イランという一語をイラン・イスラーム共和国に変えた法令が、過去と現在の私を無意味な存在にしたことを私は知っていた。このような運命に見舞われたのは私のほかにも大勢いたが、だからといって気が楽になるわけではなかった。
A・ナフィーシー『テヘランでロリータを読む』白水社、2006年、211頁。
カナダを代表する作家マーガレット・アトウッドの長編小説『侍女の物語』(1985年初版)は、「女性の『1984年』」とも評される、ディストピア小説です。
この作品で、アメリカ合衆国は、キリスト教原理主義者による叛乱・クーデターによって解体され、神聖国家ギレアデ共和国に国号が変更。
祭政一致の全体主義国家と化しています。
物語は、ギレアデ体制において、人権を剥奪された女性をメインに進みます。
このギレアデ共和国とは、如何なる国家・政治体制であるのか。そして、ギレアデを取り巻く国際情勢は、どうなってしまっているのか。
今回は、このような点を、政治学などの知見を頼りに、考察していきます。
無論、行間を読んだり、推測し想像するので、筆者の勝手な「夢想」としてお読みください。
また、『侍女の物語』は、寓話的ですが、2019年に出版された続篇『誓願』は、一転、具体的な記述に溢れており、拙稿では、この『誓願』も含めて考察しています。
イラン?
古今東西、全体主義国家の例には事欠きませんが、ギレアデを考える上で、まず最初に考えるべきは、その国名です。
「ギレアデ共和国」はアメリカ合衆国が解体されて建国された国家です。
そもそも「ギレアデ」という国号自体は、何を意味するのか?
「ギレアデ」という言葉の由来は、旧約聖書に登場するヨルダン川東岸を指す地名です。「ギレアデ」「ギレアド」「ギルアド」など若干の表記のブレはあります。
ここからも、極めて宗教色の強い国家であることが窺えます。
いわゆる神聖国家です。
神聖国家と言えば、すぐに、イランが連想されるでしょう。
実際、作中でも、ギレアデ崩壊後の22世紀末に、『イランとギレアデ~日記を通して見た二十世紀末のふたつの独裁神権政治』という書物が登場しています。
イランには、大統領の上に、宗教的指導者(イスラム法学者)がおり、彼が最高の権威と権力を握る最高指導者(ラフバル)です。
イラン革命の立役者であるホメイニ師が初代であり、現在のハメネイ師が2代目の最高指導者です。
イスラム法で統治されるので、イスラム法学者である最高指導者に全権が集中します。
作中におけるギレアデの雰囲気は、イランに酷似しているように思われます。
ギレアデを掌握している宗教勢力は、キリスト教原理主義≒福音派のようで、聖書に基づいての支配が行われています。
しかし、ここまで相似形な両国には、大きな違いもあります。
ギレアデに「最高指導者」というのは登場しません。
「司令官」というのが登場しますが、これは職位ではなく、特権階級を示しているに過ぎず、複数の人物が存在しています。
ここがイランとギレアデを分けるポイントになるかもしれません。
単一の指導者がいないのはなぜでしょうか?
北朝鮮?中国?
単一の指導者がいる全体主義国家としては、イラン以外にも、北朝鮮が挙げられます。
この国も、自由や人権が路傍の雑草程度の価値しかない。
北朝鮮の場合、特殊なのは、その最高権力が、親子三代に渡って世襲されている点です。
金日成が金正日を後継に決定した時、友邦である社会主義諸国は
「そのほとんどの国は朝鮮が世襲することに対してあからさまに反対するか、もしくは不満を表明した。なぜなら世襲制は、本来、封建時代の王朝政権の古き伝統であり、社会主義の掲げる理念とは相反する行いだったからだ。」
欧陽善『対北朝鮮・中国機密ファイル』文藝春秋、2007年、237頁。
この、独裁権力を世襲しようとするのは、儒教の影響だと言われます。
儒教では、家父長制、長幼の序が重視されるからです。
中国はどうかというと、毛沢東に、一時その心づもりはあったようです。
しかしながら、長男の毛岸青が朝鮮戦争で従軍中に戦死したことで、この道は閉ざされました(次男はいたが、障害を持っていた為、後継者候補に入らなかった)※1
毛沢東以降の中国も、熾烈な中国共産党指導部内の権力闘争で、指導者が決定し、またその指導力も、人によってまちまちです。
このような全体主義国家=一人の指導者という形式(指導者原理)は、ギレアデの分析には当てはまらないようです。
ソビエト連邦?
