オルダス・ハクスリ―『すばらしい新世界』はプラトンの理想国なのか──魂を目覚めさせる国家、眠らせる国家(ある哲学者の肖像)

都市

「支配の地位につく者は、けっして支配権力に恋こがれるような者であってはならないのだ」

プラトン『国家』(下)岩波書店、2003年、111頁。

ディストピア小説といえば、何が思い浮かべますか?

真っ先に出てくるのは、ジョージ・オーウェル『1984年』ではないでしょうか。

この『1984年』より若干知名度は落ちるものの、この作品と対にされる古典小説があります。

オルダス・ハックスリ―『すばらしい新世界』

個人的には、好きなSF文学のベスト5に入る作品です。

この作品が特徴的なのは、『1984年』と対極的な世界でありながら、共にディストピア文学の二大巨頭とされてきました。

ご存じの通り、『1984年』は、全体主義・専制主義の極致のような恐怖政治を描いています。

ところが、『すばらしい新世界』は、その反対です。簡単な労働、幸福な私生活、驚異的な娯楽、老いは克服され、戦争も無くなった、安定した世界。

ディストピアどころか、ユートピアに等しい。

しかし、この作品は、文学史において、ユートピア文学としては語られません。

ディストピアなのです。

なぜ、ディストピアとして語られるのか?

それを解く鍵は、プラトン『国家』(ポリティア)にあります。

この本を最初に読んだ時、真っ先に頭に浮かんできたのが、プラトンのこの作品でした。

『すばらしい新世界』と『国家』は共鳴関係にあるのではないのか。

『すばらしい新世界』を最も深く理解する為には、『国家』との比較が必要なのではないか?

なお、ハクスリー自身がプラトンを読んでいたという話もありますが、この作品が『国家』そのもののパロディ、あるいはオマージュとして書かれたのかどうかまでは確認できませんでした。

それはともかく――

この記事は、そんな目的意識をもって、書かれています。

地上の楽園、来たる

『すばらしい新世界』は西暦2540年、実に26世紀を舞台にしています。

(この時代の紀元法は「フォード紀元」で、その紀元法では632年)

フォード紀元141年(西暦2049年頃)に勃発した「九年戦争」の破局的結果に驚愕した人類は、平和を維持する為、あらゆる方策を採ります。

この時代は、人類単一政体としての「世界国家」に統一されています。

この世界国家の最高機関が「世界統制官会議」であり、そのトップは、10人の世界統制官が占めています。

彼らが、行ったのは、実に簡単な方法でした。

人間を二段階で文字通り「創造」します。

まず人工孵化の段階で、胚への化学的・生理的処置によって、各階級に適した身体能力や知的能力を作る。

さらに誕生後は、電気ショックを用いた条件反射や睡眠学習によって、本人が自分の階級・仕事・生活様式を心から好むように教育するのです。

その結果、基本的な5階級の人間を作り出し、その階級にあった労働・社会的処遇を与えます。

階級役割
アルファ(Alpha)最上位階級。知的・管理的な職務を担当するエリート層
ベータ(Beta)上位階級。専門職・技術職などを担当
ガンマ(Gamma)中位階級。比較的単純な事務・労働などを担当(多胎児)
デルタ(Delta)下位階級。単純労働を中心に担当(多胎児)
イプシロン(Epsilon)最下位階級。最も単純な肉体労働などを担当(多胎児)

(※それぞれの階級には、更に+-の区別があり。例えば、最上位は「アルファ++」)

幼児期以前の「改造」によって、その階級の人間は、その階級でいることを最も好むように設定されている。

生きることは、全く苦にならないのです。

この世界は苦にならない少しの労働と毒性のない常用麻薬とフリーセックスで、人生を最初から最後まで謳歌できるシステムを完成させています。

そして、重要なのは、この「本性」の設定によって、下の階級が、上の階級を「羨む」という感情自体が、全く存在しないことです。

つまり、それは内乱や革命の契機を、そっくりそのまま消し去っているという、魔法のような世界なのです。

プラトンの「理想国」は実現したのか?

