『寄生獣』異聞~田村玲子「視点」のパラサイト生存戦略【政治学的考察】

プロメテウス

人肉喰らいの食屍鬼の登場は、国際政治にどのような影響を与えるのだろうか。リアリスト の解答は、驚くべきものではあるが、いたってシンプルである。すなわち、そこでの国際関係には、何らの変化もないというのだ。このパラダイムは、人類に対する新たな実存的脅威が人間の行動に対して何らかの劇的な変化をもたらすと主張するような人々にとっては、どちらかというと感銘を与えないものであろう。

D・ドレズナー『ゾンビ襲来』白水社、2012年、58-59頁。

説明するまでもない日本コミック史の金字塔です。

語るべきこと、考察しがいのある論点は多々あるでしょうが、今回は、作中で異彩を放ったパラサイト「田村玲子」(田宮涼子)の考えていた「計画」を、政治学の知見に基づいて考察していきます。

※この記事は、以前、私が参加した読書会で、私が披露した見解を、詳細かつ敷衍して書いたものです。ですので、他の方で、同読書会に参加された方のレポートなどで、同じ論旨の紹介があっても、オリジナルは私自身のものになります。

「パラサイトの条件」

彼女(?)は、様々な計画を市長の広川と画策しました。

しかしながら、その想い半ばで、警官隊の銃撃に斃れます。

彼女の計画とは何であったのか?

そのヒント、全体像を米国の政治理論家ハンナ・アレントの『人間の条件』から考えてみましょう。

アレントは人間の営み・条件を3つの領域に分けました。

  1. 「労働(レイバー)」…生命それ自体の条件。食事などの生存するための行為。
  2. 「製作(ワーク)」…人の世界性の条件。人工物の制作により、自然界と分離して独自の世界を構築。
  3. 「活動(アクション)」…人間の条件。事物ではなく、人と人の関係性・複数性で進行する。即ち「政治」の誕生。

寄生獣は、個々で活動する生命体です。

ですから、捕食という単体での「労働」の段階にいます。蟻と同じです。

これを群体へ、つまり、組織化、ひいては、社会化しようとしたところに田村玲子の特異性があります。

その初期段階で、田宮はパラサイト「A」と実験的な繁殖行動(セックス)をし、妊娠してみせます。

これは、それまでのパラサイトにとっては「喰う」という消費一辺倒から、一種の「製作」段階への昇華といえます。

性交から妊娠を「製作」と表現するのには、違和感や嫌悪感を持たれるかもしれません。

アレントの文脈からいっても、出産(繁殖)は、「製作」ではないでしょう。

しかしながら、種としての繁殖能力がないであろうパラサイトの感覚では、「乗り物」に過ぎない人間を使って、パラサイトではない「人間」の幼体を「生産」する行為は、明らかに「製作」の範疇ではないでしょうか。

(しかし田宮玲子の最期では、「母性」が現出する訳ですが)

そして田村玲子による社会化計画の最終段階が「活動」としての東福山市政の掌握です。

広川を頂点とした寄生獣の「社会」を構築し、持続可能性を手に入れること。

田村玲子が、人間の恐ろしさとパラサイトの非力さを何度も強調するのは、この社会の有無です。

個々のパラサイトがいくら強力でも、社会化した集団としての人間には太刀打ちできない。

(これは後に東福山市役所掃討作戦で証明されます)

その社会の構築には、パラサイト同士の議論・対話・妥協という「活動」の契機、即ち「政治」が求められます。

田村玲子が自らを抹殺しに来たパラサイト「草野」の私刑(リンチ)的行動を絶賛したのはこの為です。

パラサイト集団の個性の無さは逆に命取りになる。

多様性がない種は、ひとつのウィルスの一撃で全滅する恐れがある。

同じように、多様性がない社会はひとつの方向性しか持たなくなり、様々な事象への対応が不可能になる恐れがあります。

活動が対話ならば、個性が乱立して、様々な回答・対象法が噴出した方が、それだけ選択肢

が増えるので、様々な危難・障害を乗り越える可能性が高まります。

ともかくも、田村玲子の「計画」は、この壮大な計画は、「名探偵」の活躍で、田村玲子自身が斃れたこと、それからあまり時を置かずして開始された、日本政府による東福山市役所掃討作戦で、市長広川を喪ったことで、完全に潰える訳です。

いつも思うのは、もし、田村玲子が生存していたら、この物語は、一体どういう方向に進んだのか?

