今回は、小学校の高学年くらいのお子さんを想定して選書した児童書(児童文学・絵本)を御紹介します。
いずれも、その背景にある思想は、子どもたちが深く考えうるきっかけになるものばかりと思います。但し、内容は正直「重たい」です。
特に、国語や社会科の好きなお子さん向けだと思います。
※エンデ『モモ』以外の作品は、内容にショッキングな点もあるので、保護者の方が最初に読まれてからご判断した方が良いかと思います。
ミヒャエル・エンデ『モモ』
「おまえたちは、遊びや物語をするさいごの人間になるだろう」
ミヒャエル・エンデ『モモ』岩波書店、2005年、337頁(灰色の男)
もはや児童文学において不動の地位を築いているといっても過言ではない名作です。
時は現代。町はずれの古代の円形劇場。
打ち捨てられたその遺跡に、不思議な少女モモが居つきます。
そして、いつしか町の人々は、モモに話を聞いてもらうことに幸福を感じ始めます。
悩みも喧嘩も忘れて、楽しく幸福な時間が訪れる!
町の人々の口癖は、「モモのところにいってごらん!」になっていました。
そんな穏やかな日常に、ある日、影が忍びよってきます。
それは恐ろしい力を持った“灰色の男たち”です!
・・・と、心躍る冒険の幕開けになる訳ですが、本書の優れている点は、そんな冒険心・好奇心をくすぐりながら、その背景に児童文学とは思えない、厳しい現代文明批判を含んでいることです。
果たして、現代の資本主義社会、科学至上主義・物質文明は、人間を「幸せ」にするのか?
それを、「時間」という問題を中心に展開します。
おそらく、読む人の年代によって、まったく違った味わい・視点を与えてくれる名著です。
大人の方で未読の方は、是非読んでいただきたい!
ほぼ、手放しで、皆さんにおススメできる本です。
(逆に、以下のラインナップは取扱い注意です)
デビッド・マッキー『せかいでいちばんつよい国』
せかいじゅうの人びとを しあわせにするために せかいじゅうを せいふくした ある大きな国の だいとうりょうの おはなし
デビッド・マッキー『せかいでいちばんつよい国』光村教育図書、2019年、カバー。
カバー
あるところに、とても強くて自分たちの生活に自信を持った大国がありました。その国の大統領は「世界中を幸せにするために、世界を支配しよう」と、世界制覇に乗り出します。
明らかに、念頭には、米国とその世界覇権体制、グローバリズムへの異議申し立て、少なくともそれへの疑義を含んだ作品になっています。
冷戦終結後(ソ連崩壊)、政治学者フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』で、欧米のリベラルデモクラシー(自由民主主義体制)こそが、歴史における最良の政治体制であり、その意味で、「歴史は終わった」と結論付けました。
いわば、現在進行形のグローバリゼーションは、この流れで、世界が「西欧化」(もしくはアメリカ化)すべきだという思想です。
ここに、米国大統領と本作の大統領は二重写しに見えます。
その教訓は、ゲーテが言った通り、
「地獄への道は善意で舗装されている。」
かつての「戦争を終わらせるための戦争」などもこの部類です。
善意から出発したことが必ずしも他者にとっての望むこととは限らないし、結果が「善き」ものになるとは限らない。
イラク戦争後の混乱などはその証左です。
本書の教訓のひとつは、ここにあると思います。
もうひとつ付言すれば、ハードパワーとソフトパワーの問題があるかもしれません。
物語は、最後に残った「小国」で、大国がある意味「敗北」することで幕を下ろします。
大国のハードパワー(軍事力・経済力)は圧倒的なのですが、「小国」の“見えない力”に、気づかぬ内に飲み込まれてしまいます。最後のページなど象徴的です。
つまり、ソフトパワー(文化的影響力等)に打ち負かされてしまうのです。
まさに“ペンは剣より強し”。いや、“詩は剣より強し”、か。
但し、実際の国際社会において、米国はそのソフトパワーも絶大(魅力的)であることは否めず、そこは難しいところです(逆に覇権国として振舞い始めた中国に足りない点ではあります)。