この世界は、冒頭でお話したように、プラトン『国家』における「理想国」と非常に酷似しています。

プラトンは(作中のソクラテスに語らせる形で)、人間には先天的な適正があることを、金銀銅鉄の「神話」という形で説いています。

材質階層・役割
統治者・守護者。哲学的知をもち、国家全体を導く階層。「理性」を体現。
補助者・戦士。国家を防衛し、統治者を補佐する階層。「気概」を体現。
銅・鉄生産者。農業・商業・手工業などを担う階層。「欲望」を体現。

生れてきた子供が、一体、その材質(本性)を持っているかを、見極めるのが、最も重要です。

国家は船であり、船長に相応しくない者をその地位につけると遭難します。

水夫は水夫に

水兵は水兵に

航海士は航海士に

船長は船長に

世界国家は、まさにここを科学の力によって実現しているのです。

おお、偉大なるフォード様!

…ですが、違うのです。

根本的に、世界国家と理想国は、表面的には、どれだけ似ていようが、根本的に違う。

決定的な相違点があります。

理想国と世界国家

そもそも、両者の建国の「動機」とはなんでしょうか。

『すばらしい新世界』の世界が、「西暦」を棄て、「フォード暦」を選択した経緯は、明らかにされています。

世界国家は、事実上の最終戦争たる「9年戦争」の惨禍を繰り返さないために、建国されました。その為に、独裁制と、極端な反知性主義(反知性・主義、原義ではなく通俗的な方の)が採用され、学問・科学は、厳重に規制されることになります。

一切の「戦争」を終わらせること。

他方、プラトンの理想国はどうでしょう。

その建国(構想)の動機は?

そのためには、彼の「哲学」が何を意味するかを念頭に置かればなりません。

誤解を恐れずに言えば、プラトンの哲学の第一目的は、真理を観ること、ただその一点にある。

では、プラトンにおける哲学の関心が、政治にまで及んだ理由は何か。

つまり彼の哲学が同時に政治哲学であるのは、なぜなのか。

プラトンにとって人間・世界は善性に貫かれているものです。

この宇宙が存在し、人間を含めた動植物が存在し、自然法則が存在し、そして何より、ロゴス(理性・論理)が存在する事実は、この世界に「秩序」がある事を意味する。

「秩序」とは「善」である。

従って世界は善性に貫徹されており、そこでの人間の目的は魂を善くすること、即ち、愛知者として愛知(フィロソフィア=哲学)に励む事である。

これはどこまでも個人自身における内面の理性活動の問題であり、そこに他者や社会は介在しません。

だが、しかし、『国家』においてソクラテスがこう諭してくるのです。

「しかしね(中略)それだけでは、最大のことをなしとげたと言うわけにもいかない――彼の住む国家のあり方が、自分の素質にぴったりと適合したものでないならばね。なぜなら、そのようにぴったりと適合した国家においてこそ、彼自身ももっと成長するだろうし、個人的なものとともに公共の事柄をも、安全に救うことになるだろうから。」

『国家』(下)、51頁。

外の環境が良ければそれに越したことは無いし、更に重大な事は、善き者である愛知者が周りの不正・邪悪を見過ごす事は善き事とは言えません。

ましてや哲学者が身を滅ぼす様な国政(ソクラテス刑死)は邪悪であり、まさに現実の国制は

「どれひとつとして哲学的素質に値するものはない」

『国家』(下)、51頁。

それを何とか改善せんとする試みも、知恵・善の探求者たる哲学者に課せられた使命でしょう。

かくして、プラトンは、現世に背を向けることなく、この問題に挑むことになります。

そこで、彼が辿り着いた、結論は、哲人統治です。

「善」そのもの、その真理を観ることができる哲学者に支配権を委ねるしかない。

「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり(中略)あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり、親愛なるグラウコンよ、国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。」

『国家』(上)、405頁。

結局、同じ理想を追い求めたのか?

ここまで比較してくると、両者は恐ろしく酷似していると言わざるを得ません。

両者とも、人類の不幸を終わらせようとする。

両者とも、人間を適性に応じて階層化する。

両者とも、少数の知者に統治を委ねる。

両者とも、教育を国家の中心に置く。

何か違いはあるのか?

