ハンス・ケルゼン『プラトニック・ラヴ』批判~真の「恋愛」とは何か?

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古代ギリシアにおいては、自由民の年長男性と少年が恋愛関係を結ぶ、いわゆる「少年愛」が盛んでした。

特に、アテナイの哲学者ソクラテスのそれは有名であり、その姿を弟子であるプラトンが対話篇に描いています。

プラトン対話篇のソクラテスが、どこまで史実のソクラテスか、といった問題(いわゆる「ソクラテス問題」)は、当座置いておいたとしても、この少年愛、ひいてはエロス論はプラトン哲学にとって欠かすことの出来ないテーマです。

そして、このプラトンのエロス論に対して、様々な解釈や論争が繰り広げられてきました。

今回、否定的な解釈として、20世紀を代表する法学者ハンス・ケルゼン(1881~1973年)の『プラトニック・ラヴ』を取り上げ、その解釈の問題点と、プラトンのエロス論の真意を考えたいと思います。

ケルゼンのプラトン理解

まず、ケルゼンの解釈を彼の著作に沿って見てみましょう。

ケルゼンは、プラトンをその哲学的思索に走らせた根源はエロスであると考えます。

そしてエロスは、本質的に同性愛である、と。

そのひとつの証拠に、プラトン著作中における彼の男性の親類縁者(特に次兄グラウコン)の活躍を挙げ、

それに対しプラトンの生涯の中で、いかなる女性も役割を果たしていない。

ハンス・ケルゼン『プラトニック・ラヴ』木鐸社、1979年、15頁。

同性愛は異性愛と変わらずに、相手への献身的服従・奉仕に努めますが、反面、相手への支配願望が見え隠れします。

この同性愛は反社会性を持たざるを得ません。

なぜなら、社会成員の再生産システム(出産)に真っ向から相反するからです。

ここから、ひとつの帰結として同性愛は反社会・現世否定となります。

一方でこれを克服せんとし、社会優位・地位を獲得せんとする権力意志を欲することをもたします、この権力意志は、子供に対して向けられます。

なぜなら、同性愛は、いわゆる「永遠の青年」を志向するもので、支配可能な「子供の世界」に向けられるからです。

これは、父の保護下にあった幼少期を追い求めることであり、父権的・専制的・反動保守的にならざるを得ません。

加えて、この傾向を助長するのが、同性愛者が社会再生産から除外されているため、自分たちを特権化しようと欲する不平等の原則です。

これは一切を逆転しようとする革命的情念に繋がるでしょう。

このような心理が、プラトンには潜んでおり、プラトン自身と世界には深刻な対立が生じています。

そこで登場するのが、現世における肉体(ソーマ)を悪しきものとし、精神を全面的に善とした対話篇『パイドン』です。

この作品は、不当な判決を受けたソクラテスが、毒杯を仰ぐまさにその日を描いた作品であり、嘆き悲しむ友人と弟子たちに、ソクラテスは魂不死の論証を行います。

ここで肉体は魂の牢獄(セーマ)であり、善なる精神((プシュケー))は、ここを離れる必要があり、哲学とは「死の練習」であるとまで言及されます。

ここに、霊肉二元論、「精神」対「肉体」、そして「同性愛(少年愛)」対「異性愛(肉欲)」、ひいては「善なる男性原理」と「悪しき女性原理」という構図が貫徹されます。

これはある程度、「イデア」対「個物」にも反映されると見ることも出来ます。

しかし、プラトンは、この絶対対立を克服せんとします。即ち、哲人統治という対社会(現世)を実現しようとするならば、また、自己のエロス(同性愛)を存立させるためには、善悪の絶対対立という図式から、肉体を善でも悪でもある相対的存在とし、この世界(現世)が善への生成領域と考えようとするのです。

これが試みられたのが、対話篇『饗宴』です。

この作品はアガトン宅で催された饗宴を舞台に、列席者が酒杯を重ねながら、次々とエロス賛美の演説を行います。

そして最後にソクラテスが、かつてマンティネイアの巫女ディオティマに教えられたというエロス論を展開するのです。

彼女は、子を産むことの動因は不滅性にあり、精神愛における「精神の子」の出産は、男女の性交による生殖による「肉体の子」より優位・偉大であると言います。

そして少年の肉体美を前提とした同性愛のみが、精神の子を産み、ひいては、「美のイデア」に至る、と。

以上のように、ケルゼンは、プラトンのエロスが、終始、少年愛に貫徹されており、更には、『パイドン』と『饗宴』には断絶・大転換があったとみなしています。

このようなプラトン理解は、果たして正当なプラトン理解なのでしょうか?