我々は、全体主義国家というと、すぐにその顔となる「指導者」つまりは「独裁者」に目を向けがちです。
すぐに思い浮かぶのが、ヒトラーやスターリンでしょう。
前節の北朝鮮・中国もそうです。
しかし、指導者原理が全体主義国家の条件と言う訳ではありません。
社会学者のフランツ・ノイマンは全体主義の定義として、
- 法治国家から警察国家へ
- 権力の集中(分権の消滅)
- 独占的な国家政党の存在(一党制)
- 国家政党による社会のコントロール
を挙げています
単一の指導者は必須条件ではない。
例えば、ヒトラーに関しても、実際は、ナチス党内やドイツ政財軍官界を上手く調整して、利用し、また利用された人物だったという説もあるので。
E・H・カーは歴史における、一個人の才能や倫理観で歴史の大勢を決するような、あるいはその個人に責任の全てを帰すような見方を批判しています。
歴史における「悪玉ジョン王」史観とでもいうべき見方、すなわち歴史において重要なのは個人の性格や言動であると見る説には長い系譜があります。個人の才能にこそ歴史を創る力があると思いたがる気持は、歴史意識の初歩段階です。
E・H・カー『歴史とは何か』岩波書店、2022年、68頁。
ジョン王とは、失政を重ねて、マグナ・カルタにより王権を制限されたイングランド王です。
彼の愚かさに全てをを帰すような史観を、カーは批判しています。
その深い社会的諸原因を研究するよりも楽です。二十世紀の二つの世界大戦を[ドイツの]ヴィルヘルム二世やヒトラーの個人的な邪悪さの結果と見るほうが、根深い事情から国際関係のシステムが崩壊した結果と見るより楽です。
同上書、71頁。
これは、現代でも根深くある見方で、最近で言えば「トランプ悪玉論」でしょうか。
日本だと長期政権だった安倍晋三元首相に関してのネット上の論戦も。
ヒトラーが台頭するにはその原因は、当時のヨーロッパの構造にあるし、トランプが二度も大統領に当選したのは、現代アメリカ社会の構造的問題があるでしょう。
何人も「時代の申し子」なのです。
そう考えた時。ギレアデに象徴的な、「顔」となる支配者がいないことは、大いに注目すべきでしょう。
ギレアデは、アメリカの病理の末に産み出された「怪物」である、と。
これを踏まえて、ギレアデの権力機構を見る際には、むしろソ連の方が参考になるでしょう。
これは、スターリンという、強烈な個性が没した後に見られます。
ソ連共産党指導部は、決して一枚岩ではなく、熾烈な権力闘争の修羅場です。
集団指導体制などは、これを取り繕う言葉に過ぎません。
粛清、復権、追放、また粛清です。
例えば、一時は、首相にまで上り詰めたゲオルギー・マレンコフなぞ、フルシチョフらの工作で失脚した後は、水力発電所の所長やらをたらい回しにされた挙句、貧しい年金生活を強いられます。
マレンコフを利用して一時は最高権力を握ったと思われたベリヤ(内務人民委員)も、粛清し処刑されました。
そして、ギレアデ指導部も、ソ連指導部と同じに見受けられます。
司令官らの集団指導体制といえば聞こえはいいですが、要するに、ソ連と同じ「昨日の友は今日の敵」のようか権力闘争の修羅場です。
『誓願』の終盤で暴露されたように、司令官同士はお互いに相手の寝首を搔こうと虎視眈々とその機会を狙っています。
ギレアデの崩壊も、「バアルの粛清」という、実施的な指導者層内部の「内紛」で、崩壊へと向います。
では次に、ギレアデ建国の過程と実現性を考えましょう。
アメリカで宗教戦争は可能か?
「憲法は、理解され是認され愛されていれば規範となり柱となり絆となるが、人々にそのような知性と愛着がなければ、それは空を漂う凧か気球と同じである」
ジョン・アダムズ(第二代合衆国大統領)
この作品では、20世紀末のある年の2月の第三月曜日、連邦祝日である「大統領の日」(初代ワシントンとリンカーンの生誕を祝う日)に、大統領が暗殺され、更に、連邦議会議場内でテロ(議員団への機銃掃射)が行われ、実質的に合衆国政府首脳部が全滅するというテロが起きたようです。
これにより、合衆国憲法が停止され、戒厳が敷かれたように読み取れます。
このテロは、「ヤコブの息子たち」と称される秘密結社によるもので、彼らが、ギレアデ指導部となるようです。
ジャド司令官の台詞などから、彼自身も米国のパワーエリートの一員だったようですから、ヤコブの息子たちのメンバーは、決してナチスのような非エリートのならず者集団ではなく、パワーエリート内の一部勢力と見るべきでしょう。
ここで「パワーエリート」という言葉を使いましたが、これは、米国の社会学者ライト・ミルズが提唱した概念です。
現代米国における、政界、安全保障関係(軍部・シンクタンクなど)、財界(大企業)のエリートたちによる連合、あるいは構造化しているエリート支配のことです。
典型的なのはいわゆる軍産複合体でしょう。
ワシントンD.C.あるいはニューヨークのエリート層、そのインナーサークルを指していると言ってもいい。
「支配している」といっても、別に陰謀論のお話ではなく、歴とした事実です。
「大統領の日の虐殺」は、いわばパワーエリート内部でのクーデターです。
作中内で暗示されるように、ギレアデの国是は、キリスト教原理主義≒福音派であるようです。
ですから、ヤコブの息子たちの指導層は、米国エリート層内の福音派などがメンバーだったのでしょう。
福音派(エヴァンジェリカルズ/宗教右派)は、聖書の内容を字義通り解釈し(聖書無誤謬説)、リベラルで進歩的な改革の動きに反対します。
福音派はバイブルベルト(南北戦争時の旧南部連合諸州など)に大きな勢力を持ち、大票田として、大統領選の行方を左右する力を持っています。
先進国におけるクーデターの困難度
しかし、そもそも、先進国、分けてもリベラルデモクラシーの総本山たるアメリカ合衆国で、クーデターなど起こりえるのでしょうか?