興味は尽きません。

そこで、田村玲子生存ルートによる『寄生獣』の世界線を考察していきましょう。

「か弱い」のは誰か?

まず、田村玲子の「パラサイト観」を考えてみます。

彼女は、自分も含めたパラサイトを「か弱い」と言って、泉新一を驚かせました。

あの凶暴な、驚異的な身体能力と変身能力をもって、どこが「か弱い」のか?

しかし、その「か弱さ」は、東福山市役所攻防戦で描かれています、

その最もたるは、政府側の駆除作戦に、なされるがままに成っている点です。

途中、パラサイトの正体が露見して、市役所ロビーがパニックになり、制圧部隊が公然と制圧行動に移りますが、この期に及んでも、一部パラサイトの単発のサボタージュ行動に終始し、制圧部隊側に多少の犠牲は出ても、確実に駆除されていきます。

パラサイトの戦闘能力は、普通の人間=自然人のそれを遥かに凌駕していますが、武装し集団組織化した人間の群体(軍隊)の前では、いとも簡単に「殺処分」されていきます。

「か弱い」存在にすぎない。

東村山市役所の状況は、パラサイトにとっての死活的な状況です。

これを打開するには、単体という欠点、ハンデを克服しなければならない。

もし、田村玲子が生きていたら、当然、そこに気づくでしょう。

つまり、集団でぶつからなければ、皆殺しにされる、と。

シミュレーション「東福山市 市街戦」

単発のサボタージュではなく、どこかの時点で、市役所内の全パラサイトが一斉に蜂起したら、どうなるのか?

これを行えば、おそらく壊滅するのは、制圧部隊側です。

作中の描写を見る限り、本作戦の参加部隊は「内環」が陸上自衛隊の1~2個普通科(歩兵)中隊、警察は機動隊1個大隊程度。

人員数で500名はいかないでしょう。

ちなみ、あさま山荘事件(1972年)では投入された警官隊は1000人を越えますが、いかんせ、秘密作戦である以上、そこまでの部隊を投入してしまうと、住民やマスコミに事態が広く漏洩してしまう。