検討が必要です。

プラトンの男女観

男女という性別が、プラトン哲学において何らかの意味を持つのかと言えば、それには否定的にならざるを得ません。

プラトンにおいては、哲学は精神の活動であり、それによって目指すところは、普遍的な真実在、いわゆるイデアを観照(テオリア)することに他なりません。

これは終始、精神、理性の問題であり、性差の問題ではありません。

従って、もしここで、男女の優劣を論じようとすれば、男性が理性的に優れ、女性が理性的に劣っているという命題を論じることになります。

プラトンから離れて、現実の世界を見てみましょう。

なるほど、哲学史を眺めれば、一見、この論も妥当するかのように見えるかもしれない。

哲学の回廊は、男性の顔で溢れています。

しかし、それはやはりナンセンスなのです。

まず史上の哲学者が歴史に刻まれ、哲学者の回廊に座るためには、彼らが、(なんらかの)「真理を見た」だけでは成立しないからです。

加えて、それを書いた(書かれた)ことによって、世に知られ、歴史に記されたから「遺る」のです。

過去、真理に到達しえども、それを言わずに、書かずに(書かれずに)、消えていった数多の賢者がいたか?想像を絶します。

もし、プラトン(あるいはクセノフォンなど)がソクラテスの言葉を書かなかったならば、ソクラテスはその事績を後世に遺さなかったでしょう。

では、なぜ、哲学史の回廊を眺めた時、男性ばかりの顔が並ぶのか。女性の優れた人々は、なぜ、書き残さなかった(書き記されなかったの)のでしょうか?

それは言うまでもなく、社会的要因でしょう。教育をはじめとする社会構造における女性の進出の制限。これが、その芽を摘んできたのでしょう。

哲学史、あるいは歴史を眺めただけで、女性の理性が劣るという命題は成立しません。

閑話休題。

プラトンにおける女性の問題を見ていきましょう。

ケルゼンは、プラトンが女性を悪なる原理として蔑視していると見ていますが、その根拠は、プラトンの対話篇『ティマイオス』『ポリティコス(政治家)』における輪廻神話を、女性が男性の堕落形態であるとし、プラトンのユートピアには男性しかいないと読みとっているからです。

プラトン対話篇中の神話(ミュートス)は、多様な解釈が可能であり、ここでは具体的に対社会に言及している対話篇『国家』での記述を考えてみます。

通説として、『国家』のユートピア(理想国)においては、(現代からすれば驚嘆すべきことに)男女平等が表明されています。

ここでもケルゼンはこのプラトンの計画を非難します。

曰く、これは、プラトンが女性の性、その特性に呆れるほど無関心であるが故だと。

その論拠として、理想国のプログラムにおいて、留意されるのは女性の物理的力の弱さだけだと指摘します。

老若男女問わず、裸で相撲場において肉体を鍛錬すること。

雌犬と雄犬を例に出しつつも、女性は育児に専念せずに、男同様に様々な活動に参加すること。

理想国において、一組の男女(夫婦)を基礎にした家族共同体を全面的に廃止し、子供を国家で共有すること。

これらの主張は、女性の特性を無視(というよりは盲目)しており、特に、最大の特性、子供への「母性愛」そのものが欠落している、と。

しかし、このケルゼンの理解は誤りだと主張しなければなりません。

ケルゼンのプラトン理解の致命的な欠陥は、彼がプラトン対話篇、その形而上学を、形而下から捉えてしまっている点にあり、上述の『国家』の女性観評も例外ではありません。

プラトンにとって、その関心事は徹頭徹尾、イデアを見ること(テオリア)にあります。

そこでは肉体は関係なく、理性・精神のみが問題になります。

だからこそ、女性の性的特性は付帯事項程度の意味しかもたないことになるでしょう。

そう考えると、ケルゼンとは全く違った解釈が導き出せます。

理想国は、精神に向いているが故に、肉体的なものを基礎とする習俗・慣習(男女の役割分担)を認めない。更には、家族という「閉じた共同体」を認めず、万人に母性愛、というよりは愛を貫徹する為、家族制を廃止する。

そして、最後に、決定的な事が、作中のソクラテスから語られます。

ソクラテスは、哲人王となる真の哲学者を育てる教育プログラムを語り終えた直後

「統治する女たちもだよ、グラウコン(中略)というのは、ぼくが話してきたことは、けっして男たちだけのことではなく、女たちのなかから生まれつき十分な力量をもった者が出てくる場合には、まったく同等にそのような女たちについても言われてきたのだと、考えてもらわなくてはこまるからね(中略)いやしくも女たちが、われわれの論じたように、すべての仕事を男たちと共通に分担すべきだからにはね」