それは、この両国家が目指すものの到達点、理想がなんであるか、という点です。

世界国家は、戦争の惨禍を避ける為、いわば、人類の「永遠平和の為に」、究極の安定のために。

対して、プラトンの理想国も、戦争の惨禍を防ぎ、安定を求めますが、そこで終わらない。

プラトンの目的は、善(正義)に適った国家を誕生させること。

それは「ソクラテスが殺されない場所」とも言えます。

それは、二重の意味でそうでしょう。

ソクラテスが殺されるような不正は、真の哲学者ならば見過ごせないこと。

ソクラテスを筆頭とする「哲学」の営み、その真理への道を妨げないこと。

注意しなければならないのは、プラトンは、「政治」や「国家」というもの、総じて「政治的なるもの」を「必要」とは、おそらく考えていない点です。言うなれば、「必要悪」に過ぎない。

その「政治的なるもの」が地上から、一掃できない以上、その前提での、究極の「正義」に適った限界点としての「理想国」であることです。

換言すれば、これは「善き政治」のイデア(理想)と言えます。

あくまで、哲学が、真理が主であり、安定は過程に過ぎません。

ところが、世界国家には、「真理」の問題は最終的な目的ではない。

彼らが欲したのは、平和としての安定です。

その為に、学問・芸術は制限されます。

魂を目覚めさせる国家、眠らせる国家?

