「何人もによって書かれたものかね?」
「そうらしいです。―この、一番最初にのっているものは、一番筋が通っていて、内容は一番ショッキングです」
小松左京「お召し」より※1
あらすじ
長官の執務室に入ってきた調査官が携えていたのは、古代遺跡から発見された古文書だった。
その内容に明らかに当惑している様子の調査官に、長官は、それを読むように促すのだった。
そこに書かれていたのは…
最高傑作かもしれない
小松左京と言えば、日本を代表するSF作家です。
SFに興味が無くても、『日本沈没』は誰しもが知っていますし、SFファンなら『果しなき流れの果に』や『復活の日』など幾つもの傑作を挙げることが出来るでしょう。
そんな小松左京は短編も多数遺していますが、そんな中でも、傑作中の傑作とも言えるのが、『お召し』です。
冒頭の導入部と本編との落差。
幾つかの伏線が巧みに織り込まれ、秀逸なオチは、まさに巨匠小松左京の為せる業です
今回はこの作品の考察めいた感想を書いていきますが、
※警告します。以下、ネタバレ全開ですので、未読の方は絶対に読まないでください!!
前知識なしで読まないと、この「驚き」、読後感は得られません。
伏線の巧みさ
本作は、物語の真実が分かった時に、読者が改めて、冒頭から、読み直してしまう仕掛けが施されています。
ちょうど映画「シックス・センス」(M・ナイト・シャマラン監督)のような感じですね。
冒頭の長官と調査官のやり取りで、注意深く読んでいると、すぐに物語の全容に気づけるようにもなっています
「三千年前の記録がな―実に三百代前の人間が書いたものだという…」
※2
三千年が三百世代
何げなく読み飛ばしてしまいそうですが、おかいしですよね
人間の寿命が100才と考えても、30世代。
100才で寿命とするのは、いささか長すぎるかと言われそうですが、古代でもソクラテスは、享年71才なんて記録の持ち主です。
50才で考えても60世代です。
とはいえ、100年というのは、実は結構、重要な単位と言えます。
西部邁がこんな指摘をしています。
実は、ヨーロッパの「世紀」という時代区分も、百年という、人間の「予想しうる最長の生涯」を暗々裡に想定しているという意味で、自然的時間ではなく歴史的時間なのだとみなければならない
西部邁『学問』講談社、2004年、70頁。
閑話休題。
ともかくも3000年、30世紀。
ここに既に人間の寿命が10才前後で計算されているという大きな疑問が湧いてきます。
ここで、これに気づけた人は鋭いですね。
向こうの世界を信頼しない限りは、即滅亡
この作品では、大人が消えてしまい、生誕から11歳までは、「子供の世界」に。その後、12歳になると消えて、「大人の世界」へと転移(お召し)してしまうようです。
この関係は極めて不均衡で、大人側は、多くの情報を持っています。
なぜなら、「変動」当初。「お召し」によって、12歳の子供たちが続々と「帰ってくる」のですから。
政府は、彼ら彼女らから徹底的に事情聴取するでしょう。
主人公の学年の「帰還組」の証言から、「子供の世界」の状況、パラレルワールド。
大人たちには、子供たちの世界の状況がつかめましたが、子供たちは、それを知らない(仮説を立てている天才少年はいますが)。大人が伝える手段がないのです。
この情報・知識の不均衡が最大のリスクとなります。
そしてこの不均衡を乗り越える唯一の手段は「信頼」しかないのです。
「子供の世界」の危機~サバイバル
子供たちの世界の危機は容易に想像できます。主人公たち(第1世代)の後、そうせいぜい、その2つ下の学年の世代(第2~第3世代)までは、何とかなるかもしれない。
しかし、その下の世代になると、適切な教育を施さなければ、即、子供の世界は滅亡します。
教育、というより、それはサバイバルに近い。
農業や手工業、文字や算術、医術、ごく基礎的な自然科学etc.
生存に必要なことを、最低限かつ最短、最効率で叩きこまなければならない。
それも、その専門家が全く皆無の状態で!
これに臨まなければならない第2~第3世代の少年少女の艱難辛苦は想像を絶します。
「大人の世界」の危機~「まだ見ぬ我が子」
他方、大人の世界はどうでしょうか?
別の世界で子供たちが生きていて、いずれ帰還するであろうことは、親たちにとって「希望」になります。「長い長い夏休みのキャンプ」とでも言おうか。
しかし、その希望はせいぜい、第4世代あたりまででしょう。
あまりに幼い子供、乳児…。
この子らが無事に帰還してくれる確率は当然低いと見積もられる。
更に深刻なのは、新生児が、即、向こうの世界へと消えてしまう現象。
これは極めて生存確率が低いと推測されるし、その新生児の両親の不安は前者のそれとは違う次元です。
すると、ここで当然起きるであろう事態は、「子供を産まない選択」に傾くカップルが、激増するということです。
12年間育てられず、安否も不明で、かつ、帰還したその12世代以降の子供たちは、一体どの親の子供かわからないのですから。
子供と大人の世界の通信が全くできない以上、子供の世界側が、よほど慎重に新生児の出現の記録状況(場所など)を記録し、それを本人に、お召しの前に伝えていなければ、全ての親は自分の子どもがわからない。
もしかすると、政府も例えば、全両親のDNAなどをデータベース化し、帰還者との親子関係の適合判定のようなシステムを構築するかもしれません。
しかし、それでも、「子供を作る」ことへの抵抗感・恐怖心が治まるわけではありません。
大人の世界で出産が減っていく。
ちょうど、映画「トゥモロー・ワールド」に近い状況でしょうか。
この作品は、人類が突如、生殖能力を失って、近い将来での人類滅亡が決定的になった時代のイギリスが舞台です。
もし、大人の世界が、出産を止めてしまえば、子供の世界はいずれ無人となり、大人の世界もいずれ滅亡し、人類は地上から姿を消します。
ところがです。
三十世紀を生き抜いた人類
ところが、人類は滅びません。
長官と調査官の時代が3000年後、つまり西暦の50世紀頃であることが作中から読み取れます。
都市があり、ガス灯の記述があるので、子供の世界は何とか18世紀くらいの文明まで回復したようです。
しかし、医学によって寿命を延ばすという事が出来ないというハンデを最初から背負った子供の世界は、学問の発展や技術の蓄積にとって極めて不利な状況に置かれています。
その3000年は文字通り綱渡りだったでしょう。
子供の世界では文字通りの生存競争の
大人の世界では産むことの勇気と覚悟の
作中にあるように、前者の世界は一度は未開まで後退してしまったようです。
それは、大人の世界の方は帰還者を見れば、容易に理解するでしょう。それでも、出産は続けられた。
もちろん、綺麗ごとばかりとはいかず、例えば、「人類の存続」の大義の上で、強制された出産もあったでしょう。
しかし、それでも、人類全体として、大人は子供を信頼した。
だから、なんとか人類は滅亡を免れた。
続篇が読みたい壮大な世界観
一体、異星人の目的はなんだったのでしょうか?
「4年目ごとに現れる“みしるし”」とは何でしょう?
異星人?と会ったというキリストのような聖人の伝説とは?
なぜ調査官は「タカヤマ」姓なのか?
まるで、『果しなき流れの果に』のような壮大な物語が想定されていたかのような、そのプロローグの位置にある短編のような、そんな錯覚・願望を抱かせる傑作でした。
※1、日下三藏・編『日本SF傑作選2 小松左京』早川書房、2017年、187頁。
※2、同上書、186頁。