「この世で最後まで生き残る国王は5人だけだ。トランプの4人の王様とイギリス国王である。」
ファルーク1世
念願の舞台の劇場公開版を観てきました!
本作は、演劇界最高峰の英ロイヤル・ナショナル・シアターが世界で上演した演目の中から、厳選した最高の舞台を映画館で劇場公開する「ナショナル・シアター・ライブ」と呼ばれる企画の一作品です。
在位中のエリザベス女王が主人公
本作は、在位中の英国女王エリザベス二世を主人公に(!)、その即位から現代までの英国歴代首相との毎週火曜日夕方のオーディエンス(謁見)の模様を、時にコミカルに、時に深刻に描いています。
主演(エリザベス女王役)はヘレン・ミレン。脚本はピーター・モーガン。
この二人の名前にピンと来る方もいらっしゃるかもしれません。
そう、あの映画「クイーン」の主演&脚本と同じコンビなんです。
ですから、本作を観る前夜は、自宅で「クイーン」を鑑賞、ヘレン・ミレン扮するエリザベス女王が陸続きでした。
※以下ネタバレあり
さて、本作に登場する歴代首相は・・・
- チャーチル(保守党)1950年代
- イーデン(保守党)1950年代
- ウィルソン(労働党)1960年代~70年代
- キャラハン(労働党)1970年代後半
- サッチャー(保守党)1980年代
- メージャー(保守党)1990年代
- ブラウン(労働党)2000年代
- キャメロン(保守党)2010年代
総勢8人が代わる代わる登場します。
つまり、チャーチルからキャメロンまで、実に8人の首相との場面が描かれます。
(時系列はバラバラです。例えば、劇冒頭がメージャーで、次の謁見は半世紀前のチャーチルに飛びます)。
但し、ほんの僅かしか出番のない首相(キャラハン)から3回も登場する首相(ウィルソン)まで。
逆に、チャーチルからキャメロンまで、実に半世紀に渡るエリザベス女王(20代~70代)を、ミレンが一人で演じます。それを、服装や髪形で上手く表現しています。
ちなみに映画「クイーン」は、ダイアナ妃事故死の際の王室が舞台なので、主要キャストにブレア首相が登場しますので、本作の補完になります。
ウィンストン・チャーチル
救国の英雄チャーチルとの謁見では、まだ20代に過ぎない若き女王が、この老人から様々なことを学ぶ様が描かれます。
女王は立憲君主が、まるでお飾りのように、ただ存在するだけで、何の意味があるのかという旨の疑問を露わにします。
それに対して、この老人は説きます。
「まるで古代からの都市のように、意図しない抜け道や行き止まりが自然とできます。
その迷路の中心に君主と政府の不思議な関係があります」
こうも言います。
「この謁見室で、女王は首相を魔法にかけるのです」
一体、これは何の話なのかというと、エドマンド・バークに代表される保守主義のことを説明しています。
政治社会は、長い歴史上の様々な試行錯誤によって、絶妙なバランスで構築されたものです。時に不合理に、時に無意味に見えるとしても、実は、それは、人の理性が推し量れないだけで、重要な役割・機能を持っている。
そのような、絶妙な「作品」である英国の政治体制「英国国制(British Constitution)」
その、要に、君主と政府の「不思議な関係」があるのです。
そのような制度は歴史的に形成され、世代を超えて継持・継承されてきたものである。すなわちバークが守ろうとした英国国制とは、あたかも伝統的な建物のように、いろいろな人がそこに暮らし、手人れをすることで培われてきた。もちろん、それぞれの時代の人間は、自分たちにとって住みやすいように改良を行う。その意味で、ただ古いままを保持したわけではけっしてない。とはいえ、建物の基本構造は継持される必要があり、それが失われれば、保守は保守でなくなる。
宇野重規『保守主義とは何か』中央公論新社、2016年、12頁。
立憲君主を時代遅れの、懐古主義的な、前期代の遺物をして切り捨てることも可能でしょう。しかし、その存在が、実は重要な隠れた機能・効能を持っていたとしたら?