ここで、両国家の違いを、教育という側面から見てみましょう。

プラトンの理想国も、『すばらしい新世界』の世界国家も、ともに国家が教育へ強く介入する「教育国家」です。

どちらも、人間がどのような価値観を持ち、何を欲し、どのような役割を担うのかを、個人に任せはしません。

この一点だけを見れば、両者はよく似ています。

ただし、注意しなければならないのは、プラトンの理想国において、すべての階層の人間が等しく哲学教育を受けるわけではないことです。

『国家』の教育論でまず詳しく論じられるのは、守護者となる者たちです。

彼らには、幼少期から音楽や詩、体育などを通じて、勇気や節制、正しい愛憎の感覚を身につけさせる教育が行われます。

そして、その守護者層の中から、さらに優れた者が選抜されます。

彼らは数学、幾何学、天文学、弁証術を学び、最終的には善のイデアへと向かう。

ここで初めて、あの「洞窟の比喩」が登場します。

プラトンにとって、最高度の教育とは、魂の中に知識を詰め込むことではありません。

すでに「見る力」を持っている魂そのものを、影から実在へ、意見から知へと振り向かせることです。

つまり、教育とは魂の「向き変え」の技術なのです。

ただし、その最高度の教育は、すべての人に一様に与えられるわけではありません。

補助者たる戦士には、主として正しい習慣と信念を身につけさせる教育が中心となり、生産者層については、『国家』では守護者ほど体系的な教育論は展開されません。

この点を考えると、単純に

「プラトンは国民全員の魂を目覚めさせようとした」

と言ってしまうのは、正確ではないでしょう。

むしろプラトンの国家は、人間の素質に応じて、それぞれ異なる教育を与える国家です。

そして、その頂点に立つ者だけが、真理そのものを見るための教育を受ける。

この構造は、実は『すばらしい新世界』の世界国家とも、ある程度似ています。

世界国家もまた、すべての人間に同じ教育を施すわけではありません。

各人は、その階級に応じた能力と嗜好を与えられ、その役割に適応するよう条件づけられる。

さらに、世界国家の内部にも、科学や思想を理解できる優秀な人間は存在します。

異端的な知識人や研究者たちは、場合によっては島へ送られ、そこで知的活動を続けることさえ許されている。

止まれ、しかし、プラトンは、「金」の子供を見つけようとします。

対して、世界国家は、そんな「逸材」を見つけるために、あの科学教育をするわけではありません。

あの、島流しになる人々は、アルファの中の特異事例であり、突然変異、生産過程の「規格外」です。

その偶然に対して、ガス室ではなく、折角なので、生かして、学問・科学・文化の灯に残しておくという、極めて消極的な判断に過ぎない。

ここが決定的に違う。

ここまで見てくると、両者の違いは、教育の有無でも、知者の有無でもありません。

もっと重要なのは、その知が何のために用いられるのか、という点です。

プラトンの理想国では、最上位の知者は、善のイデアを基準に国家を導くことを求められます。

それこそ、いわば神の恩寵です。

彼は、自らが見た真理を、少なくとも国家の統治原理へと反映させなければならない。

一方、世界国家の知者たちは、真理や科学や芸術の価値を理解しながらも、それらを安定のために制限します。

知は、社会をより善くするための最高原理ではなく、安定を乱さない範囲で管理される対象でしかない。

だから、両国家の違いは、単純に

「目覚めさせるか、眠らせるか」

という二分法だけでは捉えきれません。

むしろ、

プラトンの理想国では、知者は、必死に探し出され、真理を見るために教育され、知者となる。

世界国家では、知者は真理を知りながら、見つかれば、隔離されるか、それをなす側に回るかの二者択一です。

この違いの方が、より本質的でしょう。

そして、この違いを一人の人物として体現しているのが、西ヨーロッパ駐留世界統制官ムスタファ・モンドです。

ある哲学者の肖像──ムスタファ・モンド

『すばらしい新世界』を単なるディストピア小説として読むなら、ムスタファ・モンドは、この作品の「ビッグ・ブラザー」でしょう。

西ヨーロッパを管轄する世界統制官。

禁書を管理し、科学を統制し、宗教を否定し、芸術を制限する側の人間です。

ところがです。

モンド自身が、それらの価値を誰よりもよく知っている。

彼はシェイクスピアを諳んじる。

宗教を知っている。

科学の価値を知っている。

そして、それらが人間に「何を」与えるのかも理解している。

それどころか、若い頃のモンド自身が、純粋科学に魅せられた研究者でした。

世界国家の正統から外れた研究に手を染め、「規格外」として、ついには島へ送られるか、世界統制官会議の末席に名を連ねるか、その選択を迫られる。

モンドは後者を選びました。

ここが、この人物の最も興味深いところです。

彼は、真理を知らないから科学を抑圧しているのではない。

芸術を理解できないからシェイクスピアを禁じているのでもない。

むしろ逆です。

知っているからこそ、危険だと判断する。

真理には、人間を目覚めさせる力がある。

芸術には、人間を不安定にする力がある。

宗教には、人間を現在の秩序の外へ向かわせる力がある。

科学には、社会そのものを変えてしまう力がある。

モンドは、それを知っている。

そして、それでもなお、彼は安定を選びます。

ここで、彼は単なる官僚ではなくなります。

むしろ、ひとりの哲学者に近づいてくる。

少なくとも、世界とは何か、人間とは何か、幸福とは何か、真理にはどのような価値があるのか――そうした問いを、一度も考えたことのない人間ではありません。

その上で、真理よりも安定を選んだ。

そこに、モンドの悲劇があります。

彼は、世界を守るために科学、真理を捨てる。

「でも、あなたは島へは行かなかった」野人が長い沈黙を破って言った。

統制官はにっこりして、「そういうかたちで代価を支払ったんだ。しあわせに仕える道を選ぶことでね。仕える相手は、他人のしあわせだ――わたし自身のしあわせではない」

ハクスリー『すばらしい新世界〔新訳版〕』早川書房、2017年、317頁。

ここなど、『国家』そのものです。

理想国の要点は、真理を目指すことを至上価値とする「哲学者」が、それとは、正反対の、支配や権力の座に、強制的につかされることになります。

本来、知を愛する人は、世俗を離れ、最高の善い生活=「幸福者の島」(島!)で過ごすことを切望する。

なのに、国家は、それを許さず、権力と玉座を押しつけてくる。

これを『国家』の中で表明するソクラテスに、それを聴くグラウコンが、思わず懸念を言う程です。

「それを許さぬとなると」と彼はたずねた、「われわれはその人たちに対して、不当な仕打ちをすることにはなりませんか? もっと善い生活が可能であるのに、より悪い生活を彼らに対して強いることにはならないでしょうか?」