少数のエリートが運営する中央集権国家の権力は、厳重に守られた宝物のようなものである。一方、発達した民主国における権力は、自由に漂う大気のようなものであり、それをつかみ取れるものは誰もいない
ルトワック『“ルトワック”のクーデター入門』芙蓉書房出版社、2018年、62頁。
肥大化した行政国家・先進国において、その権力は分散し、複雑なシステムを構築しています。
アメリカは、その典型です。
新興国とは訳が違う。
仮に、作中のように、大統領と上下両院の議員ほとんどを殺害できたとしても、それは、米国の政治中枢の麻痺を意味しますが、政治権力の樹立とイコールとは限りません。広く分散した「大気のような」社会権力全体を果たして「服従」させ得るのか。
それができなければ、それは叛乱であってもテロの類で、政権奪取・革命政権樹立という目的を果たせないことになります。
とまれ
しかし、ヤコブの息子たちは、米国のパワーエリート内の秘密結社です。
そうすると、途上国で起こるような、軍部の一部による叛乱・クーデターとは趣を変えてきます。
ヤコブの息子たちには、大統領顧問団(内閣)の一員(閣僚)や連邦議員の一部が加わっており、テロの際も「難を逃れた」かのように、振舞うでしょう。
他にも軍部や官僚機構、財界・利益団体・ロビイスト、メディアにも同志はいます。
彼らが、「非常事態」を理由に憲法を一時停止し、戒厳を敷いて、法の支配を終わらせます。
因みに、実は、合衆国憲法には明示的な成文法としての「戒厳」に関しての法はありません。
英米法における「戒厳」は、「非常法」あるいは「軍法」という法的伝統の下にあり、慣習法・不文法としての自然法の一種のようなものです。いわば「必要こそが法」。
その布告の正当性は、事後の議会・法廷での発令者への免責の是非によって審判される類のものです。
ともかく、パワーエリート内の一部勢力によるクーデターという性格の「大統領の日の虐殺」で、アメリカの支配権は、ヤコブの息子たちに掌握されたかのように見えます。
しかし、そうは問屋が卸さない。
各州の動きが左右する
ヤコブの息子たちが、華々しくギレアデの建国を宣言するには、まだハードルがあります。
ところがそれですべてはが終わったわけではない。たしかに旧体制は国家の中枢機能を奪われたが、だからと言ってわれわれがそこを掌握したわけではなく、ただ単に物理的な面から首都という限定的な地域で支配権を確立しただけに過ぎない。
ルトワック、259頁。
ルトワックが指摘するように、ヤコブの息子たち「反乱軍」は、首都ワシントンを掌握したに過ぎないでしょう。
まず各州がどう動くかが問題です。
日本人の感覚だと、州というのは日本の都道府県のようなもので、せいぜい行政上の区分けに過ぎないように思うかもしれません。
実際、我々日本人が、自治体を移動するにしても、それは単なる住所の変更に過ぎない感覚ではないでしょか?
