3年B組金八先生スペシャル「贈る言葉」(1982年放送)での自衛隊批判を巡って【前編】~桜中学の先生方に贈る「政治学の特別授業」

いかなる政府もトマス・ホッブズが『リヴァイアサン』で展開した国家統治の問題を内包することなしには、存立さえできないことを、人びとはしたたかに思い知るべきであった。そこを通過しないで、一国民の政治的成熟が得られるであろうか。

磯田光一『戦後史の空間』新潮社、2000年、186頁。

先日、幼稚園のお父さん方の飲み会の席に同席したのですが、話題は卒園式の話になりました。

曰く、卒園式では、壇上で卒園生が、ひとりずつ、将来なりたい仕事を発表したそうです。

その中で、ある男の子が、「将来は自衛官になりたいです」と発表したそうで、そのお父さんは、「こんな小さいのになんて頼もしい!」と絶賛。

周りのお父さん方も、「素晴らしい」「立派だ」「凄い」と一様に好意的な言葉を口にして喝采を送っていました。

これを聞いていて、私は、あるテレビドラマをすぐに思い出して、「時代は変わったなぁ」としみじみ思ったものです。

「あ、こいつ左か」とか「右翼がなんか言ってるぞ」とか色々早とちりしないでくださいね。

そうではなく、自衛隊に対する国内世論、時代の空気が、ここまで変わったことを改めて感じただけなんです。

というのも、40年程前には、ちょうどこの場面と正反対の状況を描いた、ドラマがあったからなんです。

(以下、色々と書きますが、左右の立場からの主張や、ポジショントークみたいなことはしません。もっと別の次元のお話です)

今や昔の国民的ドラマ

そのドラマは都内の区立中学校(足立区?)を舞台にした「3年B組金八先生」

1979年から2011年まで不定期で放送されたていたドラマシリーズで、主演は国語科教諭・坂本金八役の武田鉄矢。

今の10代以下には馴染みがないどころか、知らない方も多いかもしれませんが、80年代から2000年代までは、押しも押されもせぬ人気の国民的ドラマでした。

そのシリーズ初期、スペシャル版「贈る言葉」(1982年10月放送)が、今回のテーマになります。

現在からみると、なかなか衝撃でして…はい。

自衛官志望を全力で阻止

3年B組金八先生の第1シリーズの生徒(卒業生)たちの同窓会(クラス会)がメインのお話になります。

高校3年生になった彼ら彼女らも、それぞれ高校卒業後の進路に悩んだり決断するのですが、その内の1人、武道を嗜んでいる九十九弥市が、就職先を、「自衛隊か警察」と何気なく口にしたことから事態は急変します。

金八をはじめ教師一同・知人一同が困惑し、悩み始めます。

「私、ヤダ、弥市に鉄砲、持たせるなんてこと。自衛隊の練習、テレビで見たでしょ。あれは、まるで戦争よ」

「自衛隊と言っているけど、ありゃ軍隊だろ。軍隊なんてものは、戦争するためにあるんだろ」

「僕は、繰り返し繰り返し、命の大切さってのは、生徒に訴えてきたつもりでいたんですけども」

「当時の教師のスローガンというのは、“教え子たちを二度と戦場に送るな”でした。本当に心からそう思った筈なんです。ところが、近頃は、就職斡旋のひとつとして、自衛官募集のパンフレットをですね、生徒たちに手渡す学校とか教師が出てきたんです。これは一体どういうことなんでしょうか。」

とまあ、こんな感じで、口々に懸念を表明し、「何とか」しようとする訳です。

特別授業

終盤、金八は、卒業生たちを教室に集めて、同窓会=特別授業を開きます。

そこで、自衛隊を問題にする訳です。

弥一が、自衛隊が国を守ると言うのに対し、金八は、

「そうだよな。国を守る。弥市よ、もう一歩突っ込んで考えてみような。国を守るという事はどういうことか。平和を守るということですね。しかし言っときますけども、平和を守るというのは、一人一人がそれぞれの立場で守っていかなければ、平和というのは守れるもんじゃないんです。自衛隊だけにお願いして済むっていう問題じゃないんです。…弥市よ、お前、空手やってるから、喧嘩強いじゃん。このクラスで一番強いよな。でも、弥市、もし、棒きれ持った男が出てきたらどうする?」

