「機動警察パトレイバー2 the Movie」の元ネタ?『<ワードマップ>戦争~思想・歴史・想像力』~押井守×市田良彦の「戦争」

戦争を描くと、じつはみんなが考えるような戦争映画にはなりようがない。戦闘しか描けないから。そして戦闘じゃない戦争を描くとどうなるかっていうと「(機動警察)パトレイバー2(the Movie)」にしかならないよ。

押井守・岡部いさく『戦争のリアル』エンターブレイン、2008年、48-49頁。

日本アニメーション史上最高傑作にして最大の問題作であろう、押井守監督の長編劇場版アニメーション「機動警察パトレイバー2 the Movie」。

本作には、その元ネタというか、思想的背景、土台になった本があると言われています。

それが、市田良彦・他著『<ワードマップ>戦争~思想・歴史・想像力』(新曜社)です。

ジェイムズ・ダニガン×ポール・ヴィリリオ×市田良彦

新曜社の「ワードマップ」というシリーズの1冊として刊行されたもので、社会思想史家の市田良彦を中心(全体の企画・構成)に、社会思想やメディア論、芸術哲学などの研究者らによる共著(小論集)となっています。出版は1989年ですから米ソ冷戦時代です。

「パトレイバー2」(以下「P2」)というか、押井守に大きな影響を与えているフランスの思想家にポール・ヴィリリオがいますが、市田はその著書『速度と政治』の邦訳者と言えば、その関連性も窺えるでしょう。

さて、P2の重要な台詞などで、米国の戦略家ジェイムズ・ダニガンの『新・戦争のテクノロジー』からの引用・影響がよく指摘されますが、こちらが軍事戦略の書、軍事学の範疇だとすると、今回のテーマになる『<ワードマップ>戦争~思想・歴史・想像力』は、哲学・社会思想・社会人類学などを駆使した「戦争哲学」「軍事思想」といった趣の本になっています。

形而上的な性格が強い。

本書の、特に市田の小論群は、P2成立の思想的背景を考える上で、重要な点を多数含んでいます。

本を開いた冒頭、市田による「まえがき」

第三次世界大戦を、恐怖しつつも心密かに待ち望みながら本書を手にしたあなた、あなたは根本的に間違っている。

そんなものは、とうの昔に始まっていて、今やいかにケリをつけるかだけが問題なのだ。

市田良彦・他著『<ワードマップ>戦争~思想・歴史・想像力』新曜社、1989年、3頁。

どうでしょう、P2の中での、後藤に荒川が言った台詞を思い出さざるを得ないでしょう。

荒川「戦争だって?そんなものはとっくに始まってるさ。問題なのは如何にケリをつけるか。それだけだ。」

これだけでも、P2が本書の強い影響で構想されていることがわかります。

「戦後」は戦時下なのか?

P2の中で本作のテーマを語る重要なシーンとして、中盤の後藤と荒川の「戦争と平和」に関する問答があります。本書の内容を通して考えてみると・・・

トロイの木馬以来、偽装を伴わない戦争はなかったわけだし、戦争の歴史は、偽物によって敵の目をあざむく知恵と技術の歴史であったと言っても差しつかえない。かかる歴史の教 訓に従えば、シミュレーションの技術が隆盛をきわめている現在、何らかの戦争が進行していないと考えるほうに無理があるだろう

『<ワードマップ>戦争~思想・歴史・想像力』5頁。

クラウゼヴィッツ的な戦争(敵正規軍の殲滅)を想起し易い我々にとって、認知の至らないところで、全く埒外の「戦争」が展開されている可能性は?

我々がそもそも欺瞞されているかもしれないのです。誰に?

柘植が演出して見せた「幻の戦争」は、そんな新しい智謀・戦略なのかもしれません。

 そもそも、戦争が戦闘と一致するなどというのは近代以降に成立したひとつの臆断にすぎない。戦闘をちらほらとしか伴わない長期にわたる戦争が、それ以前ではほとんど常態であった。また、国家によって宣戦布告がなされないかぎり戦争ではないと言うのは、法が平等をうたうかぎり万人は実際に平等であると言うに等しいだろう。

同上書、5頁。

荒川が

「単に戦争でないというだけの消極的で空疎な平和は、いずれ実体としての戦争によって埋め合わされる。そう思ったことはないか?」

と後藤に問いかけますが、「戦争」=「戦闘」という思考法から、戦後日本が「戦争」と全く無関係な場所であるとの臆見を、ここで否定しています。

米ソ冷戦という「第三次世界大戦」(?)の一戦域に過ぎないのではないか?

