3年B組金八先生スペシャル「贈る言葉」(1982年放送)での自衛隊批判を巡って【後編】~金八先生に贈る「戦後民主主義の特別授業」

【前編】はこちら

「マスケット銃が歩兵を生み、歩兵が民主主義を生んだ」

J・F・C・フラー

では、仮に弥一が反論できたとして(又は北先生が既に赴任していたとして)、どんな議論が行われたならば、戦争のメカニズム、真の「平和」への道を説くこと事が可能なのでしょうか?

金八が弥一に言った台詞を(もじ)れば、

「国を守る。金八さんよ、もう一歩突っ込んで考えてみような。」

といったところでしょうか。

カール・シュミット先生

改めて、国、「国家」とは何でしょうか?

前述したように、国家という言葉は多義的で、日本語の「(くに)(いえ)」という字面から、これだけで、ひとつのイメージを喚起してしましいます。

(天皇制国家、ヘーゲル的な一元論的国家論)

そこで、国家を普遍的な「政治的共同体」という概念に改めて議論しましょう。

ここで、「共同体」に「政治的」が付く意味を考えます。

共同体は、「宗教的共同体」や「文化的共同体」「経済的共同体」などと、●●的と、その性格付けすることが出来ます。

では、「政治的」と付いたときに、その当の「政治的」とは一体何なんでしょうか?

つまり、古今のあらゆる政治的共同体が、「政治的」を冠する固有の意味は?

これ、実は一見明白そうですが、そう一筋縄ではいかない。

実は、この答え「政治的」(政治的なるもの)あるいは「政治」の定義というのは、長い政治学の歴史(2400年位!)においても定まっておらず、喧々諤々の議論が行われてきたのです。

その答えに、論理的ですが無遠慮に、一切飾らずに答えているのが、20世紀のドイツの政治思想家・公法学者のカール・シュミットです。

彼はどう言ったか?

そもそも、あらゆる分野には、それをそれたらしめている、それ固有の究極的な区別があるから、それが成立します。

美的なものであれば、そこには「美」と「醜」の区別があり、道徳には「善」と「悪」が、経済には「利(益)」と「(損)害」が・・・etc.

では「政治的なるもの」をそれたらしめている固有(特殊)の区別とは何か?

シュミットは、「友」と「敵」の区別こそ「政治」の本質であるとする、いわゆる「友敵理論」を唱えます。

あらゆる分野の区別も、それが闘争の色彩を帯びて来れば、やがて「政治的なもの」に転嫁し、友と敵に分かれます。

友と敵に分かれると、そこに初めて、「政治」が立ち現れる。

国家が「政治的」な共同体である以上、根源的・本質的に、この「敵」と相対することからは逃れられません。

シュミットは、ナチスに加担したなどで、問題のある人物ですが、その政治理論は、かなり説得力があるものです。

日本の戦後民主主義の理論的指導者とされ、リベラル・進歩的文化人の代表格とも言える丸山真男でさえ、「尊敬すべき敵」と評している程です。

少なくとも、「3年B組金八先生」の構成(脚本)は戦後民主主義に傾倒しているように見受けられますので、当の丸山がそうまで評価する理論は傾聴に値するでしょう。

シュミットの議論を念頭にすれば、本質的に、国家(政治的共同体)は、その存在自体が、闘争的であることは明白でしょう。

少なくとも、「政治」にそのような負の側面が、抜き難くあることは否定できないでしょう。

こう考えると、非常に残念ながら、「平和国家」のような理想は、そもそも言語的に矛盾しているのです。

なぜなら、政治的共同体が友敵に基づく闘争的なものならば、それに「平和」という冠詞が付くことは、言語矛盾か、はたまた知っていてやっているプロパガンダ以外の何物でもないでしょう。

(だから政治の文脈で「平和」という言を見掛けたら疑ってかかった方が良い)

友・敵区別がたんなる偶発性においてすら消滅するばあいには、そこに存在するのはただ、政治的に無色の世界観・文化・経済・道徳・法・芸術・娯楽等々にすぎず、政治も国家もそこには存在しないのである。

カール・シュミット『政治的なものの概念』未来社。2006年、62頁。

完全に闘争を排除した共同体は、「平和的共同体」とでもいうべき全く別の共同体概念でしょうし、人類はまだそれを見ていない。

さて、国家(政治的共同体)の本質がそうであるならば、平和というものは、如何に達成されるのでしょうか?