この後、棒きれには鉄パイプを、鉄パイプには刃物を、刃物にはピストルを、とエスカレートしていき、最後に爆弾という対抗手段が示されます。

これは、抑止力とエスカレーションの話をしている訳ですが、金八は、

自衛隊が現実に軍事力持ってますけども、その軍事力を使わないで済む方法。どういうことだと思います? そうなんですよ。世界中の人と共に生きようと、そう思うんです。そして丁寧に話し合い、真剣に理解し合うんです。そうでなければ世界というのはもう成り立たないところまで来てるんです。我々に今、一番必要なのは、話し合うための優しさと辛抱強さですよ

と軍事を広義の外交(民間外交や文化交流、信頼醸成)に代替えすべきだと言います。

本作を「左派的だ」「反日だ」と切り捨てたり、「脳内お花畑だ」「キレイごとを」と嘲笑ってみるのは簡単なんでしょうが、問題はそこではないような気がします。

問題は、議論の展開に飛躍があったり、議論の筋がズレたり、当然出てくるであろう有力な反論や別のアプローチ、歴史的経緯を、無視している点にあるのではないでしょうか?

以下、その点について考えてみたいと思います。

憲法9条を「ただ」読む事は意義があるのか?

この特別授業のクライマックスは、卒業生全員に日本国憲法を朗読させていきます。

自国の憲法を読むことは、教育上、別段、特異なことではないでしょう。

卒業生が順番に憲法の条文を読んでいくのですが、本作の肝心(かんじん)(かなめ)の憲法9条を読むのは、図ったように(いや、図ったんでしょうが)、自衛官志望の弥一です。

普通、憲法9条を、素直に読めば、「軍隊を持ってはいけない」と読むでしょう。

さて、憲法9条と自衛隊ですが、これに関して、現在の法的状況を簡潔にまとめると以下のようになるようです。

政府は、憲法9条を武力行使一般を禁止する文言と読みつつ、憲法13条を根拠に、自衛のための必要最小限度の武力行使はその「例外」として許されるとしてきました(中略)。

また、最高裁判所は、日本国自身の武力行使の是非や自衛隊の合憲性について判断していませんが、日米安保条約に基づく米軍駐留は「憲法九条」「の趣旨に適合」し「違憲無効であることが一見極めて明白であるとは認められない」と判断しています

(中略)

自衛隊に関する法律は、憲法の解釈、国際的な状況、自衛隊の歴史を踏まえ、相当程度に合理的な体系になっています。

木村草太『憲法と自衛隊』晶文社、2018年、87-88頁。

なにか、騙されているような、狐につままれたような気分になるのではないでしょうか。

(ちなみに憲法13条は国民の自由・生命・幸福を国家が尊重することを規定)

不信感を持つのも当然で、ここから難しいのが、法の世界。

法・法学の世界には、それ独自の「固有の文法」が存在するからなのです。

憲法9条を巡って、またそれに関連する国際法を巡って、膨大な学説・解釈や判例がある訳で、その堆積の中で、法は、その法の世界の文法で理解されています。

条文だけの字面(じづら)だけにとどまらない。

例えば、憲法よりは身近な「職務質問」(警察官職執行法第2条)を例にしましょうか。

テレビドラマや警察24時みたいな密着ドキュメンタリーでお馴染みですが、ここでよく「任意です」「任意なんだから協力しない」などと、押し問答が繰り広げられますね。

この「任意」の捉え方が、法の世界と一般人で大きく乖離していることはあまり知られていません。

元警察官僚で作家の古野まほろ の著書、そのものズバリ『職務質問』(新潮新書)で、このことを懇切丁寧に説明しており、オススメなのですが、そちらから引用すると、

しかしながら、イザ役札が揃ったときは、その役札の強弱に応じ<有形力>が行使できる。これが裁判所の一貫した立場。ゆえに、市民が〈任意〉と考えるものと裁判所が―だから警察もまた―〈任意〉と考えるものとの間に、必然的なズレが生じてくるのです。

古野まほろ『職務質問』新潮社、2021年、31頁。

「任意」なのに、「役札」(判例などからの緊急性や必要性)が揃えば、「有形力」を行使できる(!)。

これは法律の門外漢からすると、ちょっとビックリしますね。

職務質問については、本書を是非読んで頂きたいのですが、こんな例からも分かるように、法には法の固有文法があって、それが、その世界の外の人間(法曹界・学界・官僚機構以外)には、一見しては分からない。

自然科学だと、明らかにその文法が専門知の塊なので、「外の住人」には、これは別世界だと最初から認識できる訳ですが、法学を含む人文・社会科学系の世界では、なまじ字面が「普通の日本語」なので、理解できたように思えてしまうので、誤解と混乱が生じます、

さて、金八先生の同窓会の話に戻せば、憲法9条の条文はこう読めるが、法(法学)の世界にはこういう事情もあることを、教えるべき、少なくとも匂わせるべき、でしょう。

国家とは何か?

