「機動警察パトレイバー2 the Movie」と戒厳令~タイトルに偽りあり!、「政治的なるもの」と「例外状態」【解説/考察】

いかなる政府もトマス・ホッブズが『リヴァイアサン』で展開した国家統治の問題を内包することなしには、存立さえできないことを、人びとはしたたかに思い知るべきであった。そこを通過しないで、一国民の政治的成熟が得られるであろうか。

磯田光一『戦後史の空間』新潮社、2000年、186頁。

アニメーション史において、異色のポリティカル・スリラーとして古典的な地位すら確立しつつある傑作、押井守監督の劇場版アニメーション「機動警察パトレイバー2 the Movie」

(1993年)。

本作では、自衛隊という戦後平和憲法下の「軍隊」を巡って、物語が進行しますが、その中盤に、「戦後日本」が最も恐れてきた事態、自衛隊の治安出動が描かれます。

東京都内に配備される実戦部隊の光景から、多くの論評・考察では「東京が事実上の戒厳令下に」「戒厳令が出された東京」などなど、その緊迫の状況を、「戒厳令下の東京」という言葉で表現しています。

ところが、この表現、言葉の使い方は厳密に言うと、実は誤りなのです。

「戒厳」と「戒厳令」

最初から、ぶっちゃけてしまえば、本記事の《「機動警察パトレイバー2」と戒厳令》というタイトルそれ自体が大いなる誤りであり、ミスリードです。

タイトルに偽りあり。

問題になるのは、戒厳令の「令」の部分。

おそらく、この語感から、この「令」は「命令」とか「発令」「指令」といった意味合いで理解されているのでしょうが、それがそもそもの誤りの原因です。

この「戒厳令」というものは、ひとつの法令、実定法の名称です。

つまり固有名詞。

それが一体何かというと、「太政官布告第三十六号」(なんと明治憲法発布より前!)

以下、北博昭『戒厳~その歴史とシステム』と大江志乃夫『戒厳令』を基にし、ざっくり説明していきます。

(「戒厳令」に関しての誤解・誤用を斥けるには、同書を読んでいただくのが最短にして最良です)

では早速

軍隊が、国家危急の、非常事態に際して、行政権や司法権を掌握し(立法権は入らない!)、軍隊が市街地で治安を維持する活動は何なのか?

それは、「戒厳」です(「令」を付けません!)。

この「戒厳」自体が、さらに2つの潮流に大別されます。

一方は、大陸法における「合囲法」。

これは、実定法、成文法として立法化されているものです。

この起源は、要塞(城塞都市)が敵に包囲(合囲)されている状態での要塞司令官が全権を掌握する為の立法のようです。

日本の成文法たる「戒厳()」もこれに当たります。

実際、日本の戒厳令も、「臨戦地境戒厳」と「合囲地境戒厳」の2つの種別があり、後者は「合囲」を想定している。ちなみに、合囲地境の方が臨戦地境より重大度が高い(合囲>臨戦)。

実は、日本では、臨戦地境戒厳の実例は僅かに日清・日露戦争にとどまり、合囲地境戒厳に至っては一度も実施を見ませんでした(沖縄戦でも使っていません)。

さて、本題に戻りましょう。

他方は、英米法における「非常法」、マーシャルロー、軍法。

これは不文法であり、実際には成文法が存在しないもので、日本人の感覚だと、なかなかピンと来ないかもしれません。

国家が自己の存続の為に止むを得ず発動する必要から導き出されるものであり、書かれざる法、自然に刻まれた法、自然法的な不文法です。

この2つの潮流、その効果(軍隊による秩序の維持・回復)を同じとすれど、その異同は何か?