プラトン『国家』(下)岩波書店、2000年、163-164頁。

理想国最大の鍵であり要である哲人統治の思想において、「哲人女王」が承認されていることは、先のケルゼンの批判を覆す力があるように思えます。

また、『饗宴』において、ソクラテスに美のイデアの奥義を語る、導き手、“もうひとりのプラトンの代弁者たる”人が、巫女(・・)ディオティマであることも見逃せません。

エロス論の重要な部分で、女性があえて登場しているのです。

以上、見てきたことで確認できるのは、プラトン哲学が男女という形而下的枠組みを超越している可能性があるということです。

しかし、なお、少年愛の課題は手つかずに残されています。

なぜ、対話篇中のソクラテスは美少年に夢中なのか?

少年愛と異性愛

ソクラテスの美少年好きはプラトン対話篇中にも伝えられています。

そこでのソクラテスは、美少年を巧みなロゴスで口説き、魅了してしまいます。

なぜ少年なのか?

ケルゼンは、ソクラテスープラトンが、同性愛者(少年愛好者)だと断定し、それがソクラテスの対話術(ディアレクティケー)、プラトン哲学の基底を成していると考えています。

「彼が愛について語るときは、殆ど常に少年愛」だとケルゼンは読み解いています※1

ケルゼンによれば、『饗宴』や『パイドロス』、『カルミデス』『リュシス』『国家』において、それが高々と賛美され、「少年の肉体の美は永遠の美の反映なのである。」※2

かくして「知を「愛する」という場合の愛とは少年愛のことである」※3

しかし、このケルゼンのプラトン理解も、形而下的理解という致命的な過ちを犯していると言えます。

前述したように、プラトン哲学は、男女という性差を超越していると読むべきです。

同じように、「少年」という存在も超越していると考えるのが妥当です。

確かに、ソクラテスは美少年を口説いている。

しかし、注意すべきは、彼らとの肉体関係は認められないことです。

ソクラテスの熱烈な信奉者たるアルキビヤデスは、何とか、ソクラテスと一夜を共にすることに成功しますが、その結果は・・・

「僕はその一夜をソクラテスと一緒に寝て過ごしたが、自分の父または兄と一緒に寝たときと何の変わったことなく、起きたのである」

プラトン『饗宴』岩波書店、1998年、143頁。

と、自身の企みの失敗を、酩酊しながら話しています。

斉藤忍随は次のように述べています。

ソクラテスは、二重の意味で永遠に与かろうとするかに見える。それというのも、彼は自ら永遠の美を恋し、その把握、その「知を求める」と同時に、同じ憧れを少年の中に受胎させて、生物的次元の恋の場合と同じように、自分と類似の若い個体を残そうとするからです。ところが、若い女性の美は、生物的生殖への意欲をかき立てすぎて、精神的生殖への意欲を委縮させる。あるいは若くて美しければ、それだけ一層女性は生物的受胎に適合していて精神化の道を持続的にたどらせることは困難だろう。異常な恋の人、ソクラテスが少年の美の追求に忙しく、女性の美のエロティシズムを示さないのもやむをえない話であり、いわゆるプラトニック・ラヴは女性を相手には通用しないのである。