こう書くと、

「いや、その法の事情は分かるが、金八先生たちが言いたいのは、戦争が悪であり、それを担う軍隊は良くないし、自衛隊は軍隊そのものであるという事を生徒たちに教えたいんでしょ」

然り、然り。

そうでしょう、まったく同感です。

ですから、本来、特別授業で、議論すべきなのは、憲法9条云々よりも、「戦争」「国家」「軍隊」とは何ぞや?ということなんですよね。

この作品を観ていて、最も違和感があるのは、「国家と軍隊」という根本的な問題を取り上げずに、一定の前提の元に、教員一同が立っていることです。

一定の前提というのは、「軍隊があるから戦争が起こる」という公式であり、そこから導き出されるのは、「軍隊を無くせば戦争はなくなる(=平和が達成される)」という解です。

果たして、この公式(前提)は正しいのでしょうか?

さて、「国家」とは何でしょうか?

日本語だと「国家」となってしまうのですが、政治学の概念上は色々と違う概念があり、多様です。例えば、ポリス、レス・プブリカ、ネイション、ステイト、ガバメントなど、思想や時代によってその態様は様々です。

現代の国家、近代国家は、「ネイション・ステイト」(国民国家)という存在です。

これは、ネイション(国民)とステイト(秩序状態)という別々の概念が合わさって生まれたものです。

前者は、ここでは大きく関わらないので割愛しまして、後者のステイトを考えていきましょう。

ステイトの登場は、近代、それまでの身分制秩序(中世)が崩壊した後に、身分制に代わって登場したものです。

これは、身分制崩壊によるカオス・無秩序を防止して、権力機構によって秩序状態を創設しようとするものです。

ここで関係するのが、「主権」という概念です。

「主権」は16世紀のフランスの思想家ジャン・ボダンが提起した概念です。

ざっくり要約すると、主権とは「一定の地域(国内)で、絶対的かつ、恒久的な不可分・不可侵な最高の権力」を意味します。

故に、近代国家は主権国家とも称されます。

主権国家が成立するには、その地域(国内)で必然的に最大最強の強制力を持つ必要があります。それも独占・専有しなければなりません。

国内に様々な武装勢力が群雄割拠している状態は近代国家=主権国家とは言えない。

この強制力の独占(暴力の独占)というのは、言うまでもなく、軍隊(常備軍)と警察です。

「自然状態」への道

金八先生の理想は、「軍隊を無くせば戦争は起きない」でしたが、果たしてどうなのでしょうか。

近代国家が暴力を独占しているなら、その暴力装置自体を無くせば、戦争という暴力は存在の余地がない。という論理展開です。

ところが、近代国家は、まさにこれを否定して誕生しています。

16世紀の英国の思想家トマス・ホッブズは、「自然状態」という国家が無い状態を仮定してみました。完全なアナーキー、無法状態・無政府状態です。

これを「自然状態」と名付けました。

そこでは、生存に必要な資源(パイ)の奪い合いが繰り広げられます。力こそ正義。

絶えざる恐怖と、暴力による死の危険がある。そこでは人間の生活は孤独で貧しく、きたならしく、残忍で、しかも短い。

ホッブズ『リヴァイアサン』※1

「人は人に対して狼」であり、世界は「万人の万人に対する闘争状態」という、いわば『北斗の拳』の世界です。

ホッブズに言わせれば、軍隊を廃止した日には、日本は自然状態に陥るでしょう。

「いやいや、ちょっと待って。金八先生は戦争の原因の軍隊(自衛隊)を否定しているんであって、政府や裁判所とか警察もいらないなんて言っていないよ。それこそ論理の飛躍だよ」