それは、まさに大陸国家(独仏)と海洋国家(英米)での政治文化の違いです。

一般的に、大陸国家は国家こそが最優先の傾向が強く、「国家」が「社会」の上位概念として、「社会」そのものも包み込んでしまいます。そこでの民主政治も「政治への自由」として表出されやすい(ジャコバン型国家)。

対して、海洋国家、英米の国家観は、「社会」と「国家」は直ちに上下関係ではないし、時に並列・対抗関係ですらあります。そこでの政治観・政治意識も、社会(諸個人)への国家(政府、政治権力)の干渉を嫌う「政治からの自由」として表出されやすい(トクヴィル型国家)。

これをひと言で表現すると

「簡単にいえば、英米法における個人価値尊重の傾向と、大陸法にける国家重視の志向とのコントラスト」

小林直樹『国家緊急権』学陽書房、1979年、60頁。

さてさて

以上のように「戒厳」に関して概観してきた訳ですが、もう一度、その全体のロジックを確認すると以下のような結論じみたものになります。

東西いろいろな場所で語られたこれらのさまざまな理論上・実際上の主張のなかには、ニュアンスの差はあっても、つねに一貫したロジックが流れている。すなわち、国家の存立または全憲法体制の保持のためには、形式上は憲法律に違反する非常手段も、緊急やむをえないかぎり正当(・・)だという思想がそれである。(中略)かような論理は通常の法理を超えて、政治の領域おいて成立するといわねばならない。

小林直樹『国家緊急権』学陽書房、1979年、52頁。

そして、ここからが本題ですが、「このタイプのF16を自衛隊は装備していない」じゃなくて、

法学的議論を超えて、政治学的な領域になります。

これはいわゆる「正当性」(正統性)と「合法性」の問題とも言えます。

秩序の維持を至上命題とする政治権力は、必要ならば、その合法性の問題を乗り越えてしまう、というアレです。

法秩序の枠組からはみ出る「政治」的な力としての側面だけとれば、それは「非法」の世界の「事実」の問題でしかないように見える。したがって、超法規的な狭義の国家緊急権について、これを実定法学の範囲外の問題として、考慮の外におく者が少なくないのも、決して不思議ではない。

小林直樹『国家緊急権』学陽書房、1979年、22頁。

この言を受けて、我々は、「非法」の世界、「政治」の場に議論が移りましょう。

「政治的なるもの」と例外状態

では、「法」とは異なる「政治」の世界を考えるために、前提として、やや迂遠な議論にお付き合いください。

まず、この「政治」概念を押さえることから始めましょう。

しかし、注意が必要なのが、「政治」と言った時、現代の用法では、やや注意が必要で、あえて、「政治的なるもの」という概念を併せて用いていきます。

なぜ、「政治」だけではなく、「政治的なるもの」という言葉もあえて添えたのか?

およそ政治を語るにあたって、対象を社会の中の特定領域としての「政治」に限定しないために要請されるのが、「政治的なるもの」なのである。「政治」という概念から滑り落ちる、何か本質的なものがある。そのような想いこそが、「政治的なるもの」という概念に託されているのである。

