の隊員を失う事が望みですか?!」

ラスコブ「味方が死んで嬉しい者はいない。だが、世界中の何億人もの人はどうなると思う?何も知らされずに殺されるかもしれないんだぞ?そのことをよく考えてみろ、望みだ!」

(リメイク版より)

リメイクの終盤、カシオ大佐は、ニューヨークにある実家に電話を掛けます。母親と最後の会話を交わそうと。

個人的には、オリジナルのカシオ大佐の家庭事情は蛇足の感があって、リメイクの彼の方が感情移入し易かったです。

カリカチュア化された政治学

本作の舞台となるのは、ホワイトハウス地下のシェルター、オマハの米戦略空軍司令部、爆撃編隊の隊長機、そして()国防(ンタ)総省(ゴン)の会議室です。

そのペンタゴンの会議室に、国防長官や将官たちに混じって、ひとりの政治学者がいます。

ペンタゴンのアドバイザーであるグロテシェル教授です。

この会議では、核戦争に関して討議されています。始終、計算高く、合理的に議論を進めるグロテシェルに対して、ブラック准将は反論し、激論を交わします。

ブラック准将「グロテシェルさん、あなたの議論から欠落しているのは、核戦争は政治の延長ではないという認識です。全ての終わりですよ。人も政治も体制も」

グロテシェル「私が申しあげているのは、核戦争で生き残るとしたら我々の文化であって欲しいとうことです。」

ブラック准将「文化?ほとんどの国民は死に絶え、大地は焦土と化すんです。あなたはそんな世界を本気で文化だと思っているんですか?核兵器が登場したことで戦争は変わったんです。」

スターク大将「戦争の機能そのものは変わっていないだろう。槍を投げるか原爆を落とすかの違いだ。」

グロテシェル「依然、経済や政治の紛争を解決する手段です。」

ブラック准将「現状で想定される戦争では、国民の大部分が命を落とすことになります。それでもまだ戦争は紛争の解決手段だと言うんですか?」

グロテシェル「そうです准将、状況は千年前と全く変わっていません。古代にも民族が滅んだ戦争があります。」

(リメイク版より)

核兵器とそれがもたらす核戦争は、政治の手段として妥当か?という問題は常に伏在してきました。

「戦争は異なる手段による政治の延長」というのはクラウゼヴィッツが『戦争論』で表した有名なテーゼですが、核兵器は果たしてどうなのか。スターク大将は「手段」として捉えています。これはそれほど奇抜な考えではなく、軍人の中には、核兵器も砲兵の延長と捉える向きもあります。

グロテシェルは更に踏み込んで、核使用が一国家や一民族を抹殺することでも、戦略上、合理的であるならば、躊躇しないかのように、論じています。

対して、ブラック准将は、核兵器の特異性に危機感を持っています。

オリジナル版だと、科学技術の進歩・システムの複雑化が速過ぎて、人間が追いつけないという哲学的見解を述べています。

「博士の異常な愛情」の主人公とも言える大統領科学顧問ストレンジラヴ博士。そのモデルのひとりは、ランド戦略研究所のハマーン・カーンだと言われていますが※1、本作のグロテシェル教授も、そのランド研究所的な学者を模したような人物として描かれています。そもそも冒頭に見た通り、「フェイル セイフ」自体がランド戦略研究所のウォルステッターからもたらされた概念でしたね。

ソ連共産党の機関紙プラウダが当時、ランドを「科学と死のアカデミー」と呼んだのは有名な話だ。しかし、もっと的を射た通称は「数値合理主義のアカデミー」だったことだろう。

アレックス・アベラ『ランド~世界を支配した研究所』文藝春秋、2008年、125頁。

グロテシェルは数値と合理性で一貫しています。その冷徹な、時に人間性の欠如した発想は、周囲の将軍達からも驚かれ、嫌悪されます。

彼はある意味、「理性」の信奉者です。しかし、その理性は「近代的理性」です。近代と前近代では「理性」の意味が異なります。

近代以前、世界は「理性的(神的)秩序」が存在し、隠された「目的(テロス)」が存在するという目的論的世界観が支配しており、そこでの「理性」は、その神の目的を発見するものでした。

一方、近代になると、「理性」は人間個人の計算能力に極小化(矮小化)されます。世界は、目的や意図などない、自然の「機械」であり、計算によって、それを解明することができ、かつ操作可能な対象となりました。機械論的自然観です。

そのような、近代理性の信奉者であろうグロテシェルと対峙するブラック准将は、「古き良き軍人」あるいは「プロフェッショナリズムに徹する軍人」として描かれています。

この機会を利用してソ連への全面攻撃を主張するグロテシェルに対して、ブラックが激しく反論します。

ブラック准将「あなたとあなたが殺した相手とどこが違うんです?ソ連を叩き潰す?なぜです?!何のためですか?!」

グロテシェル「民主主義ですよ、准将!これは神の与えてくれたチャンスなんです!」

ブラック准将「殺すことが?!」

グロテシェル「殺しに反対されるなら、なぜ軍人に?!」

(リメイク版より)