ところが、「州」というものは、全然違う。
それは実質的に国家であり、アメリカ50州とは、50の国家の連邦なのです。
(日本の都道府県と同格なのは、州の中の「郡」です)
アメリカ合衆国≒連邦政府と州の関係をここで整理しておきましょう。
そもそもアメリカは、建国当初、つまり「連合規約」下においては、「邦」(現在の州)という実質、半主権国家による「国家連合」としてその輪郭を表します。
連合規約の下でのアメリカ合衆国は国家連合であり、市民は邦政府に自らの権利を一部委任し、邦政府が中央政府を創設して権限の一部を再委任するという原理によって成り立っていた。
待島聡史『アメリカ大統領制の現在』NHK出版、2016年、46頁。
この後、紆余曲折を経て、連合規約に代わって成立した「合衆国憲法」は、
連邦制が採用された合衆国憲法の下では、合衆国民たる市民は自らの権利の一部を連邦政府に直接委任し、別の一部を州政府に委任するという原理になった。連邦政府の正統性は市民からの委任に直接由来するようになり、州政府とは別の役割を果たすとされたのである。
待島聡史、同上書、46頁。
例えば、日本でクーデターが起こったら、遠く東京の政変に対して、道府県が何か有効な行動を起こすとは考え難いでしょう。
しかし、米国の場合、遠くワシントンD.C.での政変に対して、各州がそれぞれ独自の有効な行動を起こすことは想像に難くない
州は独自の憲法を持ち、独自の軍隊(州軍)すら持っているのですから。
福音派が多いバイブルベルトの各州は反乱軍に同調する可能性が高い。
おそらく、そう事前にヤコブの息子たちが仕組んでいるでしょう。それらの州にはシンパがいる。
対して、リベラル色が強かったり、独立の気風が強い州は、反乱軍の新政権を認めない。
ここで持ち出されるのは、「抵抗権」です。
米国の建国に関しての思想的背景・理論的根拠として挙げられるのが、17世紀の英国の思想家ジョン・ロックです。
彼の社会契約論では、政治社会(国家)は、人民の契約によって創設されたものと考えます。
つまり、個々人による権力機構への「委任(信託)」です。
故に、既存の信託された統治機構が、私欲に走ったり、公共のことを顧みなかったり(暴政)して、人民の信託を裏切ったならば、最終的には、「抵抗権」「革命権」が発動できる余地があります。
(余談ながら、米国の銃規制問題には、抵抗権を担保する人民の武装権が絡むので、規制が進まないという側面もあります)
抵抗権の発動、その時、起こることは内戦でしょう。
ロック自身は、抵抗権の発動に慎重でした。
しかし、首都ワシントンに神聖政権が樹立されるなど、アメリカ合衆国建国の理念に真っ向から対立するものであり、受け入れ難いと感じる州はいくらでもあるでしょう。
アメリカは「政府諸部門」をもつものではあるが、主権国家や絶対主義的政治などはもたない政治社会であるとして、みずからを世界に示したのである。
したがって、アメリカの政治的伝統は、反国家的伝統であったし、今日まで間断なくそうであると解釈されてきた。
シェルドン・ウォリン『政治学批判』みすず書房、2004年、262頁。
神聖国家、全体主義、強大な政府、これらすべてアメリカ合衆国の伝統に反するのです。
これは、二度目のシビルウォー、内戦への突入不可避です。
作中でも、断片的に語られる、アメリカ西海岸の勢力(カリフォルニア?)との戦い、テキサス共和国との睨み合い、アパラチア高地での戦いなどが漏れ伝わってきます。
要するに、これは、ギレアデは建国宣言したけれども、実質的には、全米各地でこれに反抗・抵抗する勢力(州)があり、国外から見たら、これは「ギレアデ対周辺国」の「戦争」ではなく、「第二次アメリカ内戦」と見られるでしょう。
一応、ギレアデは、アメリカ合衆国の後継国家を自認するでしょう。
カナダとも国交がありますし、日本人の観光客も来るくらいです。
しかし、各国が他の勢力とも国交を結んでいる可能性もあります。
この時点のアメリカは、中国(北京政府)と台湾(中華民国)や南北朝鮮のような、複雑な法的立場に置かれているのでしょう。
ギレアデ建国とアメリカ軍
もうひとつ、ギレアデ建国に関して、重要なキーパーソンになってくるのは、アメリカ軍です。
世界最強の兵力140万名におよぶ軍隊。
ギレアデの政権が樹立されても、この巨大な軍隊がどう動くのか?
ヤコブの息子たちが、どれだけ緻密にクーデター計画を練り上げても、アメリカ全軍が、その決起に同調させることは不可能です。
叛乱を直接担う部隊を除けば、良くて中立、悪くて、敵対です。
指揮系統が複雑すぎるし、規模が巨大過ぎる。
アメリカ軍の複雑な点は、陸海空三軍に加えて、海兵隊、宇宙軍までが存在する五軍制であり、更には、正規軍とは別に、州軍(州兵)まで存在していることです。
州軍は、今や正規軍(連邦軍)の予備軍的性格を持っていますが、装備は連邦軍に遜色ありませんし、全米で総計35万もの兵力が存在します。
内戦に突入すれば、州軍の多くは、その州政府の意向に従うでしょう。
反ギレアデ州の州軍は当然、ギレアデを名乗る「反乱軍」(自称「天使」)と戦う訳になります。
また連邦軍にしても、各級指揮官毎の判断、あるいは兵士個人の判断で、ギレアデか、合衆国か?という選択が迫られる訳です。
アメリカの場合、このような本土の状況に加えて、海外駐留兵力(在外米軍)の問題が加わります。
現在のアメリカは、世界への「介入」を大前提にし、軍備を整備しています。
いわゆる「超大国」とか「世界の警察官」とか、もっと露骨に言えば「世界覇権国」とか「帝国」として。
つまり国防軍ではなく外征軍の性格が強い。
世界中、国外に展開している兵力は常時20万人前後(情勢で変化)です。基地は800以上にのぼるとされています。
強大な海軍力も、七つの海に遊弋しています。
彼等が、一体、どういう動きをとるのか?
考えられるのは、選択肢は、介入か静観か新体制への服従の三択でしょう。
しかし、キリスト教原理主義勢力がクーデターを起こすまでに至っている状況というのは、アメリカを取り巻く国際情勢が、我々が見慣れたそれとは根本的に異なっているのではないでしょうか?