宇野重規『政治哲学へ』東京大学出版会、2004年、61頁。

この前後の学問史的な事情とは、こうです。

近代以降、学問が専門分化された結果、学問体系は、現代(・・)()おいて(・・・)()大きな区分として

「自然科学」「人文科学(人文学)」「社会科学」の3つに分かれるようになりました。

その社会科学は、更に下位領域として、法律学、経済学、社会学、政治学で構成されます。

この時の「政治学」というのは、それまでの、従来の「政治学」とニュアンスを微妙に違えます。

この時に、「政治学」に割り当てられた使命・期待は、「政府に関わること」の探求であり、一種の限定のような囲い込みがおこなわれました。

ところが、これはあくまで「現代において」であって、本来、最古の学問とされる「政治学」にとっては、自明でも常識でもありません。

「諸学の王」であるそもそもの「政治学」とは何か。

アリストテレスは、政治学を「棟梁的(マスター・)学問(サイエンス)」とまでいいました。

棟梁は、各大工を指揮し、全体を計画し、導きます。

各大工が好き勝手にやっても、家は建ちません。

端的に言ってしまえば、以下の丸山眞男の言が正鵠を射ています。

宗教・学問・芸術・経済などにならぶ政治固有の領域はなく、却ってそれ等一切が政治の手段として動員されるということに注目しなければなりません。

こうして政治はその目的達成のために、否応なく人間性の全面にタッチし人間の凡ゆる営みを利用しようとする内在的傾向を持つのです。

丸山眞男『政治の世界 他十篇』岩波文庫、2014年、91頁。

社会科学における「政治学」が想定している「政治」のように、本来(・・)()「政治」は、おとなしくその箱の中に納まっているような、品行方正な娘ではない。

むしろ、復讐あるいは神罰の女神ネメシスです。

ネメシスの如き「政治的なるもの」。

それと「戒厳」にどのような関係があるのでしょうか。

奇蹟の価値は

またまた話は変わります。

ドイツの公法学者・思想家カール・シュミットは著書『政治神学』で、「現代国家理論の重要概念は、すべて世俗化された神学概念である」※1述べています。

つまり、近代政治学における様々な概念は、既に、近代以前から存在したキリスト教神学からの「輸入」である。と。

例えば「主権」という概念は。神学における全知全能なる「神」と対照しています(あるいは教皇至上権)。

他にも類似(対照)を挙げて行けば、「教皇権」と「公会議」の綱引きは、絶対王権と議会の綱引きに、「三権分立」は「三位一体論」を想起させますよね。

シュミット自身は、特に、「理神論」と「(市民的)法治国家」を対照させています。

これは、理神論が、最初の神の創造以後は、神が世界に介入してこない(自然法則が支配する)という理論であるのと同じように、法治国家も憲法秩序によって法的に平穏に統治されている(平常状態)からです。

この法治国家というのは、ワイマール体制、ひいては英米系の国家観(近代自由主義)を念頭にしているのは明らかです。

さて、ここで、神学における「奇蹟」という概念が問題になります。

「奇蹟」は、神が、自然法則を中断(無視・変更)し、現世に介入することです。

(海は割れ、水が葡萄酒になり、2匹の魚で5千人の空腹を満たし、キリスト像が血を流し、死者は蘇りetc.)

この「奇蹟」に対照する概念が近現代にも存在するのか。

シュミットは、「ある」と言います。

それは、「例外状況(例外状態)」である、と。

「例外状態」とは、当該の政治秩序・国家(政治的共同体)が存亡の危機に陥るような緊急事態を想定しています。

そこに至って、その「例外状態」を認知し、宣言し、秩序の回復を図ること(「決断」すること)、現代国家で言えば国家緊急権の発動。

これが「奇蹟」であると。

「自然法則」を中断し、直接介入(を決断)する存在が「神」であるならば、「主権者」はまさに神であり、逆に言えば、例外状態においてはじめて、人は「主権者」を発見できるとも言えます。

ここで何度も「決断」という語を入れていることに注意してください。

「例外状態」を決断することこそ「主権者」なのです。

(故に、シュミットの政治理論は「決断主義」とも称される)

憲法に書かれた「主権者」ではなく、真に力を持った神の如き、真の「主権者」を。

このロジックは、当然、英米系の市民的法治国家批判につながります。

英米系の政治観は、国家・政治を「調整」と捉えがちです。

法秩序がある平常状態であるなら、それで十分でしょう。

例えば、米国の政治学者デビッド・イーストンは「政治とは社会的諸価値の権威的配分」と定義しています。

まさに調整です。

しかし、シュミットは、そのような国家権力・憲法秩序以前の、もっと根源的な、メタ的な政治、「政治的なるもの」を問題にしています。

それは例外状況でしか姿を現さない。

これらの議論を踏まえて、パトレイバー2という作品を、今一度、眺めてみましょう。

例外状態の東京

「戦後」という時代は、「昭和元禄」などの言葉に代表されるように、長い長い「平常状態」(平時)でした。

そして、その時代は、米国の庇護のもと、市民的法治国家として日本の政治は国内政治の「調整」が重要な責務であり、まことに「社会科学」が規定する「政治(学)」の範囲を忠実に守る品行方正な娘です。

パトレイバー2における柘植の目的が、東京で「戦争という時間そのものを演出」することだったとして、それは、つまり、「戦後」という平常状態を、例外状態に移行することを意味します。