オリジナル版でグロテシェルが皮肉るような、「ハト派の軍人とタカ派の民間人」という単純な二分法では、捉えきれない問題がここにはあります。

軍事力の目的とは一体何なのか。勝利することなのか、それとも勢力均衡・抑止に終始すべきなのか。

さらに深読みすれば、ブラック准将は、「目的(テロス)」を失った「冷たい」機械論的自然観に対して、「目的(テロス)」はあると反論しているようにも見えます。

なぜなら、神なき機械論的自然観は人間の理性は万能であるという「傲慢(ヒュブリス)」に陥ります。グロテシェルに我々が感じる「不快感」は、ここにあるのでしょう。

対して「目的論的自然観」は、人間の越えられない、見つけられない、「秩序」「目的」をどこかで察しているので、そこで人は超えてはならない一線、倫理、規範を胸に刻みます。

なお、このグロテシェルは、オリジナル版だと、ウォルター・マッソーが演じていますが、「近代的理性の怪物」を思わせる「異様さ」は名演です。

特に冒頭、彼の「凄み」を見せつけるが、パーティーの後の雑談でしょう。

スターリンの言葉を思い出します。「一人の死は悲劇だが、多数の死は統計でしかない。」

そして、その「異様さ」の極致が、終盤、ニューヨークの犠牲が確実になる中、全員が悲愴な顔を隠さない中、黙々と被害計算と経済の問題を語りだすその姿です。

ふと、こんな言葉が脳裏に蘇ります。

「狂人とは理性を失った人のことではない。 狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。」

G・K・チェスタトン

その姿は、規範論を喪った現代の政治学をカリカチュア化しているようです。

究極のトロッコ問題

ソ連の防空網は突破され、いよいよ爆撃機はモスクワに到達することが確実になりました。

大統領は決断します。

トロッコ問題という倫理学上の思考実験があります。

英国の哲学者・倫理学者フィリッパ・ルース・フットが提起したものです。

トロッコ(トロリー列車)が暴走してしまう。その先には分岐器(ポイント)があり、その分岐の先の本線には、5人の作業員が作業している。もう一方の支線には作業員が1人だけで作業している。

あなたは分岐器のところにいる。このままトロッコが進めば、5人を轢き殺す。だが、分岐を切り替えれば、支線にトロッコは進み、5人は助かる。だが、1人の作業員は確実に轢き殺される。

あなたは、切り替えないか?切り替えるか?

様々な議論・考察を読んでいる倫理学上の問題ですが、本作のアメリカ大統領の置かれた立場も、ほぼ同じです。

大統領は、モスクワが被爆した時は、自国の爆撃機でニューヨークを核攻撃する決断をします。

それによって犠牲を等価とすることで、米ソ開戦、全面核戦争を回避するのです。

この場合、ニューヨーク市民を犠牲にすることで、北半球に住むそれ以外の幾億もの人々、いや、人類と地球の生態系を救うことになります。

大の虫を生かすために小の虫を。

但し、上記のトロッコ問題の設定と違うところは、本線にトロッコを走らせた(ニューヨークを犠牲にしない)ところで、最終的には支線の作業員(ニューヨーク)も死にます。

なぜなら、本線を走らせた先に待っているのは全面核戦争だからです。

政治家、権力者は常にその選択を迫られます。

最初に、自軍の戦闘機に爆撃機を撃墜する命令。そして、戦闘機は燃料切れで、確実にパイロットは死亡する。

それを命令し、命令を実行する関係。

「軍隊は恐いよ」と、死に臨むパイロットのひとりが愚痴りますが、それは、本質的に「政治は恐い」ということに通じます。

生殺与奪を握るところに、「政治」の特殊性があります。故に「政治家」とは本質的に「人殺し」の別名でもあります。

そこでは、通常の道徳律や倫理は顔を出しません。「政治」独自の倫理が鎌首をもたげます。

政治というのは、通常の道徳律や倫理、人間の感情を抑えつける面があります。

大統領は書記長に、ニューヨークへの核攻撃の提案だけ(・・)では、ソ連も納得しないでしょう、と問い、書記長もその通りだと言います。

イサクの代わりに子羊を用意してくれる神は政治の世界にはいないのです。

ポイントを切り替える政治責任が為政者には課せられているのです。

終盤、最後の望みとして、爆撃機編隊の隊長の肉親による説得が行われます。

オリジナルでは妻が。リメイクでは一人息子が。

しかし、隊長は苦しみながらも無視します。

あらゆる妨害を想定し、鉄の軍律・軍規において、手順以外の作戦変更は行えないように「訓練」され「命令」されているからです。

万事休す。

大統領は、ブラック准将に、ニューヨークへの核爆弾投下を命じます。

その街には、准将の妻子も、大統領夫人もいるのに・・・。

しかし、そうするしかない。本作はその人間性を押し殺してまで、政治責任を果たそうとする人々の悲劇の物語です。

その「政治倫理」「政治責任」において、大統領の決断は、「政治的に正しい」たったひとつの冴えたやり方、なのです

オリジナル版終盤、ヘンリー・フォンダ演じる大統領が、ソ連書記長に悲痛に問いかけます。

「今日、我々は未来を知り、何か学ぶことがあったのか?どうすればいいのだ、議長。死者には何と言う?」

【脚注】

※1.アレックス・アベラ『ランド~世界を支配した研究所』文藝春秋、2008年、130-133頁。