プラトン『国家(下)』岩波書店、107頁。

つまり、最も政治を嫌悪・忌避する者が政治を担うという逆説です。

モンドも、支配権力に恋い焦がれた人間ではありません。

反対に、自分の幸せ(学究の道)を棄てて、他人の幸せ(世界の安定)に仕える道を選んだ。

だからこそ、ムスタファ・モンドは『すばらしい新世界』の中で、あの登場人物の一群の中で、最も悲劇的で、最も魅力的な人物なのです。

ここまで来ると、モンドと哲人王の距離は、恐ろしいほど近い。

哲人王と世界統制官

ムスタファ・モンドとプラトンの哲人王は、重なっている。

どちらも「支配権力に恋焦がれる者ではない」

そして、どちらも自分自身の幸福よりも、国家全体の幸福と秩序を優先し、統治する側に立っています。

では、両者は同じなのでしょうか。

この論稿のタイトルは今から、変えるべきなのか?

──否、やはり、違う。

しかし、その違いは、支配権力への愛の可否、知への渇望とは違う点です。

では、何が違うのでしょうか。

おそらく、それは知者であるかどうかではない。

知者が、その知を何のために使うのか。

何を国家の最高原理(最高価値)に置くのか。

その一点です。

プラトンの哲人王は、善を見て、究極的には、その善に国家を近づけようとする。

プラトンの哲人王が最終的に仰ぎ見るものは、「善」そのもの、善のイデアです。

哲人王が数学や弁証術を学び、洞窟を抜け出し、最後に「善のイデア」を観るのは、単に博識になるためではありません。

何が本当に善いのか。

何が本当に正しいのか。

その基準を知った上で、地上の悪に眼を瞑れずに、「善」に従って国家を導くためです。

したがって、国家の安定それ自体が最高目的なのではありません。

それは二次的な結果、付随的な結果に過ぎない。

「哲学者たちが国々において王となって統治するのでないかぎり」とぼくは言った、「あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつじゅうぶんに哲学するのでないかぎり、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されて、多くの人々の素質が、現在のようにこの二つのどちらかの方向へ別々に進むのを強制的に禁止されるのでないかぎり、親愛なるグラウコンよ、国々にとって不幸のやむときはないし、また人類にとっても同様だとぼくは思う。」

プラトン『国家(上)』岩波書店、1996年、405頁。

安定した国家であっても、それが善に適っていなければ、プラトンにとって理想国とは言えない。

悪しき平和と言うのは有り得ない。

極端に言えば、

「皆が満足しているから、それで善い」

とはならないのです。

ところが、ムスタファ・モンドの判断は違います。

彼も真理について、一種の確信がある。。

科学の価値も、芸術の価値も、宗教の価値も知っている。

しかし、それらが世界の安定を脅かすのであれば、彼は躊躇なく制限する。

真理そのものに価値がないと考えているわけではありません。

むしろ、その価値を知っているからこそ、その危険性まで知っている。

そして、その二つを秤にかけた末に、モンドは安定を取る。

つまり、彼にとって真理は絶対ではありません。

人間を幸福にするためならば、真理は隠されてもよい。

芸術も失われてよい。

科学も止められてよい。

宗教も消えてよい。

人間がその代価として、戦争も貧困も深刻な苦悩もない生活を得られるのならば。

ここに、哲人王と世界統制官の分岐点があります。

モンドは、真理を知りながら、その真理を安定のために規制、従属させる。

彼は、知の守護者です。

同時に、知の看守でもある。

「善い」と「良い」、あるいはエピステ―メーとドクサ

プラトンの哲人王は、

「善とは何か」

という問いから国家を考える。

モンドは、

「人間をどうすれば安定して幸福にできるか」

という問いから国家を考える。

似ているようで、この二つは同じではありません。

もっと言えば、プラトンにとって、人間の即時的な欲望そのものが「善」の基準になるわけではないと考えています。

人間が欲しいと思っていること。

人間が気持ちいいと感じていること。

人間が満足していること。

人間がそう思うのは、それが自分にとって、「良い」ことであるからです。

人を殺そうと、快楽をむさぼろうと、それが、その当人にとっては、「良い」から。少なくとも、当人はそう「思っている」から。

そう「思っている」、それは「思惑(ドクサ)」なのです。

本当に知っている訳ではない。

プラトンの言う「哲学者」はここが決定的に違います。

それは、良いと「思う」ではなく、「本当に」良いとは何であるのかを知っている人物です。

普通、「良い」「善い」というのは、個々人に違う事であり、それこそ、数学のような、人間から独立した時空間を超越した、普遍的な「善」は存在しないと考えるでしょう(特に近現代では)