ともかく。本書の意図を最も端的に示せば次の一節でしょうか。
「剣を取るものは、剣によって滅びる。」
マタイ伝26章52節
八起正道『ぼくのじしんえにっき』
7月25日はれ、のち、じしん。しんど7。けむり、きたない雨。
八起正道『ぼくのじしんえにっき』岩崎書店、1994年、17頁。
東京を震度7の首都直下型地震が襲ったら・・・。
そんな第二次関東大震災の日々を、小学生(低学年)の男の子が書いた絵日記という体裁で描いた児童文学です。
主人公は父母と祖母、それに猫と暮らす小学生です。
平凡な毎日(母と祖母の喧嘩が絶えませんが)は、突然終わりを告げます。
学習塾で、主人公は被災、同級生の「遺体」を横目に、なんとか脱出し、帰宅します。
ラジオが繰り返し伝える「東京は壊滅状態」というニュース。会社から帰宅しない父。
あくまで一小学生の見た視点と語彙で描かれていますが、その目に映る「現実」は生々しいものがあります。
人間の汚さや浅ましさ、弱さを、しっかり描いているからです。
水がないと赤ちゃんが死んでしまうと泣き崩れる妊婦。
金属バットを持って盗みを繰り返す者。
上級生に殴られてお菓子を奪われる。
食料や水の奪い合い、略奪も起きます。
主人公の目の前で、車に火がつけられ、暴動も起きました(その無法の暴力は、すぐに正統な暴力によって抑えられる暗示もあります)。
このように、痛々しい情景が描かれており、決して「明るい」本ではありません。
この作品のテーマを挙げるとすれば、「愛別離苦」と「死」でしょうか。
作中、主人公は、これを何度も経験します。
かえり道、ママに、 「死ぬって、 どんなこと?」ってきいたら、「えんぎでもない」って、おこられた。
おばあちゃんにきいたら、
「そつぎょうしきみたいなもんじゃよ」っていった。
「そつぎょうしたら、 どうなるの?」ってきいたら、 「またうまれてきて、まえにしっぱいしたところの、やりなおしさ」といった。
ぼくも、だれかのやりなおしなんだろうか? 「でも、まえのぼくのこと、ぜんぜんおぼえてないよ?」っていったら、カンニングできないように、うまれるまえのことは、ぜんぶわすれてしまうんだって。
同上書、66-67頁。
主人公は、幾つもの「死」と向かい合うことになります。
狂犬病が発生し、動物たちが打ち殺されます。主人公の愛猫とも別れが迫ります・・・。
また、終盤の主人公の「ある行動」が、大きな意味を持ってきます。
それが、直接、とても大事な人の「死」に結び付いているように読むことができ、まさに「愛別離苦」を考えさせる内容となっています。
八起正道『ふうせんの日』
おばあちゃんは「こうやってヘリウムを入れてな・・・」と、ふうせんを空に飛ばした。「死の灰が風に乗って、どこまで飛んだかの目印にするんじゃ」・・・
そして、ついに<ふうせん>の飛ぶ日がやってきた。
八起正道『ふうせんの日』ほるぷ社、1992年、カバー。
上述の『ぼくのじしんえにっき』と同じ作者の作品です。こちらは、より小説らしくなっており、さらにテーマとストーリーは「重くなり」、高学年向けの作品になっています。
舞台は海辺の町。主人公は、夏休みを利用して、叔母夫婦の家に遊びに来た小学生。
しかし、その町には原発があって、検問が行われ、反対派と賛成派が対立する不穏な空気が流れている・・・。
2011年3月の福島第一原発事故を意識した作品と思われるかもしれませんが、左に非ず。本書の出版は1992年(!)。福島が、チェルノブイリやスリーマイルと並んで呼ばれるようになる実に19年も前の作品なのです。
子供たちにも及ぶ住民間の対立、原発の危険性を取材する記者、政府や電力会社の閉鎖性、そして怪しい男の影・・・。
やがて、公安が警戒していた過激派のテロにより、原発が爆破されます。
大爆発と放射能漏れが起こり、大混乱の中、万事屋のおばあさんは、冷静に風船を飛ばし始める・・・。
児童文学の体裁を採っていますが、内容は、原発テロの危険性と原発事故の可能性と悲惨を描いたパニックスリラーです。
