勝谷誠彦『ディアスポラ』~「日本沈没」のその後で(ポスト3.11)

Jewish–Roman War

よその国に滅ぼされたのならば、よほど別の感情を持ちえて、いっそ救われたであろう。

しかし、私たち日本人が憎むとすれば日本人しかないのである。

勝谷誠彦『ディアスポラ』文藝春秋、2011年、20頁。

いまは亡き、あの(・・)コラムニストの勝谷誠彦(1960-2018年)の小説です。

ディアスポラ(民族離散)』というタイトルから、内容は容易に推測できるでしょう。

テレビなどでのイメージからは想像できないような、繊細な文体が特徴の隠れた傑作となっています。

※ネタバレあり

「反原発小説」?

全体の状況は、登場人物たちの断片的な回想や会話から推し量れます。

茨城県東海村で起こった、ひとつの「事故」によって、日本列島全域が放射能に汚染される。この破局的な災害で、居住不能な地域となり、国外脱出を余儀なくされる日本人。

物語は、2章から構成され、そんな「亡国」日本の内と外で展開します。

この作品何よりも注意すべきなのが、発表年です。

おそらく予備知識のない状態で読んだならば、多くの人が、これが3.11、「フクシマ」を踏まえた上での作品と考えるでしょう。

しかし、違うのです。

いわゆる、これは「ストーカー現象」なのです。

「ストーカー現象」は、ググっても出てきません(笑)私の造語なので。

ここでの「ストーカー」は付き纏いとかの犯罪のほうではなく、ソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーのSF映画「ストーカー」からです。

この映画は、ある視点で見れば、チェルノブイリ原発事故の暗喩にしか見えないのですが、ところがどっこい、「ストーカー」は1979年の作品。そしてチェルノブイリは1986年・・・。

一部では「予言的」とさえ言われています。

この逆転現象を勝手に「ストーカー現象」と名付けたわけですが、『ディアスポラ』もこの範疇に入るのです。

  • 『ディアスポラ』初出:2001年
  • 福島第一原発事故発災:2011年

決して、フクシマを意識して書かれたものではないのです。

勿論、1999年の東海村JOC臨界事故を受けての執筆なのは、本文を読めば明らかなのですが、それを、日本を亡国の瀬戸際に追い込んだ「フクシマ」への序曲として描き出したことが何よりも驚かされます。

「日本沈没」続篇

「日本列島全域が居住不能」というシチュエーションは、すぐに、小松左京の傑作SF『日本沈没』を想起させます。

あえて言えば、『ディアスポラ』こそ『日本沈没』の続編、幻の「第二部」です。

小松左京は、『日本沈没 第二部』を構想しながら遂に書き上げませんでした。

(但し、正統な系譜としては、谷甲州が小松左京と共著の形で2006年に『日本沈没 第二部』が発表されています)

前編「ディアスポラ」

彼らが地球上のどこかで必ず健在と信じている日本国政府にかかわりある者として、私はなにごとかを語らねばなるまい。

『ディアスポラ』8頁。

『ディアスポラ』は二部構成で、前半部は国外脱出した日本人難民の物語。

中国のチベット自治区の日本人難民キャンプ。そこを定期視察に訪れる国連難民高等弁務官事務所の「難民状況巡回視察官(文化保存)」の男の視点で語られます。

そこでは、まるで砂漠の蜃気楼のような残酷な希望に縋るしかない人々が描かれます。

そして、その生活の地が、あの(・・)チベット自治区であることが、事態を一層、難しくしていきます。

果たして、国土(土地)と切り離されて、何時(なんどき)まで「日本人」というアイデンティティを維持できるのか。

作中に登場する視察官の男の上司であるイスラエル人の国連の官吏は、チベットの乾いた大地の様な、乾いた歴史の現実を語ってきます。

北宋の時代に渡ってきたユダヤ人の大集団さえ、今はいない。と。

「溶けちまったのさ。水に落とした塩みたいにね」

『ディアスポラ』79頁。

では、世界中にディアスポラ(離散)した日本人は・・・。

付け加えれば、難民生活の描写もさることながら、「チベット」という土地の描写は、旅行記のように、見事です。

後編「水のゆくえ」

「墓も順番に守ってきたのに。誰も、いなくなったらどうするんじゃい。わしはな、この国ぜんぶの墓守をするんじゃ」

『ディアスポラ』206頁。

去った者あれば、残った者あり。日本人すべてが脱出するなど到底不可能である以上、残された人々はいるのです。

「日本沈没」では、海に没する故に、死はすぐ訪れますが、本作では、死はゆっくりと、しかし着実に訪れます。

かつてダム建設で揺れた本州内陸部のある村で、酒蔵の跡継ぎである若き蔵元の視点で物語は進みます。

老いた杜氏は、全力で「最後」の酒作りに執念を見せます。

他方、蔵元の青年は、自身の人間関係を省みて、その清算をしようとします。

村の人々が、「死期」を悟りながらも、生きていく姿を綴っていく。

「日本沈没」では、首相にあてられた意見書に「このまま何もしない方がいい」というものがありました、日本脱出に四苦八苦するより、このまま沈みゆく列島と運命を共にした方が、日本人には「幸せ」である、と。

この章の人々は、ちょうど、この「何もしない」を選択した人々です。

国外脱出もせずに、この「地」で人生の結着をつけようと。

それにしても、この酒作りの描写の細やかなこと。

どの選択肢を選ぶのか、選べるのか?

日本に残るか、捨てるか。

非常に困難な問いですし、そもそも本書の「破局」で、それを選べるのか。否。ほとんど、運命として受け入れざるを得ない。

しかし、それでも人は生きなければならないという事が痛切に描かれています。

そして、その破局点は、今も日本列島に蠢動しています。