しかし、プラトンは、それは「ある」といいます。

普遍的な「善」=善のイデアはあるのであり、それを観る(テオリア)ことができるのが真の哲学者である、と。

プラトンには、先述した「洞窟の比喩」があります。

殆どの人間は、洞窟の中で、壁に向かって座っているのであり、その彼らの背後に、運ばれてくる「個物」があり、その影を、本当の者だと眺めている。

それが「ドクサ」です。

しかし、もし、その背後を振り返り、更には、その洞窟の出口、明るい方に歩むものがいたらどうでしょうか?

それが哲学者への道です。

そして、洞窟の出口に来た時、その人は、はじめて輝く太陽を仰ぎ見る。

その太陽こそ、「善のイデア」です。

プラトン 洞窟の比喩

対して、世界国家は、真理を、愛知(知を愛する=フィロソフィー)を大前提にしているわけではありません。

先ほど見たように、洞窟の囚人たちが影を見て満足していたとしても、その満足によって影が真実になるわけではないからです。あくまで仮初の「満足」です。

ところが、世界国家は、まさにその仮初の「満足」を作り出します。

苦痛が起こらないようにする。

不満が生まれないようにする。

自分の階級を嫌わないようにする。

孤独に耐えて思索する必要がないようにする。

そして、どうしても苦痛が生まれれば、ソーマがあるじゃないか。

世界国家が人間に与えたものは、真理ではありません。

真理を必要としなくても幸福でいられる環境です。

それは九年戦争の惨禍を繰り返さないための予防線です。

ここで、両者の違いがようやく見えてきます。

哲人王は、人間の幸福を「善」へ従属させる(というより、大方の幸福は錯誤でありドクサであると)

対して、世界国家は、真理や善を、人間の幸福と社会の安定へ従属させる。

言い換えれば、

プラトンにとって幸福とは、魂が善くあることの結果です。

モンドにとって幸福とは、不満と苦痛が可能な限り取り除かれた状態です。

だからこそ、モンドは恐ろしい。

しかし同時に、簡単には否定できません。

なぜなら彼が守ろうとしているのもまた、人間だからです。

戦争で殺される人間。

貧困に苦しむ人間。

欲望や嫉妬によって争う人間。

失恋し、老い、病み、死を恐れる人間。

モンドは、そうした人間の弱さを知ったうえで、それを政治によって取り除こうとした。

プラトンが、人間の魂をより善い方向へ向けることに賭けたのだとすれば、

モンドは、人間がそこまで高くなれるとは信じなかったのかもしれません。

だから彼は、人間を善へ引き上げるのではなく、人間が苦しまなくても済む世界を作って、維持する側へ廻った。

ここに、二人の統治者の最大の違いがあります。

プラトンは、人間が善へ向かいうる可能性に賭ける。

モンドは、人間の弱さを前提に、幸福を設計する。

この微妙でいて決定的な差が両者にあります。

ちなみに、プラトンの最晩年の著作に『法律』(ノモス)があります。

プラトン『国家』の理想国が最善と称されるのに対し、よく次善の構想といわれる建国プログラムが描かれています。

哲人王の絶対的な支配に頼らず、法による統治に妥協した作品と言われています。

『国家』ほどには注目を浴びませんが、このプログラムの中で、統治の最高機関として、知者たちの合議体「夜明け前の評議会」が登場します。

この評議会、モンドの属する「世界統制官会議」を連想しませんか。

さて、この二つの思想の間に立たされる人物がいます。

「野蛮人」ジョンです。

彼は、世界国家が差し出す幸福を拒絶します。

それどころか、自ら「不幸になる権利」を要求する。

なぜ、人間はわざわざ不幸になる権利など求めなければならないのでしょうか。

「幸福」の代償、「自由」の代償

ここで、もう一人の人物に戻らなければなりません。

「野蛮人」ジョンです。

世界国家の例外、北米の未開「野蛮人保留地」で育った彼は、シェイクスピアを読み、その言葉によって世界を理解してきた人物です。

文明世界へ連れてこられたジョンの眼前に現れたものは、戦争も貧困もなく、人々が自分の仕事を愛し、老いや病に怯えず、苦痛があればソーマによって忘れることのできる社会でした。