ですから500人くらいが、「猟銃を持った犯人」という設定(フェイク)で、ギリギリの許容範囲でしょう。

他方、東福山市役所に潜伏するパラサイト、ざっと50体程度じゃないでしょうか。100はいかないと思う。

仮に50体だったとして、彼我の戦力差は1対10です。

しかし、パラサイト側には「後藤」という「化け物の中の化け物」もいます。

この程度の単純数量の優位では、作戦部隊はすぐに劣位に逆転します。

当初の市役所掃討作戦の参加部隊(自衛隊・警察)では手に負えませんし、壊滅します。

この後、2つの選択肢がパラサイト側にはあります。

ひとつは、掃討部隊を壊滅させた後、全パラサイトが「逃走」し、どこかで人間に化けながら従来通り社会に潜伏するケース。

もうひとつは、公然と「戦争」に突入するケース。

後者は、そのまま、公然とパラサイト集団が市役所から外に「戦線」を拡大し、人類側に全面対決を強いてくる状態です。

市役所敷地内を超えての市街戦です。

殺戮戦です。

これは、一見、政府側にとって最悪に見えますが、ところがどっこい、これはパラサイト側にとって最悪の選択です。

こうなってしまった以上、政府も、公然と戦うことになるでしょう。

警察は前面から後退し、主に避難誘導と規制に回り、前面に出てくるのは自衛隊です。

害獣駆除の範疇を越えて、相当数の兵力と最大限の火力を投入してきます。

文字通り、「戦争」です。

これは、パラサイト側に全く分がありません。

東福山市役所掃討部隊を壊滅せしめたのは、パラサイトの戦闘能力と一斉蜂起の優位でした。

一斉に蜂起して、制圧部隊を翻弄し、合わせて後藤が、制圧部隊の技術的優位(火器類)を無力化する。

ところが、このパラサイトの優位は、政府側が自らに課した(かせ)によるものです。

日本政府は、事態の秘匿という(かせ)さえ外してしまえば、いくらでも兵力を投入可能です。

数的にも、本格的な軍事出動(防衛出動や治安出動)を開始すれば、パラサイトとの人的優位をいくらでも積み増しできる。

当初500人だったものが、1000人(連隊規模)でも6000人(師団規模)でも可能です。

また、技術的優位を覆していた後藤の驚異的な戦闘能力も、限界を迎えます。

後藤の脅威とは、例えるなら、重戦車のようなものです。

山岸二佐率いる普通科(歩兵)部隊が後藤に潰滅させられたのは、あれは軍事的にいってしまえば、対戦車火器(対戦車ミサイル等)がない軽歩兵部隊で重戦車に挑んで、壊滅したみたいのものです。

戦車の存在を考慮しなかった作戦ミスです。

つまり、装備を小火器(自動小銃、ショットガン、拳銃類)に限ったためで、本格的な軍事出動を行えば、この制限はなくなります。

制限なしに投入してきたらおしまいです。

後藤が重戦車なら、自衛隊も戦車部隊(・・)をぶつければいい。

Type 90 tank

毒は猛毒をもって制す。

普通科部隊も、小火器だけではなく、対戦車ミサイルや重機関銃などの重火器を使用できますし、攻撃ヘリや攻撃機など、航空支援すら可能です。

それこそ、泉新一がアドバイスしたように火炎放射器だって使えます。

すると彼我の戦力差は、1対100でも、1対10000でも開いていきます。

ここまで圧倒的な人類側に、パラサイト集団は、やはり「か弱い」存在でしかない。

この選択は、「殲滅」されることを先延ばしするだけです。

田村玲子は、ここまで見通していたのではないのでしょうか。

リヴァイアサン

人間の真の恐ろしさは、集団化・組織化・社会化したところにあります。

田村玲子の懸念はここにあります。

近代政治学の古典、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』(1651年)の表紙には、城塞よりも巨大な、王冠を戴いた巨人のような人間が都市を睥睨している姿が描かれています。

その巨人の体には、無数の人間が描かれています。

この巨人は、支配者であり、それは、無数の(国民)によって構成されていることを示しています。

個々はか弱い個人である人間は、この巨人を構成していることによって、恐るべき力を持ちます。

この巨人の名を「国家(コモンウエルス)」と言います。

あまりに強大な存在であることから、ホッブズは旧約聖書の怪物「リヴァイアサン」に国家を喩えたのです。

単純な疑問として、では、国家がそのように強大ならパラサイトも国家を形成すればよいのではないか?

国家法人説とパラサイト

では、パラサイト集団が国家(政治的共同体)を形成するとは、如何なることでしょうか。

それは、ある意味、集団を擬人化することから始まります。

『ヘタリア』の話じゃありませんよ。

いわば、国家という「法人」を創設する訳です。

「法人」というのは、よく聞く言葉ですね。

会社法人、一般法人、独立行政法人、学校法人、営利法人…etc.