斉藤忍随『プラトン』岩波書店、1972年、89頁。

この説明は、ケルゼンのような形而下的な解釈を退けるものですが、なお疑問が残ります。

それは、本当に女性相手の異性愛を排除するものなのか、という点です。

実は、プラトン哲学においては、同性愛・異性愛という、問いの立て方自体が無効と考えられます。

プラトニック・ラヴにおいては、同性・異性、男女というカテゴリー自体が意味を持たないのです。

先ほどから「精神愛」ということを述べていますが、その精神、考えうる精神(理性)は、イデアを掴むためにあります。

イデアを掴むためには、経験的なのものは、地上的なものであるが故に、諸刃の剣、往々にして阻害するものですらあります。

イデアにとって重要なのは、純粋な精神の働きです。

さて、多くの場合、年齢を重ねれば、経験が蓄積し、同時に社会からの多くの束縛や偏見・先入観と持つことになりますが、それは、ある意味、純粋精神の世俗化でもあります。

対して、経験の未熟な子供は、その純粋性が当然、より保持されていると考えられます。

こう考えた場合、イデアを知るための訓練は、幼少期から着手するのが望ましく、でなければ、「哲学者」を誕生させることは困難になります。

その際、この子供に、その訓練を施す者が必要であり、その年長の導き手と子供の関係を、(真の)「少年愛」と呼ぶべきです。

プラトン対話篇において、子供が少女ではなく、少年として語られるのは、男性年長者の幼女への偏愛と誤解させない為のプラトン一流の韜晦かもしれません。

つまり、肉欲的イメージを払拭して精神愛を強調する為、あえて少年にした、と。

それを後世は、見事に誤解したのではないでしょうか。

それにはアリストテレスも含まれています※4

そもそも「エロス」を語る舞台が違い過ぎるのです。

少女愛であろうと、異性愛であろうと、女性同士の同性愛だろうと、精神愛にとって、特段、問題にはなりません。

仮に、もし、人非ざるもの、異形の者であろうと、そこに高き精神があれば、なんらの障害にもならない。

更に言ってしまえば、真の恋愛は、一対一である必要すらありません。

この恋愛は一種の共鳴現象であり、そこに対象人数は関係ありません。

最低一人でも、最大75億人でも原理的には成立します。

もし、仮に、この後者の75億人が成立したのならば、その時は「個は全」の言葉通り、人類の精神的統一すら達成できるでしょう。

なお、まだ、性交の問題が残されているかもしれません。

こうなってくると、それは二次的、副次的な意味しかなさないように感じられます。

ここまで議論が及ぶと、もはや一般で使われる友情とか恋愛とかいう区別が、そもそもプラトン哲学においては存在しないように見受けられます。

同性の友情は相手の人格への愛情であり、異性への恋愛も同様であり、その他の組み合わせも言わずもがな。

つまり、これらは、同じことを言っているに過ぎない。

その人格とは、究極的・最善的には、高き精神です。

つまり、最初から、対人関係において、最終的に志向されていたのはプラトニック・ラヴ以外には有りえないのではないでしょうか。

エロスとイデア

以上、見てきたように、ソクラテス―プラトンの少年愛、ひいては「エロス」は、ケルゼンが言うような形而下的、即ち、ソクラテス―プラトンの個人的性向に基づくものではなく、極めて形而上的な存在であると考えられます。

では、なお、『パイドン』と『饗宴』には断絶があるのか、考えたいと思います。

ケルゼンは、『パイドン』を霊肉二元論、現世否定・現世逃避の思想書と捉えていました。

しかし、この認識は、誤りと言わざるを得ません。

藤澤令夫は次のように指摘しています。

多くの人びとは、『パイドン』に集中して現れる右のような言葉に、魂と身体の ―あるいは霊と肉の、あるいは心身の― “二元論”を見る。身体を蔑視し、知性(理性)を尊重して感性を蔑視する考えを、さらには生の侮辱と死の賛美を見ようとする。これが通俗的プラトニズムにほかならない。だが、実際には、事はそのように簡単ではない。

藤沢令夫『プラトンの哲学』岩波書店、2001年、104頁。

これは、ケルゼンの理解の否定になります。藤澤は『パイドン』の真意について、

「魂と身体の対立」という表だった語り口の基底にあるほんとうの対立は、魂の働きの二つの方向の対立

同上書、106頁。

であると言います。それは知へと向かうエロス、身体的なものへと向かうエロスであり、前者こそ「精神の原理」たる知への愛求者、後者は「生き延び原理」に束縛された身体の愛求者であると説明します。

この藤澤の理解を、今までの少年愛の議論に照らすと、身体の愛求者こそ肉欲(異性だろうと、同性であろうと)を中心にした生き方を望む(そしてプラトンをそう理解する)形而下の人々であり、対して、知への愛求者こそ精神愛として恋愛を志向し、恋人たち(・・)と形而上(イデア)に飛翔せんと欲す哲学者だということになります。

このように『パイドン』を読み解いた上で、ケルゼンが断絶を主張する『饗宴』を眺めてみましょう。

『饗宴』においてケルゼンは、プラトンが自己のエロス(この場合、同性愛・少年愛)を肯定する為、人間の不滅性願望から同性愛のみによって生まれる「精神の子」を、異性愛による「肉体の子」よりも優位に置き、もって、同性愛を正当化し、現世に復帰を果たしたとしています。

