映画「教誨師」~救いのない「死刑」の断片~

「諸君、死を逃れることは困難ではない、むしろ悪を脱れることこそ遥かに困難なのである。」

プラトン『ソクラテスの弁明』岩波書店、1996年、54頁 。

大杉漣主演の2018年の映画です。

大杉がプロテスタントの教誨師として、死刑囚たちと向き合っていく姿が描かれています。

急逝した大杉の最後の主演作です。

1人と6人の密室劇

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コロムビアミュージックエンタテインメント

拘置所の一室を舞台に、代わる代わる6人の死刑囚たちが現れ、大杉演じる教誨師佐伯と言葉を交わしていきます。

鑑賞前に、本作を“心の交流”といった、いわゆるヒューマンドラマ的なイメージで捉えていると、手痛いしっぺ返しを喰らいそうな作品です。

死刑囚たちは、一癖も二癖もある、凶悪犯です。

“堀の中の懲りない面々”とは言いますが、簡単に「反省」であるとか「贖罪」が語れるような「罪」の次元を犯した人々ではないのです。

実在の凶悪犯罪を意識した様々な罪状が、それぞれの死刑囚たちに設定されています(仄めかされます)。

また、「密室」と「死刑」ということで、映画「12人の怒れる男」を連想する方もいるかもしれません。しかし、本作は実際に殺人を起こした者ばかりです。

※以下ネタバレあり

その人の「世界」の広さ

おそらく、本作で一番感情移入し易いのは、息子の同級生一家を殺害してしまった布団店の店主小川でしょう。

生活が苦しい中、息子に少年野球を続けさせる。しかし、同じチームの同級生の父親に建て替えたお金を返してもらえず、更に、「こんな父親だから子供も」と侮辱され、我を失い、その家族を皆殺しにしてしまう。

その経緯を裁判で語らなかった故に、情状酌量は無く、死刑判決を受けます。

佐伯は、今からでも再審請求を、と諭しますが、本人は罰を受け入れてしまっている・・・。

確かに、酷い相手ですが、一家殺害するのは、どう考えても許されるものではありません。

この話で言えることは、人が持つ「世界」の「大きさ」でしょうか。

小学校や地域社会、野球チームのような小さなコミュニティ・世界で、視野が完結してしまっては、自分を追い詰め、客観的には“ごく些細な”事で、とんでもない判断や行動、感情に走ってしまうことがあります。

では、「世界」の広さを捉えるにはどうすればいいのか?

おそらくそれは、生活から離れた、物語(読書)体験や教養(学問)や、全く違うコミュニティにも参加したりと、自らの個性を形成する要素を、できるだけ多くすることではないのかな?と思った次第です。

ストーカー殺人犯の“赦し”

6人の中で、かなり強烈な存在なのが鈴木です。

彼は、中盤、「赦し」を与えます。被害者に。

話の内容から、一方的に行為を寄せた若い女性をストーカーの上、殺害(おそらくその家族も)しています。

その彼は、終盤、殺害した彼女を赦し、殺害した彼女の家族も赦します(!)。

そして、死後、彼女と結婚すると言い、被害者たちを赦せるようになったことを、佐伯のお陰だと満面の笑みで感謝します。

佐伯は絶句します。

「人間」の定義

高宮との対話がある意味で本作における重要な意味を持ってきます。

彼は、障害者を多数殺傷し、死刑判決を受けています。この作品の公開は、2018年です。

そう、明らかに2016年7月に発生した、戦後最悪と言われた大量殺人事件「相模原障害者施設殺傷事件」の犯人がモデルになっています。

彼に対して、佐伯は押され放しになります。

高宮は確信犯であり、自分の行為の正当性を主張し、理詰めで佐伯に迫ります。

なぜ動物は食べて(殺して)いいのか?の問いに、「それは知能が・・・」と答える佐伯に、高宮は薄ら笑いを浮かべ、佐伯も直後その意味を理解し絶句します。

高宮は、その「知能」を基準に凶行に及んだのですから。

「死刑」は国家の“ウルティマ・ラティオ”