同じく、保守主義の論客である作家のG・K・チェスタトンは、「なぜ柵があるのか知らない内は、柵を外してはならない。」と言っています。
田舎道を歩いていると、古びた柵がある。何のためにあるのかわらない。それを引っこ抜いてしまう事は簡単ですが、もしかすると、それは重要な役割を担っているのかもしれない。
ちなみにバークは、フランス革命を厳しく批判します。
ところが急進化した人々は、フランス的な自由の制度を伸ばし、改良しようとはしなかった。むしろ、リフォームして改良すべき建物を、面倒くさいとばかり、土台からすべて壊してしまったのである。
革命とは、すべてを更地にして、その上に理想的な政治制度を、一から作り直そうとする 試みである。とはいえ、そのような急ごしらえの建物が堅固なものになるはずがない。
同上書、11頁。
この古い建物(政治体制)を、リフォームするか?取り壊して新築にするか?に、保守と革新の対立軸が見てとれます。
保守主義に関してはこちらの記事をどうぞ(→保守主義とは何か?5分でわかる解説)
ともかく、本作は、このチャーチルの言葉を軸に、その「不思議な関係」の実際と、それを背負う女王と首相達の苦悩を描いているとも言えます。
ジョン・メージャー
メージャーは2回登場します。
その内、一回は、王室バッシングの嵐の中であり、メージャーは女王に王室支出の更なる削減を言上し、女王が愛する王室専用ヨット「ブリタニア」号の退役を提案します。
これに対し、女王は劇中唯一の「激昂」を見せます。
「ものには限度があります!」
その剣幕に、侍従が首相と女王の間に止めに入るほどに。
女王「私と私の家族は、この国に全てを捧げてきました!」
メージャー「畏れながら国民はそう思っておりません・・・」
ここに大変な悲哀、孤独があります。
女王が献身的であっても、大衆は気まぐれです。
逆に言うと、だからこそ君主は必要ともいえるのですが・・・。
ハロルド・ウィルソン
本作でもっとも多く登場する首相です。コミカルに演じられて、客席を沸かせてくれます。
最初、女王にも、ざっくばらんな(無礼な?)態度で驚かれますが、その関係は、女王にとっても好ましい、肩の力を抜いた関係になっていきます。
労働党の政治家だったが、熱心な女王の支持者だった。人間的に女王とウマが合い、他の首相なら20~30分で終わる謁見も、2時間以上に及ぶことがままあった。
君塚直隆『エリザベス女王』中央公論新社、2020年、95頁。
しかしながら、そのウィルソンにも悲劇が襲います・・・。
その関係は、「友人」と言えるものであり、女王が「別離」の涙を流します。
女王はただ、見送るだけです。
親しい首相もそうでない首相も・・・。
アンソニー・イーデン
スエズ動乱(第二次中東戦争)の際の首相です。
女王にスエズ危機を報告に急遽参内・謁見する様が描かれています。
女王はイーデンの言に不信を持ちます。毎日、国事の書類にしっかり目を通す実直な女王は、今回のスエズ危機に「謀略」があるのではないか、と疑い、詰問します。
イーデンは、フランス・イスラエル両国と秘密協定のあることを明かします。
女王は、それは不正ではないのかと、イーデンに問い続けますが、イーデンは慇懃にそれを否定します。
立憲君主たる女王に最後に言えるのは
「・・・しかしながら、私は常に首相と政府を支持します・・・」
マーガレット・サッチャー
「ザ・女の戦い」
同い年同士でかつ女性同士だったエリザベス女王とサッチャー首相の関係は「微妙」であったと噂されていますが、本作でも、新聞に「王室筋」からサッチャー批判が掲載され、サッチャーが怒り心頭に謁見に出向いてくるシーンが描かれます。
サッチャーのその態度は、ウィルソンと同じく「無礼」ですが、同じ無礼でも、ウィルソンには愛嬌と親しみ・隠れた敬意がありましたが、サッチャーのそれは慇懃無礼です。
記事は、サッチャーの政策(サッチャリズム、新保守主義)の、「冷たさ」に対しての批判であり、対南アフリカ政府への融和姿勢への批判でした(当時の南アフリカ政府はアパルトヘイトを採っていた)。
女王はサッチャーの「利益志向」に「苦言」を呈します。
また、サッチャーのイギリス連邦(旧大英帝国構成国を主として構成される諸国連合/コモンウェルス)軽視にも釘を刺します。
サッチャー「民族衣装を着た族長とお並びになるなど」
女王「あら、私のも、民族衣装よ」
女王は、英連邦と英連合王国の精神心的紐帯に関して言葉を尽くしますが、サッチャーにとっては、それは懐古主義に見えるのでしょう。
二人の議論は平行線ですが、しかしあくまで立憲君主です。不本意なれど最後には、こう締めくくります。
「・・・しかしながら、私は常に首相と政府を支持します・・・」
そんなサッチャーと女王でしたが、キャメロン首相と、サッチャー追悼演説の話になった際は
「同じ歳だったのよ・・・」と漏らす場面があります。
君主の目線
歴史学の泰斗が古代ローマ史を眺めて、現在もこれの繰り返しだ、と驚いたエピソードがありますが、10人を超える首相を見続けてきた女王も同じような境地を呟きます。
「同じことが繰り返されてるわ。変わるのはネクタイの色だけ・・・」
そんな特別な立ち位置、高みで英国を眺めている女王は、時の首相にとって、どんな立場になるのでしょう。
歴代首相との謁見を観てきたように、不本意な政治方針・政策であろうと、女王は最終的に
「・・・しかしながら、私は常に首相と政府を支持します・・・」
という形にしかなりません。それが立憲君主制です。
よくある例えですが、もし、英国議会が国王の処刑を決議したら、国王は自らの死刑命令書にサインするのです。
では、翻って、冒頭のチャーチルとの謁見の疑問に戻ります。
ただのお飾りなのか?
