馬毛島基地は「攻撃されやすい」のか――無人島の軍事拠点と限定攻撃のリスク(馬毛島要塞2030)

一九一四年の大戦の基本要素で――これはいつの時代でもいえることだが――敵味方を問わず一貫して見られた傾向は、より困難な戦争は手がけたくない、現実はこうであるかもしれない、という疑念にもとづく行動はとりたくないというものだった。

バーバラ・W・タックマン『八月の砲声』(上)筑摩書房、2004年、68–69頁。

鹿児島県の種子島から西へ約10キロ。ほぼ島全体が自衛隊基地へと姿を変えつつある()()(しま)があります。

島全体が国有地、基地となり、古風に言えば「要塞」といった趣です。

(往年の荒巻義雄に倣えば『馬毛島要塞2030』ですかね)

要塞島、現る

防衛省はここに航空自衛隊の基地(滑走路)を整備し、米空母艦載機の陸上離着陸訓練(FCLP)や、自衛隊の訓練・緊急時の活動拠点として利用する計画を進めています。防衛省自身、南西地域には自衛隊の活動・訓練拠点の「空白」があり、島嶼部に対する攻撃への対処などのために馬毛島が必要だと説明しています。工事は現在も続いており、2026年1月時点では事業全体の完成は2030年3月末の見込みとされています。

報道などでも、この基地をめぐる環境問題、近隣の島の生活の変化などを度々取り上げています。

ですが、どうも取り上げられていない重要な視点があるように思えてなりません。

浅学なので、フォローしきれていないだけかもしれませんが、ちょっと書いてみました。既専門家の方々で既出の議論でしたらご容赦ください。

双方の「合理性」の乖離

現代戦では、飛行場のような大型固定施設は真っ先に攻撃対象となります。使用できる基地を増やし、航空機や部隊を分散させれば、一度の攻撃で航空戦力をまとめて無力化される危険を減らすことができます。

日本側にとっては、馬毛島は、南西諸島の基地ネットワーク全体の抗堪性を高め、相手に攻撃しなければならない目標を増やす(強制する)施設でもあります。

そして、この馬毛島について重要なのは、一般住民がいないことです。

つまり「軍民分離」ができる点。

これは基地をつくる側から見れば理想的です。

基地と住民生活との摩擦(騒音トラブル、事故リスクなど)を抑えられるだけでなく、有事になった場合にも、基地周辺の一般市民を直接危険にさらす可能性を小さくできます。

ところが、攻撃する側から見ると、この特徴にはまったく別の意味が生じるのではないでしょうか。

たとえば南西諸島で有事が生起した場合、航空自衛隊那覇基地への攻撃を考えてみます。

那覇基地は民間の那覇空港と隣接し、周囲には人口の密集した市街地が広がっています。軍事施設だけを精密に攻撃するつもりであっても、民間航空や一般市民を巻き込む危険(コラテラル・ダメージ)が極めて高い。