例外状態になった時に、そこではじめて主権者が姿を現すならば、その主権者を炙り出す行為こそが柘植の目的であったと言っても過言ではないでしょう。

横浜ベイブリッジを破壊した轟音も、都内を蹂躙するヘルハウンドの爆音も、ネメシスを眠りから覚ますための鐘の音のようです。

政府は、陸上自衛隊の都内への出動を「決定」しました。

しかしそれは、「上の連中にそんな覚悟はないさ」という荒川の言葉の通り、柘植の演出する「状況」に流されただけのなし崩し的な「決定」です。

「決断」とは、ほど遠い

明確な「敵」を定めずに、その場しのぎの実践部隊による「戒厳」状態。

このなし崩し的な「政治」は、本作冒頭のPKO派遣部隊の全滅とオーバーラップします。

「まさか」の実戦を想定せず、まともな交戦( R O)規定(E)(部隊行動基準)を与えずに、なし崩し的に「国際貢献」の美名のもとに派兵された柘植らレイバー部隊。そこに為政者の「覚悟」はありません。

覚悟というのは言い換えれば、「決断の覚悟」です。

反政府軍への発砲(反撃)という決断、横浜ベイブリッジ爆撃の真相を公表する「決断」、

この作品は、為政者が、国家としての「決断」をことごとく回避する物語でもあります。

この「決断の回避」は日本のお家芸でもあります。

第二次大戦を見てみれば…

ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に対する明白な意識を持っているに違いない。しかるに我が国の場合はこれだけの大戦争を起こしたという意識がこれまでのところ、どこにも見当たらないのである。

丸山眞男『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1991年、24頁。

しかし、物語終盤に、その政治的決断を行う存在が姿を顕します。

そしてそれは、残念ながら日本政府ではない。

アメリカです。

明確に、断固として、軍事介入を決断し、堂々と通告してきます。

「1時間程前に大使館経由で通告があった。明朝7時以降、状況が打開の方向に向かわなければ、米軍が直接介入する。現在、第7艦隊は全力で西進中。各地の在日米軍基地も出動準備に入った。」

ここに、「戦後日本」において、誰が、「主権者」であったかが明瞭に示されるのです。

日本における例外状態で、それを「決断」するのは、米国であり、それが、この国の真実である、と。

ネメシスは覚醒しました。

シュミットは「戒厳」がそのままイコール、「例外状態」とは考えていません。

シュミットは、「独裁」概念を2つに峻別しました。

憲法に基づく国家の基本構成、司法・立法・ 行政の分立を前提として、軍隊の司令官や行政官に一時的・限定的に全権を預ける「戒厳状態」と、 対外的な危機などの場合に文字どおり現れる主権の行使とをシュミットは区別しています。これが彼の言う「委任独裁」と「主権独裁」との区別です。

牧野雅彦『危機の政治学』講談社、2018年、10頁。

自衛隊が、行政・司法権を掌握するような戒厳状態を敷いたとしても、それは例外状態ではない(パトレイバー2の自衛隊出動はこのレベルですらありませんが)。

そこには、憲法秩序が明らかに存在し、自衛隊は政府から合法的に授権されています。

しかし、米軍による「再占領」という事態は、実質的には、日本の憲法秩序を凌駕してしまう「主権独裁」の状況、即ち「例外状態」の成立を意味してしまいます。

そこでの主権者たる米国は、さながら「神」の如く振舞うでしょう。

あらゆるものを動員し、使役します。

その時、日本人は、「政治的なるもの」を眼前に、「発見」し、目撃するのです。

だからこそ、戦後憲法秩序の終わりを確信し、荒川は、ほくそ笑むのです。

「この国は、もう一度戦後からやり直すことになるのさ」

【了】

※1. カール・シュミット『政治神学』未来社、2005年、49頁。

【参考文献】

カール・シュミット『政治神学』未来社、2005年。

大江志乃夫『戒厳令』岩波書店、1978年。

陰山宏『カール・シュミット』中央公論新社、2020年。

北博昭『戒厳~その歴史とシステム』朝日新聞出版社、2010年。

北博昭『戒厳~その歴史とシステム』吉川弘文館、2025年。

小林直樹『国家緊急権』学陽書房、1979年。

田中浩『カール・シュミット 魔性の政治学』未来社、1992年。

牧野雅彦『危機の政治学』講談社、2018年。