この問いは全く未解決ですが、戦争それ自体を避けようという知恵や努力は続けられているし、続けるべきでしょう。

ただ、「自衛隊を否定して、ハイおしまい」というような簡単な話では無いことは、ご理解頂けたでしょうか。

民主主義と軍隊

「そうなんだな、難しい問題じゃないんだな。校長先生、日本は民主主義の国なんですね。いろんな考えを持つことが保障され、思うことを喋っていい国なんだ。ただ単に弥市だけの問題じゃなくて、みんなの問題として大いに話し合ってみる。」

ところで、本作で見落としている視点として、「軍隊と民主主義」という視点があります。

この作品は、前述した通り、大いに戦後民主主義に傾倒しているのは間違いないでしょう。

そして、その特殊日本的な「戦後民主主義」は、太平洋戦争の悲惨さ、日本帝国の軍国主義・全体主義の苛烈さから、反動として、強い反戦・反軍思想に結びついています。

敗戦によって日本はようやく、国家の一元的な支配に対する抵抗の根拠を見出したといえるかもしれません。強い反戦感情とともに、国家への旺盛な批判精神こそが、戦後民主主義の特色となりました。

宇野重規『民主主義とは何か』講談社、2020年、233-234頁。

しかし、これは民主主義の原型とは、極めて異なった政治体制です。

困ったことに、民主主義と軍隊は、実は相性がいい。

民主(デモク)主義(ラシー)の発祥、元祖と言えば、紀元前の古代ギリシアの都市()国家(リ ス)アテナイです。

アテナイでは、市民による直接民主制を実施していました。

(但し、女性、奴隷、外国人には参政権がない)

その市民(アテナイの男性市民)には、兵役の義務がありました。

戦時には、アテナイを守るために戦う(重装歩兵や水兵)。それが参政権と表裏一体になっていた訳です。

当然、職業軍人、つまり職業として専門に兵士を担う常備軍は存在しません。

この市民皆兵制は、要するに権利と義務の関係にあります。

参政権は自分の政治体制を守る事と表裏一体です

守らなければ、そもそも当該の国家自体が消滅しますから。

「我に自由を、しからずんば死を与えよ」

民主主義は、あるいは自由(リベラル)民主(・デモ)主義(クラシー)は、専制などに対して、戦い、勝ち取ってきた(あるいは守り抜いてきた)という歴史があります。

(ちなみに「民主主義」と「自由主義」は近くはありますが、別物です)

元祖のギリシアにおいてはペルシア帝国に、近代では三大市民革命、そしてナチスドイツに対して。

故に、軍事の方が、反戦・反軍よりも遥かに民主主義と近いのです。

ここで翻って、日本の戦後民主主義を見ますと、全体主義が終わって、民主主義に移行した時、革命を経ていない政治体制の転換だった事と、軍国主義の苛烈さからの反動で、反戦・反軍感情が大きな要素として付け加わり、民主主義のプロトタイプとは大きく違った様相を呈したのです。

そこで失われた視点は、その「民主主義を守る」という点です

戦後民主主義が虚妄だとか、平和憲法なんてつまらんということを公然と主張できること、そのこと自体が、戦後民主主義がかつての大日本帝国に対して持っている道徳的優越性を示すものではないでしょうか。

丸山真男「二十世紀最大のパラドックス」※2

いみじくも丸山が戦後日本の民主政を、このように評価していますが、ならば、その政治体制を、民主主義を守る、もっと身近に言えば、国民一人一人の自由は、どう守るべきなのか?

この問題が、すっぽりと戦後民主主義からは抜け落ちています。

戦前日本の国家権力の圧政が、あまりに厳しかった故に、どうしても監視の目が自国の権力の暴走・暴政に向いてしまうのは、わかります。

カミカゼ特攻隊で兄を喪った君塚校長の視点もここにあります。

ですが、せっかく手に入れた「自由」を奪いに来るのは、何も自国の権力だけとは限りません。外からの侵略によって失われる可能性も同じくらいにあることを忘れています。

「我に自由を、しからずんば死を与えよ」とは、アメリカ独立戦争に参画したパトリック・ヘンリーの言葉ですが、民主主義そのものを奪おうとする敵が来た時に、果たして、如何に民主主義の支持者は行動すべきなのか?

「いやいや、武器ではなく、話し合いや暴力によらない抵抗で」

という声が、10回に1回は聞こえてきそうですが、相手がそもそも自由民主主義の原理を信奉していないなら、なぜ、相手が同じ次元で対応してくれると思えるのでしょうか?