勢力圏協定とNATO・国連
在外米軍の中の有力な部隊(太平洋軍とか欧州軍とか)が、クーデターに反対し、押っ取り刀で、首都ワシントンの「反乱軍」を鎮圧しようとした場合、本土の反ギレアデ連合軍と共闘すれば、ヤコブの息子たちの野望も、一時の悪夢として潰えていたでしょう。
しかし、そうはならなかった。
おそらく、この時代のアメリカは、強大な在外米軍を縮小しているか、既に失っているのかもしれません。
ヤコブの息子たちが軍事革命を成功させる条件は、アメリカが、既に、世界への介入の意志を失い、覇権国を、世界の警察官を降りてしまっていることです。
2013年に当時のオバマ大統領が、「アメリカは世界の警察官ではない」という発言をしましたが、それから、2025年現在のトランプの外交方針まで、程度の差こそあれ、覇権国を降りるという流れは変わっていません。
これは、変則的なモンロー主義(19世紀に登場した欧米が相互に不干渉すべきという外交政策)の復活であり、もはやリベラルデモクラシーの世界への拡大(これは世界への覇権とセットです)を、目指さないということです。
この後、在外米軍の大幅な縮小は避けられないでしょう。
世界中に軍事介入する必要ももうないのですから。
逆に言えば、もはやアメリカには、世界中に介入する能力がないのです。
本書中にも、ヤコブの息子たちの結成のきっかけについての記述があります
ギレアデの思想と社会構造は、この頭脳集団によって徹底的に論議されてうみだされたものなのです。この頭脳集団は、超大国の軍事力の行き詰まりが明白になり「勢力圏協定」が極秘に調印された後、まもなく結成されました。「勢力圏協定」というのは、超大国が自分の帝国内で増加しつつあった反乱を、他国から干渉されずに処理することを認めたものです。
マーガレット・アトウッド『侍女の物語』早川書房、2014年、551頁。
「大統領の日の虐殺」前後のアメリカは、内向きの、モンロー主義の実践段階であり、その勢力圏は、おそらく伝統的な「裏庭」である中南米がせいぜい。
そこでの「反乱」を鎮定するのが関の山。
従って、現在のような巨大な在外米軍は存在しないのです。
勢力圏協定下の国際情勢は、各地域大国が自らの勢力圏の相互不可侵で成立し、「普遍的な国際秩序」、グローバリズムは過ぎ去った時代です。
まるで19世紀です。
「人道的介入」や「制裁」といったものは死語です。
このような時代には、国連は、解散しているか、せいぜいジュネーブあたりで無聊を託つ存在に落ちぶれているのかもしれません。
NATO(北大西洋条約機構)も、ギレアデは、合衆国解体に伴い離脱しているでしょう。
NATOの政治理念、リベラルデモクラシーをもはや共有しないですから、当然です。
カナダは、欧州との連帯を強めるでしょう。
NATOにも加盟し続けるはずです。仮想敵はギレアデとして。
作中にもあるように、軍事大国ギレアデの脅威から、及び腰にはなるでしょうが、NATOの「核の傘」(英仏の核の傘)を頼りにして、ギリギリの線でギレアデと対峙するはずです。
ここまで類推していると、この国際情勢は、現在の第二次トランプ政権の今後を占っているようです。
『侍女の物語』が発表されたのは1986年。
レーガン政権です。彼は、しきりにアメリカを、聖書に記述される「丘の上の輝く町」に擬えました
しかし、だからといって、そこから40年たらずで、第二次トランプ政権のような現状が現出するとまでは、とても予測できないのではないでしょうか。
アトウッドの先見性に舌を巻きます。
女性たちのキリングフィールド
「我々の大きな失策は女たちに読むことを教えたことだ。もう二度とその失敗を犯すつもりはない」
『侍女の物語』554頁。
ギレアデの建国を巡る諸々の情勢を見てきましたが、次は、一応、国家の体裁を整えたギレアデの国内支配(統治体制)を見ていきましょう。
『侍女の物語』『誓願』両作品で、その支配下に置かれた直後の状況の描写があります。
特に、市民権を奪われる女性のそれは悲惨です。
前者では平凡なワーキングウーマン、後者ではインテリのそれが描かれます。
つまり、オブフレッドとリディア小母です。
オブフレッドは市民権を奪われた後、夫と幼子を抱えて、カナダへの脱出(亡命)を企図しましたが、失敗。
それにより「侍女」に堕とされます。
家父長的階級制のギレアデで、「侍女」は「産む道具」として最底辺ですが、もし、夫ルークと共に、ギレアデ国内で、それこそ「耐えがたきを耐え」暮らしていれば、「平民妻」として過ごせたのでしょう。
逃亡は、「神への裏切り」とされるのでしょうから、見せしめ効果も狙い、「侍女」にまで堕された。
一方、インテリ女性の運命も過酷です。
リディア小母は、ギレアデ建国以前は、判事でした。
裁判所のオフィスに民兵が乱入し、連行されます。
彼女は、スタジアムに収容され、尊厳の破壊、公開処刑に直面することになる。
女性の知識層・学識者はことごとく絶滅すべし、というのがギレアデの方針です。
この知識層の絶滅というのは、全体主義国家の十八番で、特にカンボジアのクメールルージュ(ポルポト派)がその極北です。
なぜ、知識増を殲滅しようとするのでしょう?
