「結局のところ、現今のあらゆる国家には例外なく悪政が行われているということに気づかなければならなかった。―法制のありさまを見るに、どの国家にあっても、何か途方もない方策を講じ、しかも幸運に恵まれるのでもなければ、およそ治癒しがたい状態にあったのですから―」※1
プラトン
NHKで放送されているSF×青春ドラマ「17才の帝国」を第3話「夢見る街」まで観た感想と、若干の考察めいたものです。
あらすじ
202X年。日本の経済的凋落はもはや止まるところを知らず、GDPは戦後最大の落ち込み、失業率は10%を超え、G7からも「除外」。
人々は、かつての経済大国をこう呼んだ。経済の日没、「サンセット・ジャパン」、と。
そんな中、起死回生の策として、内閣官房副長官の平(演:星野源)が中心となって起ち上げられたのが「プロジェクト・ウーア」。
地方都市・青波市を独立特別行政区「ウーア」とし、全く新しい社会実験を試みるのだ。
日本初の政治AI「ソロン」(声:緒方恵美)による実験都市。その首長(総理と称す)は、ソロンによって選抜された弱冠17才の高校生・真木亜蘭(演:神尾楓珠)だった・・・。
※以下ネタバレあり
描かれるのはアテナイ民主政へのオマージュか
既得権益や慣習に縛られていない若者が量子コンピューターAIと共に、全く新しい「政治」を行っていくという、このドラマ。
「ウーア」はいわゆる最先端のスマートシティであり、全住民がウェアラブル端末を支給された事と、ソロンの量子コンピューターの驚異的な処理能力によって、リアルタイムかつ全住民の意見や支持率の表出が可能になりました。
こうなると、事実上、直接民主政が可能になります。
直接民主政といえば、その元祖は紀元前の古代ギリシアの都市国家アテナイ(現在のアテネ市)です。
本作を観ていると、古代アテナイでの成功や失敗を連想させるエピソードが多数見られます。そもそもAI「ソロン」という名称が、古代アテナイ民主政の礎を築いた立法者ソロン(BC639-559年)と同じですし。
古代アテナイでは市民が大きな会場に集まり、議論して国政を決定します(民会)。
当時のアテナイ市民は5万人程です(但し、女性に政治参加資格はなく、無数の奴隷がいた)。
このような牧歌的な直接民主政は、人口が増大し、行政が複雑化してしまった近代以降は夢物語です(スイスは現在も一部、直接民主政を採用)。
そこで、多くの国では間接(代表)民主政が取られています。
選挙によって選ばれた代表(議員)が議会で国政を議論する。
民意を反映させ統治するには、これが限界でした。
ところが、量子コンピューター搭載の政治AIの登場は、これを乗りこえて民意を吸収し尽くす能力があります。
当然、こうなると、間接民主政の存在、必要性に疑問符がつくわけです。
もはや議会はなくてもいいじゃないか、と。
第1話では、真木は、市議会を廃止してしまいます。
ところで、古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、選挙は貴族制的であり、民主制には籤引きが適しているとまで言います。
籤と言っても、そこには神慮が働くと考えられていて、人間の浅慮に優ると捉えられています。
これって、選挙による浅慮より、ソロンの深慮(神慮)によって統治者を選出するのと、どこか酷似していませんか?