話し合いを持ちかけて、銃尻で殴られたり、ストライキをして機銃掃射を喰らうことだってあり得ます。

「民主主義を守るために武器を取らなければならないのか?」これは、古代アテナイから現代まで続く、重い課題です。

格差が民主主義をぶっ壊す

「うん、確かにそうだよな。そのために自衛隊は、ミサイルとか大砲とか戦車とか自衛官を持ってるわけですよね。しかし、言っておきますけどね、本当に戦争が起きたら、戦うのは先生たちじゃない。君たちの世代なんですよ?…自衛官を志望している弥市ひとりに代表して戦ってもらえば済むっていう問題じゃないんですよ」

現代だと、民主主義国も軒並み、志願制の常備軍です(自衛隊もそうです)。

故に、命を懸けて国を守るのが、一部の人々に担われ、あるいは押しつけられ、他の国民はその責任を果たさないといいう、ある種の不公平が問題になっています。

これに経済格差が加わると、目も当てられない状況になります。

つまり、貧困層が「食べていくために志願」する軍隊ということになってしまうからです。

この傾向は現代のアメリカ軍でも現れています。

軍隊と関係ない国民は、軍人にだけ戦ってもらえればいい、と心のどこかで思っていないでしょうか?

しかしそれは、古代アテナイの民主政を見て分かるように、権利だけの享受と見なされてもおかしくはないのです。

おそらく民主主義と軍隊で、一番自然な関係は、それこそ徴兵制でしょう。

ギョッとしてしまうかもしれませんが、参政権という権利とそれを守る義務を考えると、そう考えざるを得ない。

また、国民が軍隊を徴兵で経験してることによって軍が社会から疎外されることは無くなるかもしれません。

軍隊という社会が、国民大多数から隔離された状態で孤立すると、将来、軍閥化など大きなリスクになるやもしれない。

徴兵を維持していたヨーロッパの先進国も軒並み志願制に移行している現在、この問題は民主主義における責任と義務の問題に暗い影をおとすでしょう。

職業差別?

もう一点、気になったことがあります。

現在では、この作品は、ある種、黒歴史といいますか、その一面的すぎる自衛隊批判から、「流石にコレはないだろう」、という批判が多く見受けられます。

しかし、その批判の中で、「教師たちの言動は、自衛官への職業差別だ」という声をよく見かけます。

これは一見、同意しそうですが、民主主義と軍隊の関係・歴史を踏まえると、やや違和感のある意見でしょう。

つまり、そもそも「軍人」は職業なのか、という。

他の職業、何でもいいのですが、漁師とかドライバーとか販売員とか、世には無数の職業がある訳です。ところが、この軍人というのは、それらとは性格が全く別の、同列には論じえない存在なのではないでしょうか。

シュミットの節でも見たように、軍隊の本質は「敵」と戦うという点にあります。

そして、それは国家体制を守る為です。

多くの職業が国家体制(あるいは社会システム)を運営していくために不可欠ですが、殺す殺されるという直接的な命のやりとりを責務とするのは軍隊・軍人だけです。

古代アテナイの市民団を例にとれば、軍人(兵役)は職業と別の、参政権と言う権利を守るための義務、というより必然的な防衛行動です。

ここからわかることは、軍人(自衛官)を、他の職業と同列に、サラリーマンのようなイメージで考えることは、職業差別以前に、極めて不適切で、なおかつ民主主義にとってもリスクの高いことであると言わざるを得ません。

つまり、軍人を職業にしてしまうことで、一部の人間(職業軍人)に流血を押しつけると同時に、国家の暴力装置を一部の集団に独占させてしまう、二重のリスクを背負い込むのです。

「贈る言葉」

色々と書き散らしてきましたが、小生から坂本先生とは違う「贈る言葉」を書いて、本稿を締めくくります。箇条書きですが。

  • 自衛隊が、もっと根本的に、国家(政治的共同体)に暴力装置が、必要かどうかこそ議論すべきです。論理的に、現実的に。
  • 民主主義をどう守るのか、最悪の事態を想定して考えてください。
  • 民主主義に軍隊が必要ならば、なぜ、自衛隊は戦後民主主義を守る軍隊ではないのですか?あるいは、なれなかったのですか?
  • 「政治」「戦争」と「平和」の関係を、考え抜きましょう。但し、学問の力を借りましょう。また、理想論に溺れないように注意しましょう。
  • 「理想に溺れて現実を見失ってはいけない」と、よく言われますが、同時に、「理想がなければ、現実を改善することも何もできない」のも事実です。一切の理想への前進の努力を放棄する事は、反動であり、現状追認です。このギャップをどう埋めますか?飛躍なしで。

【了】

※1.永井道雄・編『世界の名著28 ホッブズ』中央公論社、1999年、157頁。

※2.杉田敦・編『丸山真男セレクション』平凡社、2010年、440頁。