荒川「ここが戦線の単なる後方に過ぎないことを忘れる。・・・いや・・・、忘れた振りをし続ける。」

「戦後」という時代空間は、20世紀後半の「戦時」の別名に過ぎない。「戦後」は「戦中」であるという逆説が展開されているのではないのか。

核抑止が世界平和の最終的保障として登場して以来の歴史は、そのまま新種の世界大戦として見えてこないだろうか。米ソを主役とする、戦闘と宣戦布告を欠いた<大戦>として。

『<ワードマップ>戦争~思想・歴史・想像力』、7頁。

であるならば、「戦後」という日本も、「戦争」の一角を占めており、やはり「そんなものは、とっくに始まっているさ」と不敵な笑みを浮かべたくもなる。

後世、そう評されるかもしれません。その時代・状況に生きながら、その時代を客観的に位置付け、他の時代・状況と対象化するのは至難です。

Word-map-war

戦争アニメのカタルシスは「儀礼戦争」か?

丹生谷 貴志(美学、表象論)の執筆項目ですが「儀礼戦争」に関する論考も見てみましょう。

「儀礼戦争」とは、国家(共同体)の防衛を目的とする戦争(近代戦争)ではない、未開社会の「戦士」による、「戦い」それ自体を目的にする戦争です。

近代戦争とは異なる「野生の戦争」とでもよぶべきものが現れる。それはただ浪費し蕩尽するためだけに展開する戦争であり、何ものも防衛せず、何ものも奪わず、何ものも貯蓄しない盛大な「祭り」に他ならず、本質的に反共同体的な戦争である。

同上書、23頁。

P2を筆頭に、戦争アニメーション、特に、押井守のような「東京で戦争を!」的な作品の背景には、この「儀礼戦争」の思想が背景にあると感じることがあります。

共同体は、その存続の為、吝嗇(りんしょく)・貯蓄を(さが)とする

しかし、これに対して、「戦士」という存在が対置されます。これは近代の「兵士(軍人)」とは全く異質な存在です。

戦士群はその共同体が死への怯えと将来への不安に窮々としているだけの奴隷の集まりではないことを誇示する者たちとなるからである。美しい戦士たちを持っていること、これは共同体の誉れ、吝嗇と貯蓄を盛大に蕩尽してみせる「自由」を誇示する誉れとなるだろう。

同上書、17頁。

戦後日本は、高度経済成長により経済大国となったわけですが、裏を返せば、それは「吝嗇と貯蓄の帝国」と言えます。

そこには、忍耐と従順が必要であり、それこそ「不安に窮々としているだけの奴隷の集まり」とも言えます。「ウサギ小屋」で飼いならされた「エコノミックアニマル」。

そんな吝嗇の象徴たるメガロポリス「東京」を破壊することは、即ち「蕩尽(とうじん)」してみせる事。

それが現実に叶わない以上、フィクション・モニターの中で、それを「自由」にやってしまおう、という、まさに「蕩尽のシミュレーション」。

軍隊・軍人に憧れ、「カッコ良さ」を観る根底には、この「自由」を背負っていることへの無意識での畏敬が潜んでいるのかもしれません。

同時にそれは、軍人に戦士(略奪者)と防衛者の両面を観る事にもなります。

欲望と共同体(国家秩序)の安定と蕩尽(破壊)の欲望という両極。

軍隊に対しての国民の感情の二面性、愛憎。

これは、P2の中で言えば、「幻の空爆」と「ヘルハウンドの跳梁」に象徴されます。

「幻の空爆」で味わう緊張感は、国家秩序の崩壊への予感(叛乱からの内乱の生起)であり、観る者に「政治的共同体の防衛」に対しての意識を強いてくるのに対して、後半、2月26日に雪の首都を攻撃ヘリ「ヘルハウンド」が蹂躙する「鮮やかな」破壊は、「戦争」という「祭儀」を柘植が演出しているのであり、その都市機能の「蕩尽」に、観る者は先の「幻の空爆」の様な危機感ではなく、カタルシスを得る。そう、文字通り戦士の「祭り」なのです