社会には「法人」があふれていますね。

これは、ある集団・組織・団体を、普通に生きている人間(自然人)のように、権利・義務能力を持たせる「人工の人間」のように見なすことです。

先述の、ホッブズの『リヴァイアサン』の議論を思い出していただきたいのですが、ホッブズは、契約によって成立した国家を「人工的人間」と呼んでいます。

《コモンウェルス》とか《国家(ステイト)》(中略)と呼ばれる偉大な《リヴァイアサン》を創造するが、それは疑いなく一個の人工人間に他ならない。ただ、この人工人間は、自然人より大きくて強く、自然人を保護し防衛することを意図している。

ホッブズ『リヴァイアサン』※1

国家を「法人」と見なす学説は、国家法人説といいます。

いわゆる日本の「天皇機関説」もこの系譜に連なります(「天皇は国家の中に属する最高の機関である」)

このような、法人から考えると、東福山市役所に集結したパラサイト集団は、法人化しなければなりません。

法人になることで、烏合の衆でなくなるからです。

法的には「法人」ですし、政治学的には「団体」です。

この「団体」は、もはやある時ある場所に集まった人びとの単なる集合体ではない。そこには恒久的な連続性が含意されており、組織に時間を超えるほどの安定性を与えてくれるのだ。

堤林剣・堤林恵『「オピニオン」の政治思想史』岩波書店、2021年、55頁。

いわば、パラサイト共同体として、権利・義務・統制・服従、永続性を備えた組織です。

これならば、十分に人類に対抗できるでしょう。

しかし、ここに最大の難点があります。

パラサイトには、人間には誰しもが持つであろう、美点(あるいは欠点)が、決定的に欠けているのです。

「名誉」なきパラサイト

国家のみならず、あらゆる組織を形成する上で重要な要素に、「権威」があります。

権威、つまり、彼我の優劣の差を認識し、上位者に従う自発的な服従です。

そこには、権威そのものへの憧れがあります。自分も権威を欲するが故に、その権威を尊ぶ。換言すれば、権力が、力ではなく、服従者の内面から支持(価値)を獲得することです。

この「権威」とは換言すれば「名誉」とも言えます。

古代ギリシアの哲学者プラトンは、人間を理性・気概(名誉)・欲望の3つの部分に分けて論じています

ところが、パラサイトには、この「気概」(名誉)の部分が欠如している。

こうなると、政治的共同体の創出に著しい困難が生じます。

国家が服従を調達する為には、権威化が必要です。

その権威化こそ、気概(名誉)に関わります。

先に見たように、パラサイトには、アレントの言う「労働」の契機しかありません。

つまり生存欲求です。

ところが、名誉の問題は、生存プラスαです。

人間は、誰しも、自分が、かけがえのない存在だと求めている。

ただ生きている存在に過ぎないとは、認めたくない。

「人はパンのみにて生きるにあらず」

別の言い方をすれば承認欲求です。

自分が、たいしたものであるという名誉・権威が欲しい。

他の人間との差異であり有意・優位です。

しかし、パラサイトには、この感情は見られない。

他のパラサイトの個体より優位(名誉)を持ちたいとは微塵も考えていないでしょう。

パラサイト集団が政治的な共同体(国家)に昇華する為には、ただ生存だけでは不足しています。

例えば、兵士が、仲間の為や、同胞の為、ひいては国の為に命を投げるのは、それが、自己の命以上の価値が存在するからです。

その命以上の価値=権威に殉じているのです。

かつてアズテック族が神々に捧げた人柱と、戦争のさいにナショナリズムや主権国家という偶像に捧げられる現代の人柱との間には、われわれが考えるほどのひらきが実際にあるのだろうか。

E・H・フロム『ユダヤ教の人間観』河出書房新社、1996年、63頁

国家は、それ自体が、抽象的な、フィクションです。

つまり、我々は、実態のないフィクションに命をなげうっているともいえる訳です。

これは、「民主主義」とか「自由」とかの理念という抽象物も同じです。

それらに「権威」があって、それを守る事、殉ずることが「名誉」であり、自己が「承認」されているという確信があるからです。

果たして、パラサイトにこの精神的な構造がありうるでしょうか?