古今東西問わず、政治権力の本質は権力それ自体の限りない膨張(獲得・拡大)です。
それに益するものがあれば、最大限利用するし、障害になるものは全力で排除します。
一方、学問(広義の哲学)は、世界の事象の真理を見極めようとするところに本質があり、そこには本来、遠慮とか忖度というものは存在しません。
ここに、政治(権力)と学問(哲学)の永遠の緊張関係があります。
この対立・緊張関係の臨界点が、ソクラテス刑死です。
近しい例で言えば、日本学術会議の任命拒否問題(2020年)の根本的な背景もこれです。
トマス・ホッブズはこの状況を、次のようにわかりやすく説明しています。
もしも「三角形の三つの角は、正方形の二つの角に等しい」ということが、領土についてのだれかの権利とか、所有者の利益とかに反するならば、この説の真偽は論争されなくとも、幾何学にかんするあらゆる著作は焼きすてられ、関係者の力の及ぶかぎりこの説が抑圧されたであろうことを私は疑わないのである。
トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』(世界の名著28)中央公論新社、1999年、138頁。
知識層が、権力にとって、程度の差はあっても、常に目の上のたん瘤であって、それが、既存の社会を一切ひっくり返す革命政権の場合どうなるのか?
プラトンは『国家』で、最善の理想国の建国にあたっての障害についてこう書いています。
「まず、第一にその画布の汚れを拭い去って清きよらかにするだろう」
プラトン『国家』(下)岩波書店、2000年、61頁。
既存の人々、前体制に慣れ親しんだ人々、それは一切「消して」しまった方が、「改革」は確実です。
女性知識層の「再教育」も選択肢とは有り得たでしょう。
しかし、ミソジニーとパターナリズムとキリスト教原理主義の混合体であるギレアデにとって、「女性知識層」は、文字通り「汚れ」として拭い去って、旧合衆国という「白いカンバス」に自らの理想国、丘の上の輝く町を建国した方が、どう考えても手っ取り早い。
女性知識層殲滅の理由には、ギレアデ固有のものもあります。
それは「反知性主義」でしょう。
日本などでは、反知性主義は、「反知性・主義」を意味しており、知性の働き・地位そのものへの否定的な動き・傾向・思想ということになります。
ところが、元祖の「反知性主義」は、これとは異なる意味合いを持ちます。
これはアメリカの、リバイバリズム(信仰復興運動)において見出される思想です。
植民地時代からのピューリタニズムには、知性主義の傾向があり、例えば
「ハーバードかイエールを卒業したものでなければ、教会では説教させない。」
森本あんり『反知性主義』新潮社、2015年、84頁
などということが平気でありました。
しかし、プロテスタントは「神の前の平等」であり、「万人司祭主義」です。
こんな高学歴主義、知性主義はおかしいという運動が起こったのです。
キリスト教に限らず、およそ宗教には「人工的に築き上げられた高慢な知性」よりも「素朴な謙遜な無知」の方が尊い、という基本感覚が存在する。
同上書、85頁。
これが「反知性主義」の本来の姿です。
キリスト教原理主義であるヤコブの息子たちにも、この思想は入り込んでいるでしょう。
悪い形で。
ギレアデでは大学は廃止されているようです。
男性より劣った身の女性で、しかも、知性を振りかざすとは何事か。
このような二重の意味で、女性知識層に対しての絶滅政策が採られました。
とまれ
では、なぜリディア小母は生き残れたのでしょうか?
分断して統治せよ~女たちのクヴィスリング
リディア小母が、「女性たちのキリングフィールド」を生き残れたのはなぜか?
あまつさえ、女性統制機関アルドゥア・ホールの最高幹部にまで昇り詰めることが出来たのは何故か?
