何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。
丸山真男『超国家主義の論理と心理 他八篇』岩波書店、2015年、30-31頁。
新型コロナウイルスのパンデミックという事態に世界が見舞われている中、日本では「東京オリンピック・パラリンピック」が開催されます。
2020年にコロナ禍の為に1年延期されたものが2021年に開催されるわけですが、コロナ禍は終息している状況とは言えず、開催の賛否が問われています。
そんな中、今回の公衆衛生上の「危機」における日本政府の対応が、まるで戦前・戦中を想起させるものだ、という声も上がっています。
果たして、大日本帝国と日本国は、1940年代と2020年代の「危機」において、アナロジーが成立するのでしょうか。
戦前日本の「国体」を分析したものと言えば、政治学者・丸山真男(1914~1996年)の論文「超国家主義の論理と心理」でしょう。戦後すぐの1946年に発表され、センセーショナルを巻き起こした丸山の記念碑的論文です。
今回は、この「オリンピック狂騒曲」の最中にあえて、この「古典的」論文を読んで、コロナ禍の日本を考えてみましょう。
ちなみに、オリンピック開催の是非や、国際関係や利権構造といった事は、今回は触れません。
「カエサルのものは・・・」
まず、論文「超国家主義の論理と心理」の内容を概観しましょう。
丸山は、同じ敗戦国であったナチス・ドイツと日本、二つのファシズム体制を比較しながら論を進めます。
まず押さえておきたいことは、「公」と「私」の問題です。
欧州の近代国家においては、国家と宗教(教会)の間に激しい対立、鍔迫り合いがあり、それが、行為の外面性と内面性の分離に結実しました(権力と権威の二分化)。
いわば「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」(マルコ伝)。
法(権力)は、外面的行為に関わることに限定され(中立の立場をとり)、道徳(良心や信仰)には立ち入らないという、おおよその不文律です。
ところが、日本においては、「公」(国家)と拮抗(対抗)する形での「私」(個人)は形成されなかったのです。
学問も芸術も、その独立性がなく、究極的には国家の内に内包されます。
この内包されるということは、何を意味するかというと、全ての優劣が、究極の価値実体である天皇との「距離」によって決まるという状況を生みます。
西欧においては、私的領域の形成によって、自由な主体としての「個人」が生まれます。
対して、日本には、全てが、国家に内包され、天皇との「距離」に依存してしまうので、その意味で、自由な主体としての「個人」の意識は生まれなかったのです。
これが、何をもたらすかというと、第一に「決断」の不在です。
上から下までの全ての人が国家・天皇に依存してしまっている以上、個人として「決断」するという意志は希薄となり、時々の状況に流されます。
「決断」の意志が無い以上、その裏返しである「責任」も希薄となります。
いわゆる「無責任の体系」と称される状態です(丸山『日本の思想』)。
戦後の国際軍事法廷における日本とナチス双方の対比は鮮烈です。
一個の人間にかえった時の彼らはなんと弱々しく哀れな存在であることよ。だから戦犯裁判に於て、土屋は青ざめ、古島は泣き、ゲーリングは哄笑する。後者のような傲然たるふてぶてしさを示すものが名だたる巣鴨の戦犯容疑者に幾人あるだろうか。
『超国家主義の論理と心理 他八篇』25頁。
(土屋、古島は共に捕虜虐待で訴追された軍人です。ゲーリングは言うまでもなくドイツ国家元帥)※1
一たび、国家の外に放り出された時、一方は何と弱弱しく、他方は、なお「個人」といて力強い。
第二に政治と倫理の同一化です。
国家が全てを内包するという事は、
国家主権が精神的権威と政治的権力を一元的に占有する結果は、国家活動はその内容的正当性の規準を自らのうちに(国体として)持っており、従って国家の対内及び対外活動はなんら国家を超えた一つの道徳的規準に服しないということになる。
『超国家主義の論理と心理 他八篇』20頁。
国家(政治権力)に対して、その外から対抗し、異議申し立てをし、諫め、歯止めになる宗教(教会)や学問(アカデミズム)、あるいは個人の権利・運動というものは、全く存在の余地がありません。
大義と国家活動はつねに同時に存在なのである。大義を実現するために行動するわけだが、それと共に行動することが即正義とされるのである。(中略)それ自体「真善美の極致」たる日本帝国は、本質的に悪を為し能わざるが故に、いかなる暴虐な振舞いも、いかなる背信的行動も許容されるのである!
『超国家主義の論理と心理 他八篇』21頁。
いわば、日本中華思想な訳ですが、これだと、国際法の存立の余地もなくなります(日本と他国は倫理的に平等ではない故)。
また、軍隊内のいじめから、捕虜虐待まで、そこには倫理的葛藤は生れず、むしろ「倫理的に加害する」という奇妙な状態が生じます。
以上、「超国家主義の論理と心理」を簡単に見てみましたが、この「特殊日本的」な政治文化が、はたして、70年以上を経た現在にも、未だに根を下ろしているのでしょうか。
なぜ中止できないのか?