と反論が来そうです。

しかし、読み返してください。

主権国家の条件は国内の暴力の独占・専有です。

そしてその物理的強制装置(暴力装置)が、軍隊と警察です。

仮に、警察を維持して軍隊を廃止しましょうか。

確かに、普通の(ちまた)の犯罪は取り締まれるし、治安も当座は維持できるでしょう。

しかし、その政府が国内で最大の武力を持っていないということは、いざ、強力な反政府組織や犯罪組織、テロ集団が生起すると、そこでもうお手上げになってしまうのは、容易に想像がつくでしょう。まさに群雄割拠です。

実際、中南米諸国では麻薬カルテルが強大で、軍や警察を凌駕する勢いです。もし、完全に政府側を凌駕すれば主権喪失・国家破綻になります(その前に米国が軍事介入するでしょうが)。

軍が無ければ、警察が対抗できくなった時点で、その国は試合終了です。

基本的に、政治は、起こりえる可能性を悲観的に想定しています。

  • 「そんな悪いことにはならんだろう」
  • 「そんな反政府軍やらテロ組織なんて現れないだろう」
  • 「その手前で、検挙したり防止したりすれば大丈夫」
  • 「誰しも話し合えばわかりあえる」
  • 「みんな、根は善人だよ」

このような想定は、責任ある政府の態度とは到底言えません。

ついこないだ、これと似た言説があったではないですか。

  • 「宗教団体がサリンなんて作る訳ないでしょ」
  • 「大地震なんて来ないよ」
  • 「津波たって、足元が浸水するくらいだよ」
  • 「原発がメルトダウンなんて起こすわけない」
  • 「今どき、安保理常任理事国でもある大国が隣国に全面軍事侵攻なんかしないよ」

常に最悪を想定して準備するのです。

そうしなければ、万が一のことが起きた時、何もしない、座して死を待つ。ということになってしまいます。

軍隊はダメで、警察は良い?

では、常備軍以外の選択肢はどうでしょうか。

例えば、警察力。

警察を強化すればいい、という意見が出てきますね。

でも、なぜ、警察は良くて、軍隊はダメなんでしょうか?

先述した通り、国家の物理的強制装置として、軍隊も警察も同じものです。

外と内、どちらを向いているかの違いです。

「でも、警察は軍隊みたいに人を殺さないでしょ?」

はい、あるラインまでは。

警察行為というのは、構成員(国民)の違法に関して、それらを矯正しているからです。

刑罰には色々な考え方(学説)がありますが、刑罰を矯正・更生という面で捉えれば、当該の犯罪者を、一般社会(法秩序)に復帰させることを目的とします(目的刑論)。

ところが、もう矯正する対象ではない一線があります。

矯正されるのは、あくまで国家の法秩序の枠内に止まる人間だけであって、もしその法秩序そのものを転覆・廃止しようとしているとしたら、その人間は、もはや「国家の敵」「内敵」であって、「排除」の対象です。

死刑という刑罰が典型ですが、要するに合法的に「殺害」される訳です。

刑法に「内乱罪」「外観誘致罪」というものがあります。過去に適用された事例が皆無という珍しいものですが、これらは、いきなり「死刑」という過酷な刑罰が規定されています(内乱罪は首謀者が死刑)。

なぜ、死刑を前提にしてるかというと、それは法秩序=主権そのものを破壊しようとする「内敵」だからです。

この一線を超えた犯罪者と警察(ひいては国家権力)の関係は、軍隊と外国の軍隊との関係と相似形です。

同じ物理的強制装置(暴力装置)である、軍隊と警察の違いというのは、警察は、単一の法社会・法秩序の枠内における執行機関であり、その行動は法治主義により、法令を根拠にした行動をする自由しかありません。即ち、許可された事しか執行してはいけないというポジティブリスト(許可事項列挙)方式です。

他方、軍隊は、自国の法の外に出て行って(あるいは自国内に迎え撃って)、違う法秩序(外国)の下にある武装集団(外国軍隊)と交戦するので、法的に束縛されない、原則自由に行動します。戦時国際法(ジュネーブ条約やハーグ陸戦協定など)や交戦規定(ROE)など、若干の禁止事項が列挙されてますが(禁止事項列挙=ネガティブリスト方式)、あくまで法の枠外の自由行動です。

作中、夜に警邏中のお笑い枠の大森巡査に、金八が問いを投げかける場面があります。

金八「大森さん、あんた何で警察官になったの?」

大森巡査「市民の安全を守るためだわ。市民の命と財産を守る。これは本官の仕事だぁ」

市民の命と財産を守るのが、別に「道徳」や「正義」だからではなく、それが「秩序」を維持し、「自然状態」への復帰を防ぐシステム(=法秩序)だから、警察官はそれを守っている訳です。その限りでは軍隊も同じです。