世界国家が5世紀あまりを費やして作り上げた「幸福」の完成形です。

ところが、ジョンはそれを拒絶します。

なぜでしょう。

彼が求めているものは、いままで議論してきた「真理」ではありません。

「自由」です。

「僕は不幸になる権利を要求する」

「老いて醜くなり、無力になる権利はもちろん、梅毒や癌にかかる権利、食料不足に陥る権利、虱にたかられる権利、あしたどうなるかわからないという不安をつねに抱えて生きる権利、腸チフスになる権利、あらゆる種類の言語に絶する苦痛に苛まれる権利も」

オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界〔新訳版〕』早川書房、2017年、333頁。

愚行権を要求しているのです。

自分で選択する自由。

自分で間違える自由。

誰か一人を愛し、そのために苦しむ自由。

孤独になる自由。

病む自由。

老いる自由。

神を求める自由。

そして、失敗する自由。

世界国家から見れば、どれも馬鹿げています。

避けられる苦痛を、なぜわざわざ引き受けるのか。

幸福になれるのに、なぜ不幸を選ぶのか。

ここで、ジョンとムスタファ・モンドの対話、いや、対決が始まります。本作の白眉です。

なぜ「不幸になる権利」を要求するのか。

これは奇妙な言葉です。

普通、人権とは、幸福になるための権利でしょう。

幸福追求の権利はあっても、「不幸になる権利」などというものを、わざわざ要求する人はいません。

しかしジョンにとって、それは同じことなのです。

幸福になる道を国家にあらかじめ決めてもらえば、人間は確かに苦しまなくて済む。

しかし同時に、

自分自身の力で、何が善いのかを探す可能性も失ってしまう。

「この世界では、なにもかも安く手に入りすぎる」

『すばらしい新世界』331頁。

ジョンが求めているのは、不幸そのものではありません。不幸という過程であり、それを克服する努力や勇気という美徳です。

不幸になる可能性を含んだ「自由」です。

なぜなら、自由がなければ、人間はより高いものを目指すことさえできないからです。

この点で、ジョンはムスタファ・モンドと真っ向から対立します。

モンドにとって、自由とは危険です。

人間が自由であるということは、人間の欲望も自由になるということです。

人を愛すれば嫉妬が生まれる。

財産があれば奪い合う。

思想が自由なら対立が起こる。

宗教があれば信仰をめぐって争う。

「文明には、気高さや英雄らしさはまったく必要ないんだよ。そんなものは、政治的な失敗のあらわれだ。この文明世界のように、きちんと組織された社会では、だれひとり、気高さや英雄らしさを発揮する機会を持つことができない。社会が全面的に不安定になってはじめて、そういう機会が生まれる。」

『すばらしい新世界』329頁。

科学が自由なら、昨日までの社会秩序そのものが覆されるかもしれない。

そして、それを突き詰めていった先にあったものこそ、世界国家が決して繰り返してはならない最終戦争たる「九年戦争」でした。

「それでもやはり、当時は無制限の科学研究が許されていた。人々は、依然として、真実と美を、それが最高善であるかのように語りつづけていた――九年戦争のときまで。ところが、九年戦争を境に、空気が一変した。まわりじゅうで炭疽菌爆弾が爆発しているとき、真実や美や知識になんの意味がある?」

『すばらしい新世界』316-317頁。

(この本は、1932年出版であり、核兵器登場以前です)

