古典・名著の漫画化の功罪~「お手軽」な反知性主義

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いわゆる古典や名著・名作と言われる本を読むには、時間もかかりますし、読解力や知的忍耐力も求められます。

そこで、出てきた打開策として、「漫画化すれば、もっと手軽に読める!理解できる!」

しかし、それは本当でしょうか?

「手軽に読める」?

「手軽に読める」というのは、一体どういうことでしょうか。

そもそも、名著、わけても古典というのは「歴史の審判」を受けてきた故に古典なのです。

その審判を通過して、後世に伝えられる価値があるとされたものが古典です。

つまり、その時代の(あるいは時代を超越した)、人類の最良の人々の魂の結晶ともいえるものです。

最良の、最も優れた人々の思索が、「手軽」に読める(理解)できると思いますか?

もし、「できる」という人がいるならば、その人は、傲慢か、彼ら偉人と比肩する才を持っているか、どちらかでしょう。

「手軽に」それらの古典が誰にでも理解できてしまうというのならば、人類の偉大さ・叡智は、その程度なのでしょう。しかし、それは「歴史」への冒涜ではないでしょうか。

そこには、一種の反知性主義が垣間見えます。

オルテガ・イ・ガセットは、『大衆の反逆』の中で、20世紀の「大衆」というものを、

自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人と同一であると感じることに喜びを見出しているすべての人のことである。

オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』筑摩書房、2000年、17頁。

これは、裏を返せば、どんな偉大な人物も、碩学も、詩人も、現状の自分の力量で、理解できるという思い込みにつながります。自分は彼らと同じだ、と。

その本質上特殊であり、したがってまた、特殊な才能がなければ立派に遂行しえないようなきわめて多種多様な業務や活動や機能がある。(中略)以前は、これらの特殊な活動は、天分のある―少なくとも天分があると自認した―少数者によってなされていた。

同上書、19頁。

今や、誰しもが、「手軽に」天分があると思い込めます。

ひとつの解釈に過ぎない。

そもそも、「漫画化されたものが、漫画として理解できる」という事と、「その漫画化された、当の古典・名著そのものが理解できる」というのは、同じことでしょうか?

この間にはひとつのフィルターが入っています。

言うまでもなく、漫画家です。

それは、「漫画化された古典・名著」というのは、「漫画家が解釈した古典・名著」とイコールだという事です。

そもそも活字は、読者に想像力を喚起するものであり、読者(受け手)の解釈は、受け手のバイアス、あるいは知的能力によって、それぞれ異なってきます。

そうなると、「漫画化された古典・名著」は、漫画家個人のバイアスを受けているし、その知的能力によって、読解された範囲の中に解釈(理解)が限定されています。

最初から当の古典・名著の原本(邦訳でもいいですが)に当たっている場合と比べてみると、最初に漫画で読んでしまった場合は、余計なワンクッションを入れることで、偏見・先入観を持ってしまうことになる恐れがあります。読解の方向性が、漫画に引き摺られるような。

これは、本の内容をダイジェストで紹介するテレビの教養番組や、「60分でわかる!」みたいな軽口な入門書にも同じことがいえます。

それこそ「急がば回れ」という言葉の通り、最初から原本に当たる方が、よほど良いのではないでしょうか。

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全ての漫画化が「ダメ」なのか?

ただ、すべての漫画化が駄目だという事は、勿論無くて、卓越した解釈、漫画表現への優れた転換の妙というもの存在していて、それによって、漫画自体も傑作となった作品もあります(学術書ではなく小説においてに限定されますが)。

例を挙げれば、光瀬龍のSF小説『百億の昼と千億の夜』。

56億7000万年後に到来し人々を「救済」するという弥勒菩薩は、なぜ今すぐに「救済」しないのか?なぜ、アトランティスは一夜で海底に没したのか?

この疑問に阿修羅王、プラトン、イスカリオテのユダの三人が挑む。

彼らの前にたちはだかるイエス、そしてその背後にある「惑星開発委員会」とは何なのか?

あらすじを、読んでいるだけで眩暈がする壮大な作品ですが、このSF小説を、萩尾望都が漫画化しました。

萩尾と言えば、『ポーの一族』など、日本を代表する漫画家です。漫画『百億の昼と千億の夜』は、阿修羅王を美少女として描き、原作では混沌としていたストーリー線をひとつに収束させ、原作に依拠しながら、もうひとつの傑作を誕生させています。

もう一作。小松左京のSF『日本沈没』。誰しもが知っている日本SF文学の傑作です。その為、様々なメディアミックスが展開されてきました。特に1973年の映画版は、丹波哲郎の名演もあって、名作の誉れが高いですが、隠れた傑作とも言うべき漫画版が存在します。

一色登希彦『日本沈没』です。

一色の漫画版は、日本沈没を、ポリティカルスリラーやパニックもの(・・)の枠から解放し、最新の情報科学の知見、思想的問題を取り入れて。ある意味で小松左京の原作を超える傑作に仕上げています。