ここに『饗宴』が同性愛弁明の書であることが白日のもとに晒されたのである。※5

しかし、この見解は、先の藤澤令夫の説明を了解していれば、誤っていると言わざるを得ないでしょう。

プラトンにおいては、エロスは最初から肯定されており、問題なのは、その方向性、ベクトルなのですから。

つまり、精神か身体か、どちらに向いているのか。

このベクトルさえ正しければ、異性愛だろうと正しく、ベクトルが誤っていれば同性愛でも正しくはない。

ケルゼンが、『饗宴』と同じ思想であるという『パイドロス』にしても、その意図するところを藤澤は次のように喝破しています。

「プラトニック・ラブ」というのは、肉体関係がないことよりも、<美>のイデアの想起として語られる知的欲求の強さということのほうに、その重点があることになる

藤沢、149頁。

ケルゼンは形而下に目を向けすぎて、ここまで見通していません。

更には、ケルゼンが同性愛弁明の書といて『饗宴』を解釈する論拠は、巫女ディオティマが語る「美のイデア」に至る、愛の秘儀でした。以下、その階梯を簡単に示します

  1. 一つの美しい肉体を愛し、その中に美しい思想を植え付ける。
  2. この肉体美が他の肉体美と姉妹関係にあい、あらゆる肉体美が同一不二であることを看取する。
  3. 1人だけへの愛ではなく、あらゆる肉体美に愛を及ぼす。これは、一人に対する愛が、くだらぬものと悟るをことを意味する。
  4. そして精神美が肉体美よりも優っていると悟る。すると愛嬌が無かろうが、精神さえ立派ならその人を愛す。
  5. 精神美を持つ青年を向上させんと言説を探し、また生み出す。
  6. 制度や活動にも美を見る。さらに、美がお互いに親類だと知る。そして肉体美にわずかの価値しかないと悟る。
  7. 学問的認識として美を見ようとする。そうすれば認識(概念)上の美を見れるようになり、個の美ひとつだけを愛するという狭量な人間になることを防げる。
  8. 彼は、愛智心(フィロソフィア=哲学)から美しい言説。思想を生み出し成熟していく。
  9. ここまで来た時、彼は直感・霊感として「美」そのもの(美のイデア)を観る

(プラトン『饗宴』岩波書店、1998年を参考に)

ケルゼンはこれを少年愛と解しました。

美少年への愛こそ高次の愛なのである。それに対し異性への愛は、低俗な世界を越えて、天上を想起することができにくく、想起能力に劣った人々の愛だとされている。(中略)異性間の愛は動物的・反自然的なもので同性愛に比べて遥かに劣るものだと結論したのである。

ケルゼン、106-107頁。

しかし、このケルゼンの解釈は誤りでしょう。

1における肉体美を、ケルゼンは「真の哲学に至るための不可欠の前提条件」だと指摘していますが※6、これは善の普遍性(イデア)に気が付くひとつ(・・・)の契機ですし、これが少年の肉体美に限定するのも問題です。

それが美しい女性、美少女の肉体美でも構わない筈です。

前述したように、美少年として描かれるのは、肉欲的イメージを払拭したいがためではないでしょうか。

さらに、ここには、男女の肉体美に限らず、動植物の美、音楽の美、文学の美など、個々あらゆる美に置き換えることも可能です。

『饗宴』という作品の流れから、主に人間の肉体美が語られています。

この階梯では、より高次の美として、善き統治や国法(6に相当)や数学・論理の美(7に相当)へと、1~5を経ずに到達することもあり得ます。

何より、このような個々の美は、2以降では、個物から普遍への飛翔によって、価値低きものと定義されていきます。

一説には、ソクラテスは、アルキビアデスの美貌を軽蔑していたとすら伝えられています※7

『饗宴』においても、『パイドン』同様のエロス論が貫徹されていると考える方が、理に適っています。

それは、考える精神(魂)を愛するフィロソフィアの原義そのままです。哲学の原因・動因は「(エロス)」以外の何ものでもありません。

この二つの書に相違があるとすれば、それは表現・主題の違い。一方は愛について、他方は死について。

しかし、両対話篇を通底するものは一貫しており、ケルゼンの言う断絶は認められません。

イデアに至る哲学において、エロスは、「好き助力者」なのです※8

・・・それにしても、ハンス・ケルゼンのような20世紀を代表するような法学者さえ、このようなプラトン批判を展開するとは。

哲学史は、プラトン派と反プラトン派の戦いという言葉がありますが、まさにそれを実感しますね。

【参考文献】

藤沢令夫『プラトンの哲学』岩波書店、2001年。

【脚注】

※1.ハンス・ケルゼン、27頁。

※2.同上書、30頁。

※3.同上書、37頁。

※4.同上書、46-50頁。

※5.同上書、98頁。

※6.同上書、109頁。

※7.ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』(上)岩波書店、1995年、142頁。

※8.プラトン『饗宴』岩波書店、1998年、127頁。