政治言論界隈では、首相の資質を巡って激しい論争が繰り広げられていますね。
私は全くこれに参戦する気はないんですが、どうしても気になることがあります。
それは、首相個人のパーソナリティーの問題を過大に扱いすぎなのではないか?
何を言ってるのかわからないかも知れないんですが・・・。
要するに、首相個人の資質は、ぶっちゃけ大勢(マクロレベル)に影響を与えないんじゃないかと。
誤解しないでほしいのですが、首相が誰でもいいとか、資質は全く関係ないということを言いたいのではなくて・・・。
現代のように、国家が巨大化してくるのもあるのですが、そもそも、政治というか、歴史の流れは、マクロ的には大きな潮流があって、個人はその要請で出てきている気がしてならない。
今の首相がいなくても、別の誰かが出てくるだけじゃないかなぁ・・・。
現政権を排して、別の政権ができても、それはよりマシなものであっても、それ以上のものではない(それでも“マシな”というのは重要なことですが)。
根本は潮流自体が変わらないと。
普通は逆に考えますよね。
これを一応前提にしまして、何をお前は言いたいのか?というとですね・・・
ミクロ的な個人のパーソナリティーに焦点を当てすぎる傾向は、結局のところ、政治的メシア(救世主)主義の裏返しなんじゃないかと。
政治的メシア主義という言葉がピンと来なければ、「英雄待望論」でもいいでしょう。
「この人が悪政の元凶だ!」は、裏を返すと「この人なら善政を生み出せる!」と同じじゃないですかね?
これは、散々、この国が(というか、大衆デモクラシー全体が)やってきたことですね。
少し前なら、 ライオンカットの首相やら 、声がお父さんによく似た新潟出身の元外相やら・・・、近年だと女性初の都知事やら、若手のホープのセクシーな大臣やら・・・
「この人なら、全部良くしてくれる!」
て、担ぎ上げて
「裏切られた!」
て、無慈悲な攻撃を始める。
もうやめた方がいいんじゃないかな・・・(て、止められるほど政治文化は軽いものじゃないですが)。
繰り返しますが、もちろん、誰がやっても、同じではないので、選挙も議会もジャーナリズムも必要です。
ただ、それはミクロ的なレベルであって、マクロ的には時代状況そのものという巨大な潮流を変えなければ、根本的な状況の変化(改善)には繋がらない、ということは、常に頭に隅に置いておかなくてはならないかと。
マクロ的な歴史や時代という大河を担っているのは、国民全員であり、為政者はその顕現に過ぎない。
結局、国民が堕落しているのに政府だけが立派とか、逆に政府は腐敗しているが、国民は立派なんて事はないんですね。
両者は鏡です。
人民の政府は、人民の為に作られ、人民によって作られ、人民に適応するように作られる
ダニエル・ウェブスター