そして、死の灰=放射性降下物に巻き込まれた主人公と、地元の子供たちの厳しい運命も描かれます。
「そんな!じゃあ、あの子たちはそのための人柱なんですか?」
「あれは事故だ。だれにも死んで欲しくないさ。いまのぼくらにできることは、最善の医療をしてあげることぐらいさ!」
同上書、148頁。(医師と看護婦)
やや誇張された部分、例えば、機動隊が避難しようとする住民を阻止しようと(!)、催涙弾を撃ち込んだり、避難する住民を阻止する為の遮断機(鉄柵)が設置され、それが使用されたりと・・・。著者には根強い権力への不信があるように思います(そして、ここで表現された権力の“怖さ”は、権力の本質に、それほど外れていないと思います)
おそらく3.11の以前では一笑に付されていたでしょう。
しかし、歴史は、結局、この作品に追いついてしまったわけです・・・。ふうせんは、飛んでしまったのです。
小泉吉宏『戦争で死んだ兵士のこと』
「ひとりの死は悲劇だが、多数の死は統計でしかない。」
スターリン
1人の戦死者の遺体から話は始まります。そして、彼の人生を、逆から辿っていくのが本書の構成です。1時間前、2時間前、10日前、2年1カ月前、14年前、24年前・・・。
そこには、ひとりの青年の人生がありました。そう、本当に色々なことがあったのです。
初恋や失恋、いたずら、愛犬とのこと、週末のヨットのこと・・・。
しかし、彼は、もはやひとりの戦死者として、その、骸を野に晒しています。
きっと、翌日の新聞には、「戦死者数」の無機質な数字の羅列と化しています。
私たちが、歴史の教科書で、日々のニュースで目にする、「死者数」は決して、ただの数字ではないのです。
しかし、それをただの数字にしてしまうところに、戦争の、あるいは国家や権力の恐ろしさ、不気味さがあるのでしょう。
この本を読んだとき、往年の名作、レマルクの『西部戦線異状なし』を思い出さずにいられませんでした。
この作品も、「消耗品」のように第一次大戦で死んでいく兵士の物語です。
ひとつひとつの命は、かけがえのない人生であるのに・・・。
ジャン・P・モンジャン『崇高なるソクラテスの死』
「でも、あなたがたは、名誉や、世間の評判や、快楽や、財産のことばかり気にかけている!それよりも、真実を求め、自分を磨きたいとは思わないのか?つまり、<哲学>を実践したいとは思わないのか?」
ジャン・P・モンジャン『崇高なるソクラテスの死』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2011年、7頁。
あまりに有名な古代ギリシアの哲学者ソクラテス。今から2400年前の人です。彼自身は、一切書物を書かなかったので、その人物は弟子であるプラトンなどが書き残しています。
そして本書は、その弟子にして、西洋哲学の祖と言われる哲学者プラトンの著書『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』の3冊のダイジェスト版的な絵本風の本となっています。
時系列的には、
- 『ソクラテスの弁明』・・・ソクラテスの弁明と有罪判決、続いて死刑判決。
- 『クリトン』・・・老友クリトンが牢獄のソクラテスに脱獄(亡命)を勧める。
- 『パイドン』・・・処刑当日の牢獄での友人知人との最後の対話と刑死。
という形です。
これを、要点を絞って80ページほどの絵本の形にしています。
なぜ、ソクラテスは死刑判決を受け、その刑に殉じたのか?
そして、彼は、なぜ、まったく「死」を恐れなかったのか?
これは哲学史におけるひとつの謎ともいえるものです。
そしてある意味、後の歴史を決定的に変えたこの「謎」の人物について、是非知っていただきたいと思います。
そして、中学生くらいになれば、ダイジェストではない、邦訳されている『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』を読破して、この「謎」に挑んでいただきたい。
(岩波文庫はじめ、各社から出版されています)。
もし、こういった「哲学」に興味が湧いたならば、こちらの記事もご参考にしてください↓