何か抽象的なるものに、命をなげだすことができなければ、瞬く間にパラサイト共同体は瓦解します。

なぜなら、自己の個体としての生存が最優先ならば。自己犠牲の発想がないからです。

自己の生存を超える「何か」の至上価値がなければ。

その限りでは、パラサイトは「物言う猛獣」に過ぎないのです。

ここで、思い出していただきたいのが、田村玲子の最期です。

彼女は、自己犠牲を払った。

いわば「家族」の為に。

しかし、田村玲子の例は、あまりに特殊で、例外的でしょう。

彼女の死は、パラサイトの「進化」の芽が潰えたことも意味していました。

「寡頭制の鉄則」

もう一点。

パラサイトに指揮命令系統が成立するのかという問題があります。

パラサイトが集団として、外部(人類側)と対抗するなら、それは組織原理に従って、軍隊のような組織を形成する必要があります。

パラサイトの場合、雄雌の別や、職業といったものが存在しない、甚だ多様性に欠けた群体なので、パラサイト国家はそのままイコール「パラサイト軍」とも言えます。

さて、組織原理といえば、それは、いわゆる、「ライン」を形成するということです。

「ライン」は、実際に命令し執行する垂直の指揮命令系統のことです。

軍隊では、例えば1万人を擁する師団であれば、師団の指揮権を有する師団長(少将)から連隊長→中隊長→小隊長へと指揮命令が各級指揮官に垂直に伝えられます。

ライン

各兵士が好き勝手に独断で行動していては、全体の作戦行動など取れません。

軍事行動には、「戦略」「作戦術」「戦術」の三段階があります。

後藤がいくら巧みに、地形を利用して敵(自衛隊)を殲滅しても、それは戦術です。

パラサイトを一斉蜂起させても、それは、個々のサボタージュの同時発生であり、足し算にすぎません。

戦術の上位の作戦術に昇華させて、はじめて、足し算が掛け算になって、飛躍的な効果を得られます。それが部隊、軍隊のメリットです。

「作戦術」というのは、一般にあまり馴染みがない言葉ですが、これはソ連発祥の概念で、戦術(個々の戦闘)と戦略(戦争目標)を架橋するような概念です※2

パラサイトは、自己の生存(捕食)にしか興味がないので、彼らを命令に服従させるのは、合理的に自分が生存を図れると判断する限りでしょう。

すると、いちいちのその意図を納得させる必要がある。

普通、兵士は、上級司令部の細かい意図などをいちいち納得して行動する訳ではなく、規律によって命令服従し、実行します。

これが部隊です。

このような兵士の服従は、先述の名誉の問題とも関わります。

更に言えば、信賞必罰です。

名誉が与えられる一方で、名誉を剥奪される場合もある。

例えば、軍法、不名誉除隊や営倉(懲罰房)など。

ところが、こういった事態への感情を、そもそも持ち合わせていないパラサイトには、これが通じない。

では、どうすればいいのか。

とまれ

そもそも、国家=軍隊、成員全員が兵士というのは、歴史にみれば、そう珍しいものでもありません。

古代ギリシアの都市国家(特にここではアテナイ)は、市民がそのまま有事には兵士になるというシステムでした。

(ここでの「市民」に女性は含まれていない)

参政権は、兵役と密接不可分です。

これなど、近代的軍隊よりも、よほどパラサイトに合致していそうです。

この時、糾合したアテナイ軍を指揮する「将軍」はどうするのか?

