「敬称」についての謎マナーに隠された深刻な事情

哲学カフェみたいなところに出入りする機会があったんですが、そこで話していると、まあ、色々な思想家とかの人名が出て来るわけです(※多少フェイクを交えています)。

「池田晶子が・・・」

「永井均が・・・」

そんな感じで会話の中で人名を言っていると、主宰者の方から、

「一応、失礼なんで、ちゃんと、“さん”や“先生”は付けてくださいね。」

と、ご注意を頂きました。

もちろん、その場に、その方達はいたわけではないんですが・・・。

まあ、普通に聞き流してたんですが、そのご注意をされていた主宰者の方が、

「マイケル・サンデルが・・・」

「マルクス・ガブリエルが・・・」

と普通に語っている訳です。

ここで「うん?」と違和感を覚えました。

この「違和感」。考えてみると、大きく二つの点のようでした。

business woman

深層に潜む「内と外」

第一に、日本人には敬称がいて、外国人はいらない?・・・なんで?

おそらく、ここに一切、悪意はありません。

問題なのは、自然と、日本人には“さん”を付けて、外国人には付けないという行動の深層部分です。

ちなみに、主宰者の方は、池田晶子とも永井均とも面識はありません(愛読者、尊敬はされていたかもしれません)。そういう意味で、サンデルやガブリエルと「親密度」は等距離です。

つまり、本や講義(での解説・紹介)を通しているだけ。

そう考えると、やはり、内と外、「我々」と「彼ら」という無意識が存在しているんでしょうか。

なにか、「彼ら」が生身の人間と思えないような「彼方」の存在として認識しているというか・・・。

ともかく、「日本人」という枠組みが自明であるという意識は簡単には消えないという事を痛感しました。

全員に敬称をつけてみる?

第二に、例え、面識があろうとなかろうと、それが学術の場であれば、敬称はいらないのではないか?

先ほどの主宰者の方は、いっそ、敬称をつけるなら、全員に付けてみては如何でしょうか?

永井先生、サンデル先生、ガブリエル先生・・・

でも、これ、どこまで付けるんですかね?

ハイデガー先生、カント先生、アウグスティヌス先生、アリストテレス先生・・・

こうなってしまうんでしょうか?

いやいや、歴史上の人物はナシで、存命の方のみで。

・・・にしても違和感ありありですね。

存命の人物だから敬称つけるの?全員に?

この「違和感」ってなんでしょうか?

それは、「距離感」、言い換えれば「客観化」の意識だと思います。

学問の場での他者との距離

例えば、学問の場で、○○先生を取り上げるのは、べつに○○先生の主張している意見・学説・思想を討議しているのであって、○○先生個人は、ここでは捨象化されています。

○○先生個人は学術的な対象ではありません。

先生の意見と個人の人格は分断されます。

主観的な「人格」と客観的な「意見」に、あえて距離を生じさせる為に、敬称は避けます。

もちろん、ご本人が、その場におられるとか、学会後の懇親会とか、シチュエーションで変わりますが(そこでは敬称つけるでしょうが)、基本はこの線でしょう。

ちなみに、慶應義塾大学が、塾長・教授から学生まで、全員が福沢諭吉の門下だから「君」付けという伝統とは関係ありません(笑)

この関連で、思い出したのが、論文や学術討議の場での「天皇」の扱い。

一部から、敬称の「陛下」を付けて敬意をもって記述したり議論すべきという意見があります。

この場合、学術の場ではあれば、敬称もいらないし、へりくだる必要もない。「天皇」という概念を問題にしているのであって、現実に在位している天皇個人に対しての議論ではないのです。

ここに共和制論者もロイヤリストの別はありません。

学問の場であれば、シチュエーション次第とはいえ、原則、これは貫徹すべきだと思います。