議会の廃止は・・・
確かに議会は非効率的と言えなくもないし、一般国民の代弁をしているとも言い難しい、癒着や私利私欲に塗れていうと見なされがちです。
日本に限って言えば、正直、議会に対して、大半の国民はウンザリしているし、見限っている。
能率・効率・経費・時間を考えれば、確かに議会の廃止は悪い選択肢ではない。
政府の首長が、議会を通さずにやった方がいいのでは。
日本でも参議院廃止論や首相公選制なども時たま聞こえてきます。
・・・と考えてしまいそうですが、議会制には重要な機能が隠されています。
それは、政治権力(執行権力)の暴走を止める非常ブレーキ・非常ボタンの役割です。
人間は神ではないので、失敗もしますし、偏見を持っています。どんな英雄も、天才も、善意の人も・・・。
歴史はその枚挙に暇がありません。
議会の廃止(停止、形骸化)は、往々にして権力の暴走の始まりと、歴史は教えています。
また、ひとり(あるいはごく少数)の権力者が、直接民主制に近い形で権力を行使していくと、「多数者の暴政(専制)」に陥るリスクもあります。
ウーアでは、総理は支持率30%を下回ると罷免されますが、これは長期的視点に立った政治が難しく、いつでもリアルタイムの支持率の影響化に置かれてしまう、歓呼喝采の政治、ポピュリズムに陥るリスクを抱えていると言えるでしょう。
実際、古代アテナイの民主政も、デマゴーグの横行などによって、次第に衆愚政に転落して行ったという指摘もあります。
議会制のひとつの理念として、適切な政治判断を出来ると思われる政治エリートを選挙で選び、あとは、その彼らに任せるという点があります。
それは、一般民衆が個々の複雑な政治的判断を下せるとは限らないので、出来るであろう人に委任することを意味し、ここでは、選挙民の民意がそのままダイレクトに反映されることを良しとしていません。
直接民主制の最も極端な形、つまりすべての政策を民意(国民の多数決)で決定していくと、それは時に、不合理な、感情的な、短期的な、非科学的な決定になりかねません。
例えば、NIMBY(ニンビー)という問題があります。
これは、「Not In My Back Yard」(私の裏庭には来ないで)の頭文字をとったものです。その意図するところは、“その必要性は認めるが、自分の近くには来ないでくれ(建設しないでくれ/関わらないでくれ)”ということです。
典型例としては、いわゆる迷惑施設(火葬場、ごみ処理場、原発)。難民キャンプなどにも言えるかもしれません。
日本だと、在日米軍基地など象徴的ですね(「日米安保は必要だが沖縄から移転してくるのは反対」のような)。
最近だと、港区南青山での児童相談所建設反対など記憶に新しいでしょう。
これでは社会システムは機能不全に陥り、国政は混乱します。
間接民主政は、世論の暴走への一種の緩衝材です(理念の問題なので、実際に実現できているかは別問題ですが)。
肥大化する官僚機構
第3話では、市役所の公務員削減の問題がテーマになります。
現代国家は、よく福祉国家や行政国家と言われますが、それはつまり、国家の機能・役割が膨大化・複雑化し、政府機構(官僚機構)がひたすら巨大化してくことを意味しています。
そして困った事に、官僚機構は、仕事がなくても自己増殖する性質があるようです。
いわゆるパーキンソンの法則と呼ばれるものです。
さて、古代アテナイでは公務員、官僚機構は存在しません。ではどのように行政を行っていたかというと、市民の輪番(当番制)と公共奴隷によります。
国政(意思決定)は、民会を筆頭に、各種当番委員が行っていました。そして、それの執行、つまり行政の実務・現業部門を担っていたのが公共奴隷 (国家の奴隷)です。
公道の保全業務、公衆衛生(死体処理)、陪審の補佐などがあり、なんと警察すら弓持ちという公共奴隷でした(指揮官は市民でしたが)※2。
奴隷に関しては、アリストテレスは「モノ言う道具」と評す始末でしたが、市民が労働に忙殺されずに、政治に関われたひとつの理由が奴隷制でした。
現代で奴隷が許されるわけはありませんが、この奴隷にあたる存在が良心や人道に反することなく存在できる可能性が出てきました。
それが、本作で登場する、あらゆる先端テクノロジーです。
官僚機構(本作では市役所)の膨大・複雑かつ無駄の多い行政業務を、AIによって代替して大きく縮小できる訳です。
いわば政治・行政AIが公共奴隷となって、人間の公務員を置き換えていくわけです。
第3話で、ヒロイン茶川サチ(演:山田安奈)の母親が教職を失いますが、まさにこれがそうです。
肥大化し続て来た近代国家機構が、ここにきて縮小する可能性が提示されています。
古代アテナイとの比較で色々論じてきましたが、今回はここまでにして、また第4話以降を見て、色々論じてみますので、是非ご覧ください。
★第4話を書きました↓
→NHKドラマ「17才の帝国」(感想・考察)~その道はディストピアに至るのか?《第4話》
【注】
※1.プラトン「第七書簡」より。R・S・ブラック『プラトン入門』岩波書店、2002年、247頁所収。
※2.太田秀通『ポリスの市民生活』河出書房新社、1991年、207-210頁。
.