売って後悔している本はない。後悔しているのは買えなかった本だけです。
(本編より)
ちょうど、NHKの教養番組『100分de名著』でレイ・ブラッドベリィの『華氏451度』が取り上げられているのですが、だからという訳ではありませんが、ドキュメンタリー映画「ブックセラーズ」(2019年、米国、99分)を鑑賞してきました。
本作は、主にニューヨークの書籍商(古書売買人・鑑定人)、コレクターらを取材した作品です。
とにかく、本が好きで好きで堪らない人々の群像が詰め込まれており、
日本の同好の士には共感しかない映画でしょう。
個人的には、ウンベルト・エーコの『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』の世界そのままだと感じました。
以下、本作を観た感想を。
※以下、ネタバレあり
アンドロイドは電子書籍の夢を見るか
冒頭、「ニューヨーク・ブックフェア」の様子が流れます。ブックセラーたちがそれぞにブースを構え、ショーケースには稀覯本が並び、客らは、シャンパングラスを傾けながら、商談や目利きに夢中。
とても上質な空間に見え、とにかく、皆、楽しそう!
本当に本が好きなのがわかります。
でも、こんな知的で華やかな世界は、それが終わる時の、蝋燭の最後の煌めきかもしれないのです。
あるブックセラーは言います。
「この20年は前の150年前よりも早い」
とあるブックセラーは言います。
これからは本が読まれない時代が来る、と初老のブックセラー達は沈痛な面持ちで語ります。
Kindleのような電子書籍の到来です。
また、ブックセラーにとっては、「売れない」時代ということも言っています。
それは、Amazonなど、インターネットの市場を除けば、クリック一つで、どんな稀覯本も買えてしまう。Kindleでは電子書籍があるかもしれない。
曰く、「Kindleと聞くだけで背中がゾワゾワする」
あるブックセラーは、古本探しを「狩り」に例えていましたが、そんな時間(何十年も探すたった1冊!)も経験も知識も必要な、「狩人」の時代は終わるのではないかと。
その後、「本」はどうなるのか?という未来については、本の「骨董品」化を危惧する声が上がっていました。
つまり、「古い美術品」としての価値観にシフトして、生きながらえると。しかし、それは、もはや「本の価値」とは異質な世界なのだ、と。
映画「ブレードランナー」のような世界になるとまで言うブックセラーもいました。
あの世界では、急激な環境破壊により、動物は大変貴重なコレクションの対象です。
本と動物を置き換えてみると・・・。
「狩り」と「古書探し」という点で、思い出したのが、東浩紀の「旅」に関しての考察です。
彼は、「観光客の哲学」という概念を提唱しているのですが、その中で、「旅」に関してこう考えています。その大切なものは、「移動時間」であると。
「ツーリズム」(観光)の語源は、宗教における聖地巡礼(ツアー)ですが、そもそも巡礼者は目的地になにがあるのかすべて事前に知っている。にもかかわらず、時間をかけて目的地を回るその道中で、じっくりものを考え、思考を深めることができる。観光=巡礼はその時間を確保するためにある。
東浩紀『弱いつながり』幻冬舎、2014年、85頁。
これ、ブックセラーの生き方に共通するところがありませんか。
そもそもブックセラーは、その本に何が書かれているかは(読んいでる読んでないは別にして)知っている。にもかかわらず、時間をかけて、その初版などを探索することは、その過程に道中で、他の本に偶然に出会ったり、古書の知識を増やす時間を得ることができる。古書の探索は、その過程のためにある。
アリストテレスの『詩学』第二部みたいな、歴史上、失われた書物(まあ、アリストテレスは半分くらいは失われていますが)を発見する旅、という訳でもない限り、それらの書物の内容は、図書館や書店などに行けばわかる(読める)のです。
世界中で翻訳されているプラトン『ソクラテスの弁明』。もし、これの最古の写本が●●にあるらしいと聞けば、ブックセラーは目の色を変えて、手に入れようと奮闘するでしょう。
なぜか。それは、「探す」という、その体験・過程自体を楽しむからに他なりません。
旅も目的地までの過程を愉しむように、狩りもそれ自体を愉しむ。
「どこでもドア」があっても、人は電車に揺られて、田舎の小道を歩いて、ハンドルを握って、旅をし続けると思います。
同じように、狩りは獲物がいる限り、続くのでしょう。
情報は複製できるけれど、時間は複製できない。
同上書、85頁。
本は死なない
ところが、「ブックセラーズ」に登場する「若手」は、「上の世代」とは、違う見解を述べます。
女性の稀覯本ディーラーで、テレビショーにも出演するレベッカ・ロムニーは、「上の世代は悲観的、下の世代は楽観的。でも、私はアイデアがいっぱいよ。」と顔を綻ばせます。
また別のブックセラーは「7年前のパソコンのフォルダは開かないが、500年前の本のページをめくっている」と指摘します。
女性作家のフレン・レボウィッツは、地下鉄車内を眺めると、Kindleは40代、20代は読書をしていると言っています(それが、地下鉄の唯一いいところだ、とも)。
あまり楽観論に傾き過ぎるのも、危険な気がしますが、個人的には、「本は死なない」という立場に与します。
エーコが『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』で述べているように、本の「形」はひとつの完成形と言えます。
物としての本のバリエーションは、機能の点でも、構造の点でも、五百年前となんら変わっていません。本はスプーンやハンマー、鋏と同じようなものです。一度発明したら、それ以上、うまく作りようがない。
ウンベルト・エーコ他『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』阪急コミュニケーションズ、2011年、24頁。
また、こんなことも言っています。
しかし、インターネットという素晴らしい発明のほうが、将来、姿を消すことだって考えられるわけですよ。飛行船がいっせいに姿を消したのとまったく同じように。
同上書、26-27頁。
これは大変示唆的です。
例えば将来、デジタル上の大災害が発生して、あらゆる電子情報が失われたら?