それは、選挙で選ばれていました。

軍事的知識を持ち、指揮に卓越したと思われる者に投票するのです。

ここでの将軍は、政治的指導者の側面も持っています。

ですから、パラサイトが選んだ「将軍」は、パラサイト国家の指導者と同義にもなるでしょう。

パラサイトの選挙というのは、ちょっと滑稽な光景ですが、パラサイトが政治的共同体なり、軍事組織なりを形成するには、何らかの形での「ライン」の構築、対等ではない縦の関係が必要です。

「寡頭制の鉄則」というものがあります。

これは、イタリアの社会学者ロベルト・ミヘルズの理論ですが、要するに、あらゆる組織には、寡頭制(少数者支配)が貫徹せざるを得ないという宿命論的な見解です。

(ちなみに、彼と、G・モスカやV・パレートらは、イタリア・エリート学派と呼ばれます)

この座に就くのが、田村玲子なのか、広川なのか、それとも…

言語とパラサイト

ここまで、国家≒軍隊をパラサイトが形成できる可能性について論じてきました。

その道のりは甚だ困難と言えるでしょう。

あるいは、パラサイトという存在をあまりに人間的に捉え過ぎているのかもしれません。

パラサイトと社会や戦争を論じるなら、アリの社会を比較考量した方がいいかもしれない。

しかし、「人間的」にパラサイトを考察することは回避しようがないとも言えます。

なぜなら、パラサイト自身が、ただ単に、脳を乗っ取り、人間を捕食するだけではなく、言葉を覚え、人間の知識で「学習」してしまっているからです。

「サピア・ウォーフの仮説」(言語的相対論)というものがあります。

人間が使用している言語によって、どの程度規定されるかという問題で、「強い仮説」では、使用言語が思考を決定するとし、他方、「弱い仮説」は、使用言語はある程度は、思考に影響を与えると考えています。

どちらにしろ、パラサイトが、人間の言語を学び、言語によって、パラサイト同士が意思の疎通を図れば、人間社会の思考の枠に囚われるのは確実でしょう。

(作中のパラサイト同士の「会議」は、独自の言語やテレパシーなどではなく、日本語で行われていましたね)

とすれば、人間社会の枠組みとしての、国家、社会や軍隊などを「知った」パラサイトらの行動は、範疇を大きく逸脱しない可能性がある。

「母」や「家族」という単語(概念)を「知った」から、田村玲子は、「我が子」を守ろうとしたのではないでしょうか。

動物以上、人間未満という存在がパラサイトです。

テクネーなきパラサイト

パラサイトが何とか国家の体を成すことに成功したなら、これでやっと人類と何とか対等な次元で対峙することができます。

組織化=軍隊化することで、ようやく交渉相手になれるのです。

それまでは、いかに自然人を凌駕し、捕食しようとも、所詮、「物言う猛獣」に過ぎません。

一方的に駆除されるのがオチです。

人類側(各国家)は、ここではじめて、対等な国家単位としてのパラサイト国家を認知します。

パラサイトの存在は、脅威であり、生物学上の大発見ですが、それは、リアルな国際政治の上では、あくまで、他の「危機」、つまりパンデミックやテロリスト、NBC災害、仮想敵国と大差ありません。

人肉喰らいの食屍鬼の登場は、国際政治にどのような影響を与えるのだろうか。リアリスト の解答は、驚くべきものではあるが、いたってシンプルである。すなわち、そこでの国際関係には、何らの変化もないというのだ。このパラダイムは、人類に対する新たな実存的脅威が人間の行動に対して何らかの劇的な変化をもたらすと主張するような人々にとっては、どちらかというと感銘を与えないものであろう。

D・ドレズナー『ゾンビ襲来』白水社、2012年、58-59頁。

「危険な有害鳥獣」から「テロ団体」あるいは「仮想敵国」に格上げです。

しかしながら、それでもなお、人類側の優位は継続します。

それは、テクネー(技術知)の有無です。

人類は、確かに自然人としては、か弱い。犬にすら噛み殺されるほどです。

しかし、人類には、他の一切の動物が持たなかったものがあります。

それは、「理性」です。

アリストテレスは、学問と対応する知の形態を、以下の3つに分類しました。

  • テオリア(理論学)→エピステーメ(真知)
  • プラクシス(実践学)→プロネーシス(実践知)
  • ポイエーシス(制作学)→テクネー(技術知)

