一九二七年から二八年にかけての冬、連邦政府の役人たちはマサチューセッツ州の古い港町インスマスの状況について、奇妙な秘密調査を行った。
ラヴクラフト『インスマスの影』新潮社、2019年、390頁
冒頭、こんな一文で始まるのが、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの小説『インスマスの影』です。ラヴクラフロといえば、いわゆる「クトゥルフ神話」の創始者ですが、本作は、彼の作品の中でも一、二を争う傑作です。
※以下、ややネタバレ
クローズドサークルとしての田舎町
米国東海岸を旅する一人の青年が、ちょっとした興味から立ち寄ったインスマスという寂れた港町で体験する一昼夜の恐怖を描いたのが本作です。
冒頭の一文から始まる青年の回想録の体裁を採っています。
本作の「恐怖」の由来は、インスマスが交通手段の断たれた一種のクローズドサークルである点にありあます。
都市の恐怖が匿名性にあるとすれば、田舎の恐怖は濃密的な閉鎖性にある訳です。
それは、その共同体の他者にとっては圧倒的な「恐怖」であり、身の危険になります。
日本で言えば、横溝正史の描く村落共同体ですね。
インスマスは、そんな田舎の恐怖を極限にまで煮詰めたものです。何と言っても、相手は「異形」なのだから。
「脱出行」の典型と結末
青年は、インスマスから決死の脱出を図る訳ですが、後世、多くの作品が影響を受ける原型があります。
閉ざされた地域、追われる青年、追う異形の群・・・。
現代のSF映画でよく見るシチュエーションです。
本作の場合、そこにラヴクラフト流の「重い」言い回しが、恐怖感を高めていきます。
本作では、脱出に成功した青年を待ち受ける「運命」も注目するところです。現代で言うと、M・ナイト・シャマラン的な結末が用意されています。
国家の介入
過ぎ去った恐怖を思い出すのは、私の請願と証言から始まった作戦に関連して、時折、政府の役人が訪ねて来る時だけだった。
同上書、505頁。
クトゥルフ神話で、国家権力が正面切って、事態を認知し、介入したエピソードは、本作くらいではないでしょうか。
公的な機関などが、関わることになるエピソードはいくつかあります。
警官が目撃したり(『異次元の色彩』)、学会への南極調査中止の警告書(『狂気の山脈にて』)、異常な失踪事件の陳述調書(『ランドルフ・カーターの陳述』)etc.
しかし、正面から、国家権力が「攻撃」したことが間接的に垣間見えるのは本書だけだと思われます。
1927年-1928年といえば、既にFBI(連邦捜査局)は発足していて、行間を読む限り、地元警察や陸海軍を大挙動員して、インスマスを「消毒」したことが窺えます。
近代的な軍隊、科学技術が、どこまで「あれら」に立ち向かえるのか?というのは興味が尽きません。
漫画化
『インスマスの影』をはじめ、クトゥルフ神話の幾つかが、漫画化されています。
あの「おぞましき」世界観がリアルなタッチで描かれており、御一読をお勧めします。