アーサー・C・クラークのSF小説『3001年 終局への旅』の中で、小惑星の落下に伴う電磁パルスによって、全人類の集合的記録の数パーセントが永遠に失われる記述があります。
これは、将来において、とても作り事として笑える話ではありません。その時、すべての書籍が電子化されていたら?
本(とその以前の書の形態も含め)は、世界中に分散し、かつ物質であることから、過去の数々の災厄、文明の断絶でも「絶滅」を免れてきました。
修道院の廃墟の中から、洞窟の中から・・・etc.
これが、電子・電脳のみであるとどうなるか・・・。
これを笑い飛ばす人は、現代文明が、この先に、永続的に継続していく、というひとつの根拠なき「信仰」を持っているに過ぎません。
もう一点。紙の本による「読書」が、実は最も優れた読書の方法である可能性があります。
ネットやSNSの氾濫で、読むことの意味、能力が根本的に変わった、それも悪い方へと。そう考えている読書人は、多いのではないでしょうか。
あらゆる道具は、可能性を開くとともに、限界を課すものだ。使えば使うほど、われわれはその道具の形式と機能に合わせて自分を仕立て直していくことになる。
ニコラス・カー『ネット・バカ』青土社、2010年、287頁。
では、それによって、何が失われるのか?
それは
深い読みの習慣―「その静けさは意味の一部、精神の一部」―は衰退し、縮小しつつある少数の知的エリートの領分となるだろうことは間違いない。
同上書、154頁。
「本は死ない」というよりは、「本を死なせてはいけない」という事になりますか。
転じて、日本は・・・
日本の場合、Amazonやらkindleやらが襲来する前(あるいは同時期)に、大きな地殻変動がありました。
新古書店です。90年代に出現し、その最大手チェーン(あの赤と黄色のアレです)は、一時は全国1000店舗に及ぶ勢いでした。
この新古書店については、各方面から批判がありましたが、私が一番大きい問題だと思っていたのは、大手チェーンの査定方法であった「状態査定」です(当時)。
これは、何の知識もない、アルバイトに店舗業務を行わせるための画期的な方法でした。
それは、本の状態しか見ない。それで、査定ランク(A+~C)を付けていくという単純なもの。
ところが当然、そのCにすら引っかからない状態の劣悪なもの(ページや表紙の汚損、カビ、シミ、日焼け、書き込みetc.)はある訳で、それに判定された本は、そのままDランク、即ちdust、廃棄・ゴミとして、捨てられます(トイレットペーパーになったり・・・)。
そして、困った事に、古書であればあるほど、このDランクに相当してしまう可能性が高い。
古書業界には「白い本」「黒い本」という業界用語があります。
白い本は、白い(綺麗な)状態で転じて、現在も新刊で流通している本。対して、黒い本は、黒くなった(日焼け等)古書、転じて、絶版・品切れ等で、入手困難な本。
状態査定では、白い本が生き残り、黒い本は文字通り死にます。
どんな貴重な古書、稀覯本、高額な専門書、初版のみの学術書であろうと、それは捨てていかれました。
あの、「いらっしゃいませ、こんにちは」の喧噪の店内に、新しめ(せいぜい10年以内)
の本しかないのには、こんな理由がありました。
おそらく日本全体に死蔵されていた貴重な古書は、その何割かは、90年代に喪失してしまったのではないでしょうか。まさに継承されるべきだった文化の喪失です。
「ブックセラーズ」では、セルバンテスの『ドン・キホーテ』の4版(セルバンテスの存命中に出版)が、イアン・フレミングの『カジノ・ロワイヤル』初版に古書価で負けて、泣き出すブックセラーの逸話が出てきますが、日本では、それどころか、貴重な古書が、それと認識されずに、「廃棄」処分される事態が発生していたのです。
これを愛書家が聞いたら、むせび泣くどころか憤死してしまいそうです。
まさに現代日本の「焚書」ですね・・・。
コレクションと読書
私自身は、本好きではありますが、実は稀覯本のような分野には、ほとんど興味がありません。
初版だろうと、100版だろうと、書かれている内容が知りたいだけです。
ですから、「本を愛でる」と一口に言っても、本作のブックセラーのそれとは、意味合いが変わってきます。
競りに関しても取り上げられていましたが、興味本位以上のものではありません。
なにか、コレクションと読書、コレクターと読書人の間には、重なる部分もありますが相反するものも決して小さくない気がします。
コレクターには、本を投機化しているという批判も出るかもしれません。
ただ言えることは、本それ自体が既に、ひとつの「作品」だということです。
装丁も、紙の手触りも、字体も、インクの匂い、そして著者の息遣いも・・・。
本の物神化。本自体が持つ非合理的な魅惑。
これは、本が「読まれない」と言われれば言われるほど、その魔力を増すように思えます。
追記
本作では、毒舌で名をはせる作家のフレン・レボウィッツが登場しますが、彼女が、本当に面白い。
曰く「本の上にグラスを置くようなことしたら、私なら死刑よ」
その彼女が、本編最後に、愛書家に共通のある「タブー」に関して警告します。ほんと、これは万国共通、時代を超えて許されざる禁忌です、はい。
(気になる方は本編をどうぞ)
さて、日本のブックセラーズの聖地、神保町古書店街に出かけるとしますか。
【参考文献】
ウンベルト・エーコ/ジャン=クロード・カリエール『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』阪急コミュニケーションズ、2011年
ニコラス・カー『ネット・バカ』青土社、2010年。
東浩紀『弱いつながり』幻冬舎、2014年。
佐野眞一『だれが「本」を殺すのか』プレジデント社、2001年。