テオリアは、不変(普遍)なものを対象とするもの、即ち数学や自然学、形而上学。

プラクシスは、行為者のなかに研究対象があるもの。即ち、政治学や倫理学。

ポイエーシスは、行為者の外に運動原理があるもの。即ち、医学、芸術、工学など。

理性によって、これらをつかみ取る訳ですが、ここで特に問題となるのは、テクネー(技術知)を持つことです。

ちなみ、冒頭のアレントの三区分とアリストテレスの三区分は、一部対照しています。

プラクシスがアクションに、ポイエーシスがワークにそれぞれ対応しています。

さて、自然人が、技術知で、自己の外に働きかけて、文明を築いたことが、他の生物に対して圧倒的優位を与えました。

その工業力で、火薬・火器を持つに至り、ほぼ安全に、他者(動物)を駆逐できる

他方、パラサイトにはこれがありません。

パラサイトは、人間の創造した器具、文明の利器を用いることはあっても、自ら創造することはないでしょう。

パラサイトが人間と同じように、文明の利器を使用する(車を運転する、服を着る…etc.)

状態は、「模倣」や「熟練」なのであって、テクネーの獲得と使用ではない。

テクネーには、発明の為の情熱や想像力が必要ですが、彼らの「感情」にはそれが欠如しているように見受けられます。

テクネーがなければ、パラサイトは、自然の能力としての戦闘力それだけです。

つまり、「パラサイトの軍隊」と(うそぶ)いてみたところで、そこには、(おの)ずから限界がある。

驚異的な身体能力の集合でしかない。

対して、人類は、今後も、いくらでも技術を発展させ、文明としての戦闘力を高めていけます。

限界がない。核兵器の次はなんだ?

人新世のパラサイト

(じん)新世(しんせい)」という言葉(ことば)があります。

地質に痕跡を残すほどに、人類の経済活動・技術が大きくなった、現代を言い表そうとする言葉で、その定義・時代範囲にはまだ議論があります。

しかし、この言葉は、パラサイトを捉える上で、非常に重要な概念といえます。

『寄生獣』の冒頭で、まるで「何か」が、意志をもって、パラサイトを地上に出現させたような描写になっています。

誰かが ふと思った『生物(みんな)の未来を守らねば…』

岩明均『寄生獣』(1)冒頭

地質レベルに痕跡をのこすほど人類の活動が、地球生命に負荷を負わせたとき、「誰が」それを止めるのか?

「ガイア仮説」というものがあります。

これは、英国の生物学者J・E・ラヴロック(1919-2022年)が唱えたもので、地球の生命圏が自己環境制御システムを形成していて、地球がひとつの生命体と見なされるという仮説です。

もし、その「誰か」がいるならば、この仮説でいうところの「地球(ガイア)」かもしれません。

人間、というか人類は、他の動物に比べると、人口調節機構にまともに機能していないか、少なくとも不十分なようです。

ヒトという種の社会には、他の動物の社会にみられるような、遺伝的な個体数調節機構が欠けているものと結論される。

日高敏隆『動物にとって社会とはなにか』講談社、1989年、149頁。

解決策は、遺伝的な、内部の方法ではなく、外因によってでした。

結局、太古から現在に至るまで、人類の人口を調節し、ふえすぎによる共倒れを防いできたものは、食物の不足と飢え、外敵による死、伝染病、そして戦争という因子であった。

同上書、158頁

「戦争」が外因か内因か議論があるでしょうが、ともかくも、動物とはかなり異なる様相です。

このような人類が、地球そのもの、地球圏(ガイア)のシステム全体を変更するようなテクネーを持ってしまった。

人新世において、これをシステム側から「矯正」する手段はないのでしょうか?

「神の見えざる手」、ならぬ「ガイアの見えざる手」は?

そう考えた時、新たな因子として「発生」したのが、パラサイトではないでしょうか?