また、こういう常備軍と戦争の話をすると、10回に1回は、「コスタリカは成功した」という言説を見ます。

中米のコスタリカは1949年に常備軍を廃止しています。

そこを取り上げての「コスタリカを倣え」論ですが、これには幾つもの留保が付きます。

確かに常備軍を廃止していますが、警察機構に準軍事的(パラミリタリー)組織を有しています。

そもそも、米州機構の一員であり、「米国の裏庭」、勢力圏である中南米なので、コスタリカの非軍事化をそのまま素直に受け取れない実状があります。

例えば、米国は1989年末に、中米パナマの指導者(独裁者)ノリエガ将軍を、「逮捕」するために、パナマに全面軍事侵攻を行い、その圧倒的軍事力でパナマ軍を圧倒。ノリエガは米国の裁判所で、麻薬密輸の罪により有罪になっています。

とても対等な主権国家同士の関係ではありません。

他の非軍事国家(南太平洋諸国など)も、一皮むけば、大国や集団安全保障体制に組み込まれていたり、軍事的に従属していたり字面だけの「軍隊の無い国」論は、やや国際政治の現実を無視しているきらい(・・・)があります。

仮に、朝鮮戦争が起きなかったら、日本も近い道を辿ったかもしれません。

日本政府側には警察力(国家地方警察+自治体警察)しかなく、安全保障面は米国(在日米軍)に丸投げのような。

以上見てきたように、「軍隊の代わりに警察を」というのは、よく見かける言説ですが、あまり良い案とは言えません。

ところで、戦後日本はなぜ再軍備(警察予備隊→保安隊→自衛隊)に走ったのでしょうか?

少し歴史(政治史)を辿ってみましょう。

自衛隊誕生秘話

私たちはまず弥市くんと、よ~く話し合う必要がありますね。ここへ来る道すじ、考えながら来たんですけども、今、おたおたする前に、自衛隊というのは、私たちが作ったんだっていうことを、認めなければならないでしょう。私には、なし崩しにできたようにしか思えなくても、あの子たちにとっては、生まれた時にもうすでに、日本には自衛隊っていうのがあったんですから。戦力なき軍隊と言われたのは昔のことで、今は突出した予算も認められて、立派な市民権があるんですから

これは、幸楽の鬼姑君塚校長(演:赤木春恵)が金八に言った台詞ですが、かなり核心をついているんです(前半部が)。

ポイントは「なし崩し」です。この「なし崩し」こそ考える必要があります。

戦後、日本は占領軍(米軍)の統治下にありましたが。

その中で、最高司令官として君臨したマッカーサー元帥のキャラクターは、戦後日本の運命にとって非常に重要でした。

マッカーサーは見栄と名誉心の強い男であった。彼は歴史に自分の名前を永遠に残そうという野心があった。この野心が、彼の全生涯、とくに連合軍最高司令官としての「業績」を説明するかけがえのない鍵となる。

片岡鉄哉『日本永久占領』講談社、1999年、61頁。

この名誉心・功名心は、マッカーサーをして、日本を「東洋のスイス」にするという夢を見せました。

憲法9条もこの文脈にあります。

ところが、国際情勢は、そんな「未開の国の王」の夢を打ち壊していきます。

冷戦です。

マッカーサーは自分自身でつくった、とんでもないジレンマにひっかかってしまった。憲法は、占領統治と全改革の頂点であり、金字塔であり、彼の「偉大さ」の証であった。この憲法を恒久化するためには、その生いたちを隠し、一刻も早く占領を終結する必要があった。占領が長引けば、憲法が怨恨の対象になりかねない。それを避けるためには一刻も早く講和にもっていきたい。だが憲法がある限り、日本は占領継続以外に防衛の手段がない。

同上書、115頁。

朝鮮戦争がはじまり、在日米軍は朝鮮半島に出動し、日本列島は本当に「非武装」になってしまいました。

ここで出てきた「解決策」が憲法を変えないままの再軍備。警察予備隊の創設です。

当時の日本の政治指導層も、例えば吉田茂などが、これに乗っかります。

いわゆる「軽武装・経済優先」です。

これをなし崩しと言わずして何と言うのか、という状況ですが、以降、日本の安全保障は、キリスト教神学での教義論争さながらとなるのはご承知の通り。

常備軍は近代の賜物

ところで、常備軍、つまり、常に編成されていて、中央政府に指揮統制され、職業軍人で構成される単一の暴力機構というのは、近代、市民革命以後のトレンドであって、それ以前の軍事力の形態というのは、国家の形態が違うように、今とは違ったものでした。