コロナ禍という歴史的なパンデミックにあって、なぜオリンピックだけが中止できないのか?と多くの人が疑問に思っているようです。
「決断」という観点から見てみましょう。
丸山は太平洋戦争において、その開戦の「決断」の明白な意識があったかどうかを疑問視します。
ナチスの指導者は今次の戦争について、その起因はともあれ、開戦への決断に関する明白な意思を持っているに違いない。然るに我が国の場合はこれだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。
『超国家主義の論理と心理 他八篇』30頁。
この原因を、丸山は、日本の寡頭勢力(指導層)が、天皇との距離に規定される「被規定的」な人間の寄り合い所帯でしかない故だと考えています。
他方、ドイツは、主権者の意志こそ法であり、その法とは「決断」です。決断するには自由な主体としての「個人」の自覚が必要です。
この「個人」が天皇という究極的実体に依存している以上は生れようがない。
ドイツに独裁者は生まれましたが、日本には生れようがない。
現代に翻って、オリンピック中止という「決断」は、その決断の及ぼす影響を考えても、その決断当事者に、大きな「責任」を伴わざるを得ないものです。
「個人」のいない日本にとっては、開催という決定事項、スケジュールに対して黙々と従っている方が、極めて自然な姿です。
丸山は『日本の思想』の中で、明治絶対主義に対しての「多頭一身の怪物」(中江兆民)という評を引きながら、
決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎ象徴される!)を好む行動様式が冥々に作用している。(中略)このメカニズムにおいては巨大な無責任への転落の可能性をつねに内包している。
丸山真男『日本の思想』岩波書店、1984年、38-39頁。
と述べていますが、一連のオリンピックの開催を巡る政府内の迷走そのままではないでしょうか。
五輪担当大臣という名称とは裏腹に、トップダウンにオリンピック関係を指揮・統制できるわけではなく、「調整」という役割を担っている訳で、多頭の頭のひとつに過ぎない。
ところで、昨今の日本のリベラル層の政治批判に違和感を持つのは、「独裁」観念が極めて誕生し難い日本において、政権批判(特に首相個人に対してのそれ)に「独裁者」を用いることにあります。
(もちろん「独裁者」がいなくても暴政は生れることは言うまでもありませんが。)
むしろ実態は、それこそ「多頭一身の怪物」たる日本政府及びその周辺の圧力団体・利益集団が、オリンピック開催へのレールを目を瞑って走っている光景です。多頭故に、その意志の統一は困難であり、セクショナリズムや各派の思惑も重なって、「決断」できない。
まるでチェーザレ・ボルジアのように
そんな政治家らが、お決まりの「安心・安全」のスローガンを繰り返すシーンに違和感をもっている人も多いでしょうが、なぜ、日本の政治家は、こうも「小心翼々」としているのか。
ちょうど、IOC幹部らの幾つかの言動が日本の世論を驚かせましたが(「ハルマゲドンでも起きなければ中止しない」「誰もが犠牲を払う必要」etc.)、その傲岸不遜、不敵な態度が、日本政府側の煮え切らなさと対比させると、見事なコントラストを見せます。
いまや、オリンピックの場が、純粋なスポーツの祭典だとは、誰も思っていないでしょう。それこそ、国際政治の道具であり、経済的利権の巣窟なのでしょうが、IOCメンバーの一種の不遜は、一体どこからくるのでしょうか。
政治的権力がその基礎を究極の倫理的実体に仰いでいる限り、政治の持つ悪魔的性格は、それとして率直にされえないのである。(中略)政治は本質的に非道徳的なブルータルなものだという考えがドイツ人の中に潜んでいることをトーマス・マンは指摘しているが、こういうつきつめた認識は日本人には出来ない。ここには真理と正義にあくまで忠実な理想主義的政治家が乏しいと同時に、チェザーレ・ボルジャの不敵さもまた見られない。
『超国家主義の論理と心理 他八篇』23-24頁。
IOCがあくまで開催に拘る一種の「執着」「執念」(その表明・態度・行動における不敵、傲岸不遜)は、まさにチェーザレ・ボルジアのそれでしょう。
利益の獲得の為には、強い意志と決断の出来る経済的マキャベリアンの姿です。
それに比して日本政府は「決断」の必要のない「大会開催」に向けて、黙々と走り続けるだけです。その「個人」の意志のないような姿に、人々は小心翼翼な姿を見るのでしょう。
これには、「今さらやめられない」という意識も働いているでしょう。
オリンピック開催に伴う莫大な投資、巨大スタジアムを筆頭とする建築物。
中止の「決断」によって、それらの「投資」を全て無に帰すことは忍びない。
いわゆる、コンコルド効果やサンクコスト効果と呼ばれる、「埋没費用」の問題と言えます。中止・撤退してしまえば、もはや戻ってこない投資、労力のことです。
これと似た現象を、丸山の著書に見ることが出来ます。
論文「軍国支配者の精神形態」の中で、開戦、あるいは戦争継続の理由を、上の者が下の者が「おさまらない」「納得しないから」というものです。これが「国民が納得しないから」にまで行き着くと、更には、戦死者(英霊)が「おさまらない」という極みに達します。
国民がおさまらないという論理はさらに飛躍して「英霊」がおさまらなぬというところまで来てしまった。過去への繋縛はここに至って極まったわけである。
『超国家主義の論理と心理 他八篇』180頁。
埋没費用覚悟の政治的決断は、それこそ主体的な個人による「決断」が必要なものです。
そのような政治的「個人」は現代日本にいるのかどうか。
【続く】
★後編はこちら
⇒丸山真男と東京オリンピック~今だからこそ論文「超国家主義の論理と心理」を読んでみる【後編】(「令和」天皇制国家の支配)