だからモンドは自由を制限します。

自由を奪うことで、戦争の原因を奪う。

不安を奪う。

嫉妬を奪う。

深い苦痛を奪う。

人間から「不幸になる自由」を奪うことで、人間を幸福にした。

これは、単なる暴君の屁理屈ではありません。

むしろ恐ろしいほど合理的です。善意そのものです。

だからこそ、ジョンとモンドの対話は簡単には決着しない。

しかし、ここでもう一人、プラトンをこの場に連れてきましょう。きっとモンドも読んでいるはずでしょうし。

「不幸になる権利」――イカロスの翼は燃え尽きて

ジョンは自由こそ、人間が高みへ登るための条件だと考える。

では、プラトンはそれに賛成するでしょうか。

おそらく、賛同しまい。

プラトンにとって、「自分の好きなように選ぶこと」は、そのまま真の自由を意味しません。

人間が欲望のままに、その時々で「良い」と思ったものを選ぶ。

それは自由であるように見えて、実のところ、自分自身の欲望に支配されているだけかもしれない。

本人には、自分が自由に選択しているように見える。

しかし、その選択が本当に善いのかどうかを、本人は知らない。

先ほど見た言葉を使うなら、それはまだ「ドクサ」の世界です。

ここに、ジョンの限界があります。

ジョンは洞窟の壁に映った影だけで満足することを拒絶した。

その点では、多くの大衆とは違うでしょう。

彼は振り返ろうとする。

外へ出ようとする。

しかし、彼は「太陽」を目指している訳ではない。

彼の見たいもの、感じたいもの、成し遂げたいものとは、勇気であり、努力であり、闘争という美徳です。

シェイクスピアの世界です。

彼にあるのは、ただ、それらを実現する為の「自由」への激しい渇望です。

そこに、一片の真実はありますが、真理そのものではない。

プラトンなら、それは、補助者(戦士)の徳だというでしょう。

補助者の徳「気概」について、『国家』の中で、次のように述べられています。

「では逆に、自分が不正なことをされていると考える場合はどうだろう? そのような場合には、その人は心を沸き立たせ、憤激し、正しいと思うことに味方して戦い、飢えても、凍えても、その他すべてそのような目にあっても、じっと堪え忍んで、勝利を収めるのではないだろうか。そして、目的を達成するか、それとも斃れて死ぬか、それとも、ちょうど犬が羊飼いから呼び戻されるように、自分の内なる理性によって呼び戻されて宥められるかするまでは、その気高い闘いをやめようとはしないのではなかろうか?」

プラトン『国家(上)』岩波書店、1996年、320頁。

まさにギリシア神話であり、シェイクスピアです。

だが、この「気概」は、「勇気」という美徳ですが、それは容易に「無謀」や「蛮勇」にも転嫁してしまう。

では、それが、好悪どちらに転ぶかを、決定的にしているものは何なのか?

それは、理性であり、その理性を最大限に用いることが出来るのが哲学者である、と。

もっとも戦士が勇気をもって仕えられるのは哲人王の下であると。

こういうロジックが成り立ちます。

ひとつ、ここでジョンを神話の人物に置き換えてみましょう。

イカロスです。

クレタ島から脱出することを願うイカロスは蝋で作った翼を得ます。

飛ぶ自由を得る。

父ダイダロスは、低く飛びすぎても、高く飛びすぎてもならないと警告します。

しかし、イカロスは太陽へ向かって上昇する。

高く。

さらに高く。

ついには、翼を固めていた蝋が溶け、海へ墜落する。

ジョンもまた、自由という翼を持って、クレタ島という世界国家から飛び立とうとした人物なのではないでしょうか。

モンドが作った世界は、安全です。

太陽に近づくことはできません。

しかし、墜落することもない。

人間が焼け死ぬほど高く飛ばないように、あらかじめ翼そのものを切り取ってしまった社会です。

対してジョンは、翼を返せ、と要求する。

墜ちてもいい。

傷ついてもいい。

苦しんでもいい。

それでも、自分の力で飛びたい。

そして、彼は、神話の通りに死にます。

プラトンの対話篇にも似た「神話」があります(『パイドロス』)。

2頭立ての戦車(チャリオット)。

「気概」はここでは、片方の馬です。

もう一方は、「欲望」。

この2頭の馬を御する御者は「理性」です。

「理性」に御されて、はじめて、高みへ、真理の世界を眺める、観想(テオリア)する旅を果たせます。

墜落していくジョンの横を、プラトンの御した馬車が高みへと昇っていく。

【了】

【参考文献】

プラトン『国家』(上・下)岩波書店、1996年/2003年。

プラトン『パイドロス』岩波書店、1993年。

藤沢令夫『プラトンの哲学』岩波書店、2001年。