本作のインターミッションの際、本作脚本家のピーター・モーガンのインタビューが流れます。彼は、女王の謁見を「セラピスト」に例えています。
女王には、君主としての高みからの洞察があります。そして、首相と同じく孤独です。
その立場同士だからこそ理解し合えることがあり、話せることもあります。また助言できることもあるでしょう。
首相は任期がありますが、女王は退位したくても出来ません。
「革命でも起きなければね」と、時折、自虐的なユーモアを漏らしますし、退位(譲位)したオランダ女王を、やや皮肉る場面もあります。
故に、何か、そこには「達観」「諦観」してしまっている感があります。
それ故に、同じ孤独ではあっても、いずれ今の地位と権力を去っていく首相にできる「助言・提言」があるのでしょう。
女王はセラピストであり、優れた聞き役であるとしたら、その患者たる首相を癒しているのかもしれません。まるで、首相を魔法にかけているようです。
ここに「君主と首相の不思議な関係」が見出されます。
本作とある意味で姉妹関係にある映画「クイーン」で、革新系のブレア首相夫人が、夫のブレア首相の女王への態度の変化(女王をバッシングから守ろうとする)に呆れて、茶化すシーンがあります。
ブレア夫人「なぜか労働党の首相は、結局、みんな女王にメロメロ」
革新である労働党の首相が、女王と良好な関係を築いているのは、確かに、不思議ではあります。
本作で、最も女王と親しくなるウィルソンも労働党の首相です。
これは、女王の個人的魅力もあるでしょうが、それこそ、「魔法」であり、「英国国制」の妙と言えるでしょう。
逆に、保守・王党派といえる保守党のイーデンやサッチャーとの関係の方が、表面的・事務的な印象がありました。逆説的ですね。
真実と虚構
さて、こんな魅力的な「ザ・オーディエンス」ですが、一体どこまで「真実」なんでしょうか?
基本的に、謁見の内容は門外不出です。
これに関して、脚本家のピーター・モーガンは、こんなことを言っています。
「フィクションでも真実を表現できる。そこに真実がないと、観客は見ないでしょう。」
なかなかウィットに富んだ回答ですね。
やや話は逸れますが、以前、英国のノーベル賞作家カズオ・イシグロが、
「文学は真実ではありませんが、そこで表現できる真実はある。だからこそ人は小説を読む。」という趣旨を答えていたインタビューをテレビで観たことがあります。
全ての虚構、空想の「謁見」ではなく、「謁見室」という閉ざされた空間の周囲をよく観察し、取材し、その輪郭を捉えた演劇と解釈できるかもしれません。
ちなみに、登場人物の中で、キャメロン首相は観劇されたそうです。
如何だったでしょうか?未見の方は、今すぐにでも観たくなったかと思います。
ところが、本作は、ソフト化されておりません(!)。
時折行われるリバイバル上映をチェックするしかありません。
強くソフト化を希望するところですが、現在、海外ドラマ「ザ・クラウン」が放送されています。同じくエリザベス女王を主人公にした作品ですので、そちらを観ながら、気長に次の上映かソフト化をお待ちください。
翻って象徴天皇制
話のついでに。翻って、英国とよく比較される、本邦の天皇はどうなのでしょうか?
首相や閣僚が、天皇に不定期に国政に関して報告する「内奏」というものがあります。
この内奏も、口外無用の秘密厳守が保たれています。
もし、内奏の内容が漏れれば一挙に政治問題になり、大臣の首が飛びます(1973年の増原防衛庁長官辞任)。
単に儀礼的なのか?どこまで踏み込んだ会話をしているのか?
興味は尽きませんが、その参考になりそうなのが、国内からではなく、海外からの情報です。
徳本 栄一郎『エンペラー・ファイル 天皇三代の情報戦争』には、英国サイドなどから漏れ出た、西側政府高官らと天皇(主に昭和天皇)の謁見の際の会話の内容が記されていますが、かなり、詳細な国際情勢に関してのやりとりを交わしています。
それにしても、日本版「ザ・オーディエンス」を愉しめる日は来るのでしょうか。
答えは、かなり否定的です。
逆に、「クイーン」にしろ「ザ・オーディエンス」にしろ、存命在位中の英国女王その人を映像(舞台)作品の登場人物にしてしまえることに驚嘆します。
※本作「ザ・オーディエンス」がソフト化されていないので、台詞等、一度の鑑賞の記憶に頼って記述している為、正確さに欠ける場合があるかもしれません。予め御容赦下さい。
【参考文献】
宇野重規『保守主義とは何か』中央公論新社、2016年。
君塚直隆『エリザベス女王』中央公論新社、2020年。