深い読みの習慣-「その静けさは意味の一部。精神の一部」―は、衰退し、縮小しつつある少数の知的エリートの領分となるだろうことは間違いない。
ニコラス・G・カー『ネット・バカ』青土社、2010年、154頁。
先日(と言っても3ヶ月くらい前ですが)、神保町の東京堂書店を訪れたら、こんな、お知らせが
閉店したんですね…。
東京堂書店の喫茶コーナーの閉店理由は、まあわからないのですが、いい機会なので、前々から思っていたことを書いてみます。
それは、「そもそも、書店とカフェテリアは相性がいいのか?」という疑問です。
カフェテリアを作れば客足が戻るのか?
昨今の(といっても、もうかなりの期間そうですが)書店業界の厳しい状況に、新刊書店も、あの手、この手で、事態を打開しようと試行錯誤しています。
書見用の椅子やソファ、限定グッズとの抱き合わせ・・・etc.
そんな中、大型書店などでは、カフェテリアを併設するのが、一時期流行しました。
猫も杓子もの感がありましたね。
ただ、この戦略は、思ったほどの効果は期待できないのではないかな?と日々感じています。
カフェテリアの価値と書店の価値は別
このような出店戦略には、喫茶店があるから、本を買う客が増えるというイメージがあると推測されます。
しかし、この前提がそもそも間違っているのではないか、と思えてなりません。
あの書店併設のカフェテリアを利用する客層は、既存の読書層(コアな読書人の層)であって、読書層自体が増加する訳ではないのではないでしょうか?
本というメディアは、活字を、自分の意志で、ページを繰るという、手間のかかる能動的な行為です。
他方、他のメディア(ネットや映像コンテンツ)は、もっと受動的です。自分の「読むぞ」という意志がなくても、受容できてしまいます。
かなり単純化していますが、この違いは大きい。
そんな本を扱う書店というのは、それだけで、入店の(来店させる)ハードルが極めて高い。
書店に来店する客層は、それだけ動機が強い(読書をしたい)欲求が強いことが推し測れます。
その上で、カフェテリアの集客効果を考えてみましょう。
入店のハードルが高い書店に、読書層以外の層がどれだけ、カフェテリアを動機に集まるでしょうか?
この問題は、
- 「読書をしたいからカフェにはいるのか?」
- 「カフェに入りたいから書店に入るのか?」
という二元論とも言えます。
まず前者の「読書をしたいからカフェにはいるのか」という来店動機です。
確かに、本を読みながらお茶を愉しむという人は一定程度はいるでしょう。
ところが、読書層の全員がこれに当てはまるわけではない。
読書家であればあるほど、長時間、喫茶店の席を占有して読書をする人は稀ではないでしょうか?
そいう人もいるにはいますが、公園のベンチや自宅などを選択する人も相当程度います。
コアな読書家ほど、長時間集中して、孤高に読書したいので、喫茶店のような、店舗によっては雑音が多い場は避けるかもしれません。
そして、そもそもの難点は、喫茶店で読書するという人は、既に読書層の人であって、新しい客層の開拓にはなっていないことです。
読書層の人口を増やすことそれ自体には貢献していないのです。
自己演出としてのブックカフェ
では、「カフェに入りたいから書店に入る」という集客はどうでしょうか?
カフェ自体に価値があり、そこに来店する。
それには、カフェのサービスやコーヒーなどの味、店内の雰囲気といったものに誘われて来店するということです。
それが、書店と併設されることで、本の購買意欲につながる、といった仮説ではないでしょうか。
ところが、ここにひとつの論理の飛躍があります。
書店と併設されることで、なぜ「購買意欲が高まる」のでしょうか?
可能性があるのは、カフェを目的に来た客が、「自己演出」として、本を購入していくこと。
「自分が、お洒落なカフェで読書をしているという時間・光景」を、自分で演出するということです。
本が特に好きではない人でも、読書という行為や姿には、一定程度の魅力があるものです。
やや、脱線しますが、こんな話がありました。
趣味コン(趣味を媒介に掲げたコンパ)で、「読書好きの趣味コン」というのがありました。
これは大いに盛り上がるだろう、と予想していましたが、蓋を開けてみると、予想とは異なり、男女間の温度差が大きかった。
どういうことでしょう?