また、これから殺される自分に「改心」を求める佐伯に、その無意味さや自己満足(佐伯自身と社会の)を突きます。

ただ、これは、“社会の自己満足”、というよりは、“国家の必然”として死刑を課しているのでないか。

国家が、刑罰権、特に死刑を行使するのは、社会防衛というより、国家(政治権力)の本質に関わってくる気がします。

「一瞬の死が百年の生を脅かし得る秘密を知って以来、数千年に渡って、嘗て一度たりとも、政治がその掌のなかから死を手離したことはない」

埴谷雄高『幻視の中の政治』未来社、1971年、9頁 。

国家(政治権力)が、その特権性・絶対性を持ち得るのは、この「死」を司ること。それの手段として暴力を独占すること。

言ってしまえば、「死刑」という刑罰、国家が「死」を司ることの表象は、国外に対しての交戦権(戦争)であり、国内に対しては「死刑」です。

戦争行為と死刑は根を同じくするものなのです。

「政治が死刑と戦争のあいだを往復する振り子であって、ついにそれ以外たり得ないことをひそかに感知していて、そして、またひそかに、その振り子を動かす根源的な動力となっている。」

埴谷雄高『埴谷雄高政治評論集』講談社、2004年、38頁。

もはやそこでは死刑囚は「内敵」であり、国家秩序を守るために処刑されます。他の刑罰が矯正主義の要素を程度の差こそあれ残すのに対し、死刑には矯正主義は顔を出しません。

また、刑罰応報主義とも実は異なる。

なぜなら、殺人に対しての応報(同害報復)以上に、国家にとっては、国家それ自体の存立を脅かす存在であるから排除する。道徳・倫理的次元を超えています。

構成員(国民)あっての国家であり、その国民の殺害は、政治社会そのものの存立を危うくするから、もはや彼(彼女)は、敵国軍と同じ意味での敵、内敵なのです。

死刑もまた、国家にとって本質的なウルティマ・ラティオ(最後の手段)なのです。

ここで、「では、死刑廃止国は?」と、当然の疑問が出て来るかと思います。

しかし、それは、司法・実定法の問題であって、国家の可能な行為としては、「死」を与えることは出来うる(武力の行使を放棄していない限り)。

故に、国家(政治権力)というものが地上に存続する限り、「死刑」は本質的には廃止されない。

なぜ「死」を恐れるのか?

このような「死刑」が国家にとってのウルティマ・ラティオたりえるのは、「死」が内敵の排除の手段であることと同時に、「死」の恐怖に、人は常に苛まれる故にです。

ですがそれはある種の誤解に基づいています。

プラトンの『ソクラテスの弁明では』で、ソクラテスはこう言います。

「死を恐れるということは、いいですか、諸君、知恵がないのに、あると思っていることにほかならないのです。なぜなら、死を知っている者は、だれもいないからです。」

『プラトン全集1』岩波書店、1975年、82頁

これは一体、何を言っているのでしょうか?

我々は、生きている者は誰ひとり、「死」を知らない(経験していない)。

だが、それが、さも最悪の、恐怖と思い込んでいる。逆かもしれない。

もし、この誤解に人類が気づいたとき、「死刑」は本当に地上から消え失せてしまう気がします。

「絶句」を描く映画

この作品は、主人公の「絶句」がテーマではないか、と思います。

それほどに、「絶句」するシーンが多い。

死刑囚の問いや答えに、佐伯は絶句するしかない。高宮に対して、「言葉」では説得できていない。

最後に、高宮が佐伯に「抱擁」を求める場面も、「死」への「恐怖」を克服できなかった高宮自身の問題に過ぎない。

逆に言えば、「死」や、殺人という「罪と罰」は、言語の埒外、言語を超えたところに「答え」があるのではないか。

宗教が「死刑」に向き合う本作ですが、最後に哲学が「死刑」に向き合う本を2冊ほど挙げておきます。