ヨーロッパ中世を例に取れば、市民革命以前、軍事力は傭兵や騎士といったものが主力で、武力とは単一・集中ではなく拡散・点在していました。

国王というのは諸侯の間の「同輩中(プリムス・)(インテル)首席(・パレス)」に過ぎません。

それが、絶対王政や近代市民革命を経て、国民が総動員されるような国民軍という近代的軍隊(常備軍)が誕生します。

金八の自衛隊反対=常備軍反対は、近代以前を想定すれば、可能かもしれませんが、それは、群雄割拠、戦国時代のようなイメージの日本を待望することになるかもしれません。

それが果たして国民にとって幸せかどうか。

とはいえ、もう少し現実的に、常備軍を解散して、やっていける政治形態を考えてみると、あるにはあります。

それは、アメリカ合衆国建国の理想です。

米国は、元々、英国への抵抗(叛乱)によって建国された国家なので、権力への不信感が根強くあります。

従って中央政府(連邦政府)が強大な常備軍を持つことを、実は忌避している。

アメリカは「政府諸部門」をもつものではあるが、主権国家や絶対主義的政治などはもたない政治社会であるとして、みずからを世界に示したのである。

したがって、アメリカの政治的伝統は、反国家的伝統であったし、今日まで間断なくそうであると解釈されてきた。

シェルドン・ウォリン『政治学批判』みすず書房、2004年、262頁。

アメリカは軍事戦略について、あるいは国民生活の構造の中の軍事力の位置について、伝統的な観念をもたない国である。(中略)またわれわれにとって軍事的問題をアメリカ社会の内部的問題に関連づけるのが難しいのは驚くべきことではない。アメリカは平和時に常備軍を維持する伝統をもったことは一度もなかった。

ジョージ・F・ケナン『アメリカ外交50年』岩波書店、2000年、266-267頁。

これが何に繋がるかと言うと、銃規制問題です。

米国が民間人の銃規制を進められないのは、専制権力の手先になるかもしれない常備軍などに頼らずに、自分の身は自分(ひいては、自分のコミュニティは自分)で守るという伝統があるからです。

また、銃を所持することで、政府が暴走・悪政を敷いた時の、抵抗権の発動の物理的保証にもなる。

このような思想は、例えばリバタリアンに見られます。

この覚悟があると、もしかすると、常備軍は廃止できるかもしれません。

(まあ、ちょっと現代では不可能だと思いますが)

常備軍を無くせば戦争は無くなる?

アメリカの例を見てもわかるように、常備軍がなくても、国民総武装という形は可能ですし、群民蜂起による抵抗などもあり得ます。

おまけに常備軍を廃止して、政府の統治能力が低下すると、ホッブズの想定したような自然状態のような状況も出現するかもしれません。

野盗や武装勢力が跳梁跋扈するような有様。

これでは(かえ)って逆効果でしょう。

常備軍廃止=平和という定式は、あまり説得力がありません。

困ったことに、人間は、武器が無くても、殺し合いを始めてしまう生き物でして、弾や銃がなくなれば、棍棒でも斧でも包丁でも使って「敵」を殺しにいってしまいます。

現代における好例として、ルワンダでの大虐殺がまさにそんな残虐非道の巷でした。

ですから、軍備・常備軍をどうするという制度の話よりも、その、まさに戦争が起こるメカニズムを話す方が、よほど有益なのです。

色々と論じてきましたが、金八の特別授業は、やはり一方的ではないかと、見受けられます。

少なくとも、以上述べてきた点の幾つかが、異論・反論として、挟み込まれた方が、公正な描き方になったのではないでしょうか。

作中、弥一の反論の機会は、実質的に封じられてしまったので、残念ではありますし、そもそも、高校生にそれをやらせるのは酷であり、教職員間で、もう少し議論があって良かった。

例えば、あそこに「理論派」の北先生(社会科)なんかいたら、「いや、坂本先生、それは違うでしょう。国際政治の現実と言うものがありますから」と反論を加えて頂きたいところです。

まだまだ続きます。

【後編に続く】