イメージ写真は雪の中の市ヶ谷・防衛庁
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→後藤と荒川の「戦争と平和」の問答を紐解く【前編】~血まみれの平和と言葉遊びの20世紀
「国家に永遠の敵もいない。永遠の友もいない。永遠なのは国利だけである。」
ヘンリー・パーマストン
「後編」では、「戦争と平和」の問答の終盤と、警視庁での後藤の独語、そして米軍介入に関しての2人の会話を見ていきましょう。
「神がやらなきゃ、人がやる」
後藤が、やや乾いた口調で「罰?誰が下すんだ?神様か」といって、荒川が、この街では誰もがそんなもんだと答えます。
荒川「この街では誰もが神様みたいなもんさ。いながらにしてその目で見、その手で触れることのできぬあらゆる現実を知る。何一つしない神様だ。神がやらなきゃ人がやる。いずれ分かるさ。俺達が奴に追い付けなければな。」
ドイツの思想家カール・シュミットは「現代国家理論の重要概念は、すべて世俗化された神学概念である」と述べていますが※1、この会話もある意味でその例外ではありません。この会話は、近代の「神殺し」とも言うべき状況を暗喩しているとも捉えられるのです。
いわゆる政教分離のお話になりますが、それはつまり、「神」(神学)のような超越者ではなく、生身の人間(君主や人民)が権力・権威を作る、作為の契機ということで、トマス・ホッブズに代表される様な近代政治学に特徴的なものです。
言い換えると、政治権力は、自らが「神」になったとも言えます。
神や教会ではなく、人である絶対君主彼自身が、自由に権力を創出し行使できる。
さて、荒川に言わせれば、この街の誰もが神様みたいなものだという。これはどういう意味でしょう。
前編で延々述べてきたように、戦後日本は政治的なるものから逃避し続けてきたわけです。それによって「経済大国の切符」を手に入れ、(モニターを通しての)膨大な情報の海を眺められるまさに「全知」とも言える神のような存在に安住したのです。
しかし、神は絶対者です。
「全知」だけではなく「全能」でなければ、その名に値しない。
この文脈での「全能」とは何か?
それは、政治的決断です。
宗教からの束縛を受けない近代的政治権力は、全く自由にその権力を行使できます。その力の行使の決断こそ、「全能」であり、「神」の名に値します。
「何一つしない神様」なぞナンセンスだ。
戦後日本が、その「決断」に背を向けるならば、その「決断」を下せる人間がそれをやる。
それが近代の掟であり、神なき時代の宿命だ、と。
それが、首謀者たる柘植であり、最終局面で軍事介入を通告してきた米国でした。
さて、この「決断」というものは政治学上、極めて重要な意味を持ってきました。
「決断」というのは実はそれ自体、極めて背徳的な、非良心的な行為とも言えます。
ゲーテは『行動者は常に非良心的である』(Der Handelnde ist immer gewissenlos.)といっておりますが、私たちが観照者、テオリア(見る)の立場に立つ限り、この言葉には永遠の真実があると思います。つまり完全にわかっていないものをわかったとして行動するという意味でも、また対立する立場の双方に得点と失点があるのに、決断として一方に与するという意味でも、非良心的です。にもかかわらず私たちが生きていく限りにおいて、目々無数の問題について現に決断を下しているし、また下さざるを得ない。純粋に観照者の立場、純粋にテオリアの立場に立てるものは神だけであります。その意味では神だけが完全に良心的であります。
丸山真男『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1991年、452-453頁。
ここに政治のデモーニッシュな宿命の一端が垣間見えます。
政治的決断とは、何らかの「犠牲」を必ず誰かに強いるものであり、それが、最善であるかは、神ならぬ人には永遠にわかりません。
故に、為政者・権力者と呼ばれる人々は、今までも、そしてこれからも、十字架を背負い続けることから逃れられない人々の一群なのです。
前線と最高意思の狭間
“冥府の犬”が跳梁し、戦端が開かれた雪の東京。そんな中、警視庁の会議室では、南雲と海法警視総監との激論が続いていました。
そして、海法から見解を問い正された後藤が口を開きます。
「戦線から遠のくと楽観主義が現実に取って代わる。そして最高意思決定の段階では現実なるものは屡々存在しない。負けている時は特にそうだ。」
これは、米国の軍事研究家ジェイムズ・F・ダニガンの『戦争のテクノロジー』からの引用です。
戦時中の日本帝国政府・軍首脳部の例を挙げるまでもなく、戦争指導は事実に基づいた合理的な決断の中で行われるとは限らないのです。否、むしろ稀だとも言えます。
そして、その決断の為の「情報」も、首脳部に届く時点で実際の戦況が、そのまま伝わるとは限りません。
情報は、その過程で様々なバイアスを受けます。国家のような巨大な権力機構・官僚制においてはさもありなん。
忖度や感傷、誤認、先入観、意図的改竄etc.