これは、政治権力の使う常套手段、ローマ以来の「分割して統治せよ」の実践だからです。
支配下の被支配民を決して団結させず(反抗の端緒を奪う)に、争わせること、ないしは、お互いに憎悪を向けること。それにより支配側のコストとリスクを軽減する事。
つまり、直接、手を汚さずに、同族に憎悪を向ける。
大英帝国をはじめ西洋列強が、植民地経営でよく使った手法で、その「後遺症」が現代にも影響しています。
典型例では、ナチスの絶滅強制収容所での「カポー」(囚人役人/囚人警官)が挙げられます。
カポーは、ユダヤ人の中から選抜され、親衛隊の監督下で、同じユダヤ人たちを監督(時に暴力で)した人間たちです。いわば裏切者。
女性を虐げるのに、同じ女性を使う。
被支配者(侍女たち)の憎悪は、まず叔母に向かいます。
支配側から見ると、所詮はユダヤ人、女性であり、信頼に値していないのです。
ただ、カポーと小母が決定的に違うのは、カポーは最終的には「処分対象」であり、文字通り、「狡兎死して走狗烹らる」ですが、女性は、絶滅対象ではなく、言うなれば「有用な家畜」であり、小母たちは牧羊犬です。
小母といえども、人としては見なされておらず、その証左に、小母でも拳銃などの小火器の携帯は認められず警棒・テーザー銃まででした。
女性知識層から転向組(リディア小母、ヘレナ小母、エリザベス小母)は、カポーとして生き残ったのです。
知識層ですから、その能力が秀でているのは間違いない。
ならば転向できる女は、牧羊犬として使えばいいという打算でしょう。
また、リディア小母についていえば、もうひとり紹介したい歴史上の人物がいます。
それは、ノルウェーがナチスドイツに占領された時の、傀儡政権の首相ヴィドクン・クヴィスリングという人物です。
クヴィスリングは、戦後、国家反逆罪で銃殺刑に処せられます。
(ちなみに、ノルウェーは死刑廃止国でしたが、クヴィスリングの際は特例で死刑を復活させました)
現在、「クヴィスリング」といえば、「売国奴」の代名詞として使われている程です。
女性ながら女性統制機関アルドゥア・ホールの長となったリディア小母は、まさに「女性版クヴィスリング」です。
さて、「小母」という存在ですが、『侍女の物語』と『誓願』を読み比べると、安定期に入ってきた『誓願』の時代では、統制の面よりも教育・教化の方に重心が移っているようにも見受けられます。
メンバーには、相変わらず、ヴィダラのようなベリヤ(スターリンの腹心、内務人民委員)みたいなサディストの権力に飢えた悪女もいれば、エスティー小母のような善意の女性もいる。
ヴィダラ小母は、完全に時代に乗り遅れている人物とも言えます。
安定期に入ると、彼女のような暴力的な・急進的な人物は体制側にとっても、むしろ厄介なお荷物になります。
もしリディア小母の謀略がなくとも、早晩、粛清されていたでしょう。
まさに「狡兎死して走狗烹らる」。
神聖国家の肖像~ギレアデのロベスピエール
「あなたなら彼らのために天国を創ることもできるかもしれません。わたしたちはそのためにあなたを必要としているのです。わたしたちは地獄なら自分たちで創れるのですから。」
『侍女の物語』357頁。
神聖国家であるギレアデは、徹底した禁欲主義を敷いています。
『侍女の物語』で、司令官ウォーターフォードとオブフレッドの性交の場面が描かれますが、
それは、快楽を徹底的に批判した禁欲的な宗教儀式です。
このような公式の「性」に対して、非公式な「性」も描かれます。
オブフレッドを連れたウォーターフォード司令官が訪れた秘密クラブ、ホテルを接収した高級娼館。
そこでは、性接待用に集められた女性たちが、ギレアデの支配階層の相手をしています。
スタジアムのキリングフィールドを生き残った知識層の女性も多くいます。
おそらく、『侍女の物語』未読の人は、あらすじを聞いて、後者の光景を思い浮かべるでしょう。
しかし、本質は、前者にあります。
「性」を徹底的に禁欲的に、出生のための儀式として封じ込めた中世ヨーロッパ的な思想。
思うに、司令官も当然、色々な種類がいるでしょう。
ウォーターフォードのような、ヤコブの息子たちの中では比較的、穏健な開明的な人物。
娼館の存在に驚くオブフレッドに彼は答えます。
「まあ公にはね」と彼は言う。「でも、何と言っても、みんな人間ですからね」
(中略)「つまり自然に逆らうことはできないということです。」と彼は言う。
『侍女の物語』434頁。
建前は建前。でも、本音は違うだろう?、と。
しかし、もっと、原理主義的な、狂信的な人物もいるはずです。
建前ではなく、心の底から真剣に禁欲主義を、信仰を。
本当に恐ろしいのは彼らです。
彼らが主流派でなければ、ギレアデのような国家を建国しないでしょう。
彼らは、高潔であり、理性的です。
例えると、ロベスピエールのような人物。
ロベスピエールは独身を通し、高潔で、質素で、清廉の人でした。
しかし、高邁な理想・正義は暴走します。
彼は、私利私欲ではなく、徳のために恐怖政治を断行する。
同じように、単なる反フェミニズム・ミソジニーや特権を欲するからではなく、「丘の上の輝く町」の理想を実現せんとする高潔な司令官はいたはずです。
彼は、理性によって、神の計画を信じ、ギレアデを設計したのです。
ウォーターフォードは、ギレアデ初期に粛清されているようです(オブフレッド逃亡が原因?)。
きっと、そのロベスピエールのような人物は、ヤコブの息子たちの中の「不純分子」を粛清していくでしょう。
真の神聖国家となるために。神の善を信じて、己の信仰心の力の限りをもって。
それは途方もない「善意」です。
まことに
「地獄への道は善意で舗装されている」
ゲーテ
ちなみに、ジャド司令官は、この系統の人物ではありません。
彼は徹底したマキャベリアンであり、政治主義者、陰謀家です。
彼のような人物は古今東西、あらゆる組織に生息し、生き残ります。
ギレアデの終焉~「神は天に在り、世は全てこともなし」
ところが、このような強大な支配体制を築いたギレアデも終焉を迎えます。
『誓願』が『侍女の物語』から15年後で、オブフレッドが侍女に堕されたのが、せいぜい2~3年程度と考えると、ギレアデは、わずか20年前後で滅亡を迎える訳です。
それはなぜなのか?