確かに、女性陣は、様々なジャンルの本好き(特に文学)が多かったのですが、男性陣の多くは、実は本を読まない(!)参加者が多数でした。
よくよく話を聞いてみたところ、男性陣は、「本が好きな女子と付き合いたいだけ」だったわけです。
要するに、「本の内容」というよりは、「本を読んでいる」という光景に憧れがあるんです。
こういう、本や読書がファッションとして認識されているという部分は忘れられがちです。
これがカフェとつながることで、「読書している光景」という演出につながります。この場合、本は、読むものではなく、アクセサリーに過ぎない。
インスタ映えとか、そういった事への手段です。
これは、流行に左右されるので、もし、この方法で、本の売れ行きが上がったとしても、一時のものに過ぎません。
しかし、本、書物そのものの世界は、もっと普遍的な、ひとつの「宇宙」であり、読書自体が流行に終わる事はありません。
話を戻しますと、カフェそれ自体の価値は、カフェという場そのものにあって、書店や本といったものは、それに付加価値を付けるものだとしても、あくまでカフェ自体に価値があるんです。
本の街、神保町を眺めればわかるように、確かに、カフェの数は多い。
老舗の名店も多い。
しかし、それは、そのカフェ自体に価値があって、書店と抱き合わされている訳ではありません。
そういう純喫茶で、皆が皆、本を開いている訳でもありません。
書店と喫茶店は、それぞれ独立した対等な価値があって、それが、神保町と言う、日本屈指の文化の街を形成しているのであって、単純に両者の抱き合わせが上手くいく筈がありません。
読書人の本質
「本を読む奴はどこでも読む。」
これに尽きるのではないでしょうか。
カフェだろうと、図書館であろうと、公園や電車内、はたまた被災地や戦場であろうと、本のページを繰る手は止められないでしょう。
読書それ自体に付加価値を付ける試みは、その本そのものにまつわらない限り、徒労に終わるのではないでしょうか。
ともかく、重要なのは、現在の書店業界の試みの多くは、読書層の中の 一種エコーチェンバーみたいなもので、非読書層の掘り起こし、引き込みには、それ程、成功しないのではないか、という点です。
メディアが多様化した現代の読書層というのは、その意味で、かなり限られた層です。
おそらく、もっと若い時、初等・中等教育で、読書層を増やす試み、もっと簡単に言ってしまえば、「子供に本の楽しさを伝える」。
ただ、これも現状では、早期情報教育やらICTが持て囃され、真逆に進んでいます。
読書問題のウルティマ・ラティオ
こんなこと書いていると、まあ、根本的な解決策がないようで、お先真っ暗なんですが・・・。
1つだけ方法があるにはあるんですが・・・
それは、ちょっとSFチックでして・・・、世界規模のEMP災害です。
EMP、つまり電磁パルスとは、強力な電磁波で、あらゆる電子機械を破壊してしまうもので、原発から交通インフラ、個人のスマホまで、あらゆる電子機器が使い物にならなくなります。
これ、ただの停電とかではなくて、電子機器自体を破壊してしまうので、復旧できるかどうかすら未知数です。
ぶっちゃけ、文明が半世紀から1世紀程度、後退するといっても過言ではありません。
本にとっての最大のライバルであるインターネット自体が消滅します。
そうすると、まあ、有力なメディアは、本しか残らない訳ですね。
歴史において、数世紀後退するなんてことは前例があって、例えば、古代ギリシア・ローマの後に来た中世ヨーロッパは、前者の知的遺産の多くを失っていた訳です。
世界規模のEMP災害としては、自然現象としても、太陽フレアが想定以上のものが発生したり、人為的ならば、核兵器の高高度核爆発で発生します。
高度によっては(高度400キロとか)、北米大陸の大半とか、西欧全域とかの電子機器を全滅させることが出来ます。
本当にその位しか、書物の復興・復権というのは思いつかない時代になったということです。