結果、事実とはほど遠い形で指導部にもたらされることが往々にしてあります。
プロイセンの軍人カール・フォン・クラウゼヴィッツは、『戦争論』において、「摩擦」「戦場の霧」という問題を提示しています。
あらゆる机上の、あるいは事前の合理的計画・計算・準備も、実際の戦場(戦争)では、様々な偶然や非合理な行動などによって、阻害され狂っていきます(「摩擦」)。
考えのなかだけでは、誇張されたこと、真実ではないことと思われるような出来事が、現実の戦争においては至る処に生起するのである。
クラウゼヴィッツ『戦争論』(上)岩波書店、2000年、132頁。
指揮官は、敵情や戦況を全て把握できるわけではないので、その決断は常に不完全な中で行われざるを得ません(「戦場の霧」)
つまり一切の行動は、薄明のなかで行われるのである、それだから霧や月明かりのなかの朦朧とした像のように実際よりも大きく見え、怪奇な外観を呈することも稀ではない。
クラウゼヴィッツ『戦争論』(上)岩波書店、2000年、70頁。
柘植に対して、「後退戦」を戦うことになる現代日本が、より大きな摩擦と深い霧に見舞われるのです。
「国家に真の友人はいない」
終盤、東京は「内戦」「戦時下」に陥る訳ですが、その時を待っていたかのように、米国政府が「ある通告」を日本政府に突きつけます。
荒川「その写真、誰が撮影したと思う?」
後藤「米軍か・・・」
荒川「今回の事態はその当初から米軍の厳重な監視下にあったのさ。1時間程前に大使館経由で通告があった。明朝7時以降、状況が打開の方向に向かわなければ、米軍が直接介入する。現在、第7艦隊は全力で西進中。各地の在日米軍基地も出動準備に入った。」
後藤「そんな無茶を・・・。」
荒川「やるさ。国家に真の友人はいない。連中にとっては願ってもないチャンスだ。そうだろう?この国はもう一度、戦後からやり直すことになるのさ。」
なぜ、国家に「真」の友人はいないのでしょうか?
あらゆるリアリストが口にしてきた政治の一真理ですが、その根本原因は?
ここで使われる「国家」(近代国家)を、もっと普遍的に「政治的共同体」として議論を進めましょう。
つまり、近代国家に限らず、古今のあらゆる政治的共同体が、「政治的」を冠する固有の意味を。
ただの「共同体」、あるいは、「宗教的共同体」や「文化的共同体」などと、「政治的共同体」を分かつリトマス紙は何か?
この答えに、もっとも大胆に、かつ論理的ですが無遠慮に答えているのが、先ほども登場した20世紀のドイツの政治思想家・公法学者のカール・シュミットです。
そもそも、あらゆる分野には、それをそれたらしめている、それ固有の究極的な区別があります。美的なものであれば、そこには「美」と「醜」の区別があり、道徳には「善」と「悪」が、経済には「利(益)」と「(損)害」が・・・etc.
では「政治的なるもの」をそれたらしめている固有(特殊)の区別とは何か?
シュミットは、「友」と「敵」の区別こそ「政治」の本質であるとする、いわゆる「友敵理論」を唱えます。
あらゆる分野の区別も、それが闘争の色彩を帯びて来れば、やがて「政治的なもの」に転嫁し、友と敵に分かれます。
国家が「政治的」な共同体である以上、根源的・本質的に、この「敵」と相対することからは逃れられません。
もうひとつ。別の側面から。
「国家理性」(レーゾン・デタ)という政治学の概念があります。
「君主たちを支配する君主」(ローアン)とさえ称される国家理性。
これについて、フリードリッヒ・マイネッケは次のように説明しています。
国家理性とは、国家行動の基本原則、国家の運動法則である。それは、政治家に、国家を健全に強く維持するためにかれがなさねばならぬことを告げる
『世界の名著54 マイネッケ』中央公論社、1964年、49頁。
「国家理性」と呼んだもの、つまり各国家は自己の利益という利己主義によって狩りたてられ、ほかの一切の動機を容赦なく沈黙させる、という一般的な規則から生ずるものである。しかしそのさい同時に、「国家理性」は、つねにただ適切に理解された利益、つまり、単なる貪欲の本能から浄化された合理的な利益のみを意味する
『世界の名著54 マイネッケ』中央公論社、1964年、148頁。
国家の存続を至上とするこの概念は、いわゆる「国益」というものの生みの親とでもいうべきものです。
国家理性では、君主(為政者)は、私情・感傷でも宗教心でもイデオロギーでも、道徳心でもなく、冷徹な利益の計算のみによって国政を判断(決断)することが強いられます。ましてや友情なぞ。
(故に、他国のことが「嫌い」などという感情も無益なものです。好悪なぞどうでもよい)
米国にとっては、日本再占領は、その計算によって、「願ってもいないチャンス」なのです。戦後、事実上の従属国に等しい日本から、さらなる利益を引き出すことが出来るという。
こう考えると、一時の友(同盟)や、一時の敵はあっても、それは、あくまで、その場しのぎのものでしかないことになります。
「日米同盟」は存在しても、それは決して「日米永久同盟」なぞではない。
本質的には、地上の全国家は、全て敵同士でしかない。
冒頭に掲げた、ヘンリー・パーマストンの言葉
「国家に永遠の敵もいない。永遠の友もいない。永遠なのは国利だけである。」
国家にとって永遠なのは、国利(国益)、つまりは国家理性であって、その国家理性が指し示す「敵」と「友」の仮初の区別だけなのです。
故に、「国家に真の友人はいない」。
【了】
【参考文献】
カール・シュミット『政治的なものの概念』未来社、2006年。
秋元雅和『平和主義とは何か』中央公論新社、2013年
蔭山宏『カール・シュミット』中央公論新社、2020年。
片岡鉄哉『日本永久占領』講談社、1999年。
土山實男『安全保障の国際政治学 第二版』有斐閣、2014年。
中村好寿『軍事革命(RMA)』中央公論新社、2001年。
【脚注】
※1.カール・シュミット『政治神学』未来社、2005年、49頁。