この辺りのロジックは市長広川の思想(最期の演説)とも重なります。

しかし、そんなガイアの意志を人類が受け入れるかどうかは、別問題だ。

倫理と倫理と決断と

ガイアの意志を受けいれるかどうか。

この「選択」は、物語の最終盤の展開に関わります。

パラサイト後藤との「最終決戦」で、なぜ泉新一は、後藤に「ごめん」と謝りながらも止めを刺したのか?

この「涙」の葛藤は何か?

これには、内面の良心における2つの「倫理」の葛藤があったからでしょう。

ひとつの決断をするとき、その倫理的基準点、視点をどこに置いて決断を下すのか?

という点がポイントのように考えられます。

新一としては後藤を生かす選択肢もありました。

それは、新一本人の心の声として明記されています。

後藤も生きるために必死な訳です。

それを殺す「権利」があるのか?

しかし、この視点は、いわば、新一の「同胞」である人間から遠ざかる倫理です。

「望遠鏡的博愛」という言葉があります。

これは、作家ディケンズの小説から来ています。

博愛の精神(倫理)が遥か遠方に注がれ、自分の足元の窮乏や不正に全く関心を持たない有り様をディケンズが皮肉った言葉です。

登場人物の女性が、望遠鏡で遥か遠く(アフリカ)の困窮を助けようとしながら、自分の周囲の困窮(自分の子供達)は目に入らない。

人口に膾炙するマザー・テレサの名言

「国内に貧しい人がいるのに国外の人を助けようとする人は偽善者です」

という言葉の方がわかりやすいかもしれせん。

(但し、この言葉が本当に彼女の言葉かは異論があります)

こうした状況を、ディケンズは皮肉を込めて「望遠的博愛」と名づけている。この皮肉の背景には、私たちは本来、遠くにいる人よりも近くにいる人に対して、率先して配慮すべきだという直観がある。家族を顧みない彼女の薄情な博愛精神を通じて、私たちが近親者により大きな責任を負っていることが描かれているのだ。

松本雅和『政治哲学講義』中央公論新社、2025年、135頁。

つまり、倫理の距離感とも言えます。

新一が近い倫理を採れば、同胞(人間社会)を守る為、後藤を殺害することになる。

新一が遠い倫理を採れば、ガイアの意志を汲んで、後藤を見逃すことになる。

どちらが正しいかは、神のみぞ知るところですが、どちらかを選択(決断)せざるを得ない。

そもそも「決断」という行為自体が、非倫理的な色彩を持つというジレンマを抱えています。

「決断」を下すとき、人は必ず非良心的にならざるを得ません。

ゲーテは『行動者は常に非良心的である』(Der Handelnde ist immer gewissenlos.)といっておりますが、私たちが観照者、テオリア(見る)の立場に立つ限り、この言葉には永遠の真実があると思います。つまり完全にわかっていないものをわかったとして行動するという意味でも、また対立する立場の双方に得点と失点があるのに、決断として一方に与するという意味でも、非良心的です。にもかかわらず私たちが生きていく限りにおいて、目々無数の問題について現に決断を下しているし、また下さざるを得ない。純粋に観照者の立場、純粋にテオリアの立場に立てるものは神だけであります。その意味では神だけが完全に良心的であります。

丸山眞男『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1991年、452-453頁。

この葛藤が新一にはあったのでしょう。

どちらの倫理に立つか(決断するか)は、あの時点では完全に自由です。

そして前者を選んだのです。

棄てた方の「倫理観」への「ごめん」

【了】

【注】

※1.『世界の名著53 ホッブズ』中央公論新社、1999年、53頁

※2.田村尚也『イラストで学ぶ!用兵思想入門 現代編』ホビージャパン、2022年、25-40頁。

【参考文献】

・ハンナ・アレント『人間の条件』ちくま学芸文庫、

・橋場弦『丘の上の民主政』東京大学出版会、2004年。

・日高敏隆『動物にとって社会とはなにか』講談社、1989年。

・松本雅和『政治哲学講義』中央公論新社