第一に、過剰な反知性主義。
女性知識層の殲滅や、大学などの高等教育の廃止、民衆の非識字化といった政策は、短期的には支配を容易にするかもしれませんが、長期的には自らの首を真綿で締める行為です。
経済成長は、国民の教育に掛かっています。
作中、オブフレッドとウォーターフォード司令官が訪れた秘密クラブ、ホテルを接収した高級娼館。
そこの女性たちの衣装は、つぎはぎだらけで、寄せ集めのみずぼらしものです。
政府の秘密クラブすらこれです。
ジャド司令官も、コーヒーすら貴重と言う。
つまり、この国は経済的には破綻しているのです。
ちょうど北朝鮮のように。
ギレアデは、カナダを脅かす軍事大国ですが、それも、軍事に国富を傾斜させているからに過ぎず、国民経済としては破綻しています(あるいは核兵器頼み)。
国民経済を犠牲にして軍事力だけを強大化させるというのは、実は元から無理な相談です.
まず経済があって、それを支えるのは学問です。
高度な技量を持った熟練労働者にしろ、機械産業や重工業を担う技術者にしろ、先端技術・電子産業を開発する研究者にしろ、全て教育の賜物です。
もしかすると、人によっては、
「では、自然科学や形式科学、理工医だけは高等教育まで存続させて、社会科学・人文学は廃止すればギレアデは安泰では?」
と考えるかもしれません。
できないのです。
学問は、それぞれが陰に陽に、深く有機的に関連し合っており、学問の全体系の中から、権力に都合のいいところだけ抽出するようなことは不可能ですし、それは人の傲慢です。
学問を虐げれば虐げる程、その国家は、野蛮とともに貧しさの中に転落します。
反学問のキリスト教原理主義を戴くギレアデは、早晩、軍事大国からも転げ落ちます。
近代的軍隊を維持できなくなるからです。
これは、反科学、反学問の傾向があるトランプ政権も同じです。
あれらの政策は21世紀に、アメリカが超大国の座を転げ落ちる約束手形なのです。
第二に、強権政治の宿命。
「目」のようなKGBやシュタージのような秘密警察によって、監視と粛清で人民を支配ていることの本当の意味です。
それは、実質的には、服従を強いるために、国民相手に「戦争」をやっていると同じ事です。
常に銃剣の恐怖で従わせるのだから、これほど、コストのかかる統治はありません。
他方、民主国家はどうでしょうか?
英国政治学の泰斗バーナード・クリックは、第二次世界大戦で、英米がファシズムに勝利した要因を次のように考えます。
民主国家は
人びとが相互に信頼して決定権限を委任することができたからであり、また、そうした信頼を基礎として中央政府が立てた計画を実現しようとした人びとが一丸となって働いたからであって、中央政府による絶えまない監視の下で働いたのではないからである。
バーナード・クリック『デモクラシー』岩波書店、2004年、177-178頁。
デモクラシーの国家では全知全能であることは期待されていないがゆえに、信頼がより大きなものとなる。それだけではない。失敗の報いがそれほど厳しいものでないがゆえに、信頼もより大きなものになりうるのだ。こうして人びとは自分の手腕を、自分の判断を信頼し、主導権を発揮することになるだろう。
クリック、同上書、179頁。
全体主義国家のように、銃剣による恐怖と過酷な罰ではなく、信頼と自治・自主性が祖国を救った。
全体主義国家は、常時、国民相手に「暴力」を突きつけますが、それは短期的な効果しか期待できません。
政治は物理的強制を最後的な保証としているが、物理的強制はいわば政治の切札で、切札を度々出すようになってはその政治はもうおしまいである。
丸山真男『政治の世界』岩波書店、2014年、54頁。
そこに、自らの共同体への帰属意識も愛も生まれようはずがない。
リディア小母の謀略、復讐計画が崩壊の端緒になったのは事実ですが、それ以前に、ギレアデ崩壊の下地は準備されていたのです。
【了】
【注】
※1.欧陽善『対北朝鮮・中国秘密ファイル』文藝春秋、2007年、41-43頁。
【参考文献】
マーガレット・アトウッド『侍女の物語』早川書房、2014年。
マーガレット・アトウッド『誓願』早川書房、2020年。
ルトワック『“ルトワック”のクーデター入門』芙蓉書房出版社、2018年。
待島聡史『アメリカ大統領制の現在』NHK出版、2016年。
森本あんり『反知性主義』新潮社、2015年。