この二面性がP2の魅力とも言えます。

歩道の野次馬の人垣越しに見える移動中の戦車。

治安出動という非日常(ハレ=祭)に登場した山車(ダシ)として戦車を描いています。


『Methods 押井守「パトレイバー2」演出ノート』角川書店、1994年、120頁。

シミュレーションを超える時

ところが、戦争アニメーションは、それがシミュレーションであるが故の限界と危険性を持ちます。

それは所詮は代理にすぎず、代理による快楽に味をしめた人間は、本物に手を出したくなってしまうという点、ある線を超えると、代理は逆に欲求不満を増進せずにはいないだろう。

同上書、4頁。

アニメーションに限らず、様々なコンテンツにおいて、フィクションとしての破壊と殺戮は「消費」されています。

「本当」の戦争に無縁であった「戦後」日本においては、これを半世紀繰り返しいる。

ガス抜きのために始められたシミュレーションが、ガスをためるのだ。となると、もはや栓を抜くすべはなく、爆発だけが待っていよう。

われわれはすでに、テロリズムというかたちで、爆発音の一部を耳にしてはいまいか。

同上書、5頁。

そう、我々は、その爆発を何度か目にしているのかもしれません。安田講堂で、神田カルチェラタンで、三里塚で。それはやがて、1995年の東京の地下鉄で。

これらは、小噴火、「ガス抜き」であったかもしれません。

しかし、これが、21世紀に突入すると、加速度的にエスカレートしている。「ある線」を超えた感を日増しに覚えます。

デジタル技術の脅威、情報技術の高度化に比例し、フィクションもその精度(リアリティー)を上げ、溜まっていた「ガス」はより大きくなり、臨界点に達しようとしてるのではないか?

例えば、いわゆる「右傾化」と言われる国内情勢。「代理」ではなく、現実の国際政治・勢力均衡を舞台にシミュレーションを展開しようとする欲求。

シミュレーションが現実政治を浸食する。

やがて、臨界点に、大噴火が、フィクションではない砲声を聞く日が来るかもしれません。

「政治」と「戦争」の狭間で

本書を通読して個人的に感じるのは、いわゆる「クラウゼヴィッツ問題」に関して。

本書内でも言及されていますが(101頁)、要するに彼の「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」※1は、生存者無き全面核戦争においても妥当するのか?という議論です。

「戦争は政治の延長」ということは、軍事学は「政治学の侍女」であり、戦争は政治の下位概念ということになります。

対して、本書の特徴は、この「戦争は政治の延長」に対して、どちらかというと否定的というか、「戦争(軍事)」の独立性・独自性を強調する方向の議論の展開に見て取れます。

「政治」に束縛されない「戦争」の形而上的な方向での存在を明示する。これが、他の巷にあふれる戦争論・軍事論と大きく違う「戦争哲学」「軍事哲学」とでも言うべき特色を本書にもたらしている気がします。

この特色は、ある意味、押井守のP2とパラレルな関係にあります。

P2が、他のいわゆる戦争アニメと一線を画すのは、形而下的な「戦闘」(戦術)をメインにした展開、更には形而下の法議論(憲法問題や自衛隊法)や制度論を捨象・後景化して、その背後にある形而上の問題(勝義の「戦後」「戦争」「平和」)をテーマの中心に据えている事です。

前者が絶対戦争と「政治学の侍女たる軍事」を背景とするクラウゼヴィッツ的な戦争観だとするならば、後者、P2における独特な世界観は『<ワードマップ>戦争』における非政治的な「戦争」概念の独自領域の提示に重なってくると言えなくもない。

本書は「戦争哲学」「軍事哲学」の独自性・自律性を展開する思想書です。故に政治学・政治哲学とは距離(溝)がある、範疇が異なります。

では、政治学ないしは政治哲学から捉えたP2はいかなる作品か?

これは、以前に別の論考(考察)をまとめていますので、ご興味があればご一読ください。本書がヴィリリオらに軸足を置いているのに対し、拙稿はカール・シュミット、丸山真男、埴谷雄高に負っています。

★政治哲学での考察(全三回)

「機動警察パトレイバー2 the Movie」の政治哲学的考察 連載① ~押井守と「戦後」、前史としての『犬狼伝説』~ 

【参考文献】

市田良彦・他著『<ワードマップ>戦争~思想・歴史・想像力』新曜社、1989年。

押井守・岡部いさく『戦争のリアル』エンターブレイン、2008年。

押井守『TOKYO WAR』エンターブレイン、20006年。

【脚注】

※1.クラウゼヴィッツ『戦争論』(上)岩波書店、2000年、58頁

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