もし中国が日本に軍事的な圧力を加えたい一方で、日中戦争を全面化することまでは望んでいなかったとしたら、この民間人被害は大きな政治的制約になります。

つまり国際世論の上でも、批判を考慮しなければならない。

コラテラルダメージを計算しなければなりません。

では、馬毛島ならどうでしょう。

一般住民は、ほぼ常住しておらず、その島は全島が、ほぼ軍事施設です。

攻撃する側からすれば、

「日本の都市を攻撃したのではない」

「日本の一般市民を狙ったのではない」

「軍事施設だけを攻撃した」

という体裁をとることが出来ます。

そういう「限定性」を主張しやすい場所になるのです。

これは、例えば、一般島民を移住させて、完全軍事化したインド洋のディエゴガルシアにも言えるかもしれません。

もちろん、これは馬毛島への攻撃が「軽微」「軽い」という意味ではありません。

馬毛島も日本国内です。そこを中国軍がミサイルなどで攻撃すれば、日本に対する武力攻撃です。自衛官などに死傷者が出る可能性もあるでしょう。

日本政府や日本社会が、「自衛隊施設への限定攻撃だから仕方がない」と受け入れる保証も、おそらくないでしょう。

問題はむしろ、攻撃する側がどう計算するかです。

「危機管理を行う上で戦争の回避と原状回復との間のジレンマがある」

土山實男『安全保障の国際政治学――焦りと傲り〔第二版〕』有斐閣、2014年、252頁。

因みに、ここでの「原状回復」とは、危機のなかで相手によって変更された状況を、それ以前の状態へ戻すことです。

相手の行動をそのまま受け入れれば、自国の利益が損なわれ、抑止の信頼性まで傷つくかもしれません。

だから相手に圧力をかけ、行動を撤回させようとします。

しかし、圧力を強くしすぎれば、今度は相手が反撃し、危機そのものが戦争へと拡大してしまいます。

相手には譲歩させたい。しかし戦争にはしたくない。

この二つを同時に実現しなければならないのが危機管理です。

そこで、「どこまで圧力を加えるのか」という問題が生じます。

エスカレーション・ラダー

国家間の軍事対立は、平和から突然、全面戦争へと飛躍するとは限りません。

プロパガンダ合戦、軍事演習、部隊の展開、威嚇、国境警備機関の衝突、限定的な武力行使、特定の軍事目標への攻撃、より大規模な本土攻撃――というように、危機にはいくつもの段階があります。

いわゆる「エスカレーション・ラダー」です。

「危機の梯子」を昇っていく。

そして危機管理では、一段上げるだけではありません。

下がる場合もある。

相手に自らの決意を示したうえで攻撃の規模を抑えたり、外交ルートを通じて「これ以上の拡大は望まない」と伝えたりして、再び梯子を下りることも考えなければなりません。

つまりディエスカレーション(漸減/緊張や軍事行動の段階的縮小)です。

ここから馬毛島を眺めると、少し不気味な性格が見えてきます。

仮に日中間で深刻な軍事的危機が発生したとします。

中国は日本側に何らかの政策変更を迫りたい。

しかし沖縄のいずれかの基地を攻撃するとか、ましてや東京を攻撃するなど、全面的な戦争に拡大したくはない。

那覇基地やその他の航空基地、駐屯地を限定的に攻撃すれば、多数の民間人を巻き込む可能性がありえる。

そのとき、一般住民の常住しない馬毛島の軍事施設だけを攻撃するという選択肢は、攻撃側にどのように映るのでしょうか?

「これは限定された軍事行動である」

「日本の都市や国民一般を攻撃する意図はない」

「日本側が行動を改めれば、これ以上攻撃を拡大するつもりはない」

そう外交ルートやバックチャンネルを通じて伝えることも、理論上は考えられます。

この意味で馬毛島は、単に「使い勝手のいい要塞島」であるだけではありません。

攻撃する側に、「ここなら民間人を巻き添えにせず、限定的な武力を行使できるのではないか」という新しい選択肢になる可能性があるのです。

私はむしろ、こちらの方を注目します。

なぜなら、「限定戦争を限定したまま終わらせられる」という保証などないからです。

クラウゼヴィッツが戦争の不確実性を「薄明」や「霧」に喩えた、いわゆる「戦場の霧」に当たります。

つまり一切の行動は、薄明のなかで行われるのである、それだから霧や月明かりのなかの朦朧とした像のように実際よりも大きく見え、怪奇な外観を呈することも稀ではない。

クラウゼヴィッツ『戦争論』(上)岩波書店、2000年、70頁。

中国側が、

「馬毛島だけなら日本は全面反撃しないだろう」

「一般市民を攻撃していない以上、日本も抑制的に対応するだろう」

と考えたとしても、日本側が同じように考えるとは限りません。

日本側から見れば、これは明白な日本国内への武力攻撃です。

中国が「一段だけエスカレーションした」つもりでも、日本が本格的な戦争の開始と判断して大規模な反撃を行えば、中国もさらに反撃することになります。

そこで梯子は逆方向に動き始めます。

危機の際の国家が、いつも冷静で完全に合理的な計算をしているわけでもありません。

危機下の意思決定について、時間的圧力やストレス、集団思考、認知などが判断に影響する。

「将来の見通しがつかないまま、限られた情報と時間内で決断を迫られる危機状況下では、意思決定者間にストレスを生じやすい。」

土山實男『安全保障の国際政治学――焦りと傲り〔第二版〕』、249頁。

つまり危険なのは、中国が意図的に全面戦争を始めようとする場合だけではありません。

逆に、中国の意図と日本の目算が大きく違えてしまう場合もある。

「この程度なら大丈夫だろう」という誤算から始まる戦争もあり得ます。

ここに国際政治の逆説があります。

軍民分離がもたらす正反対の結果

日本から見れば、馬毛島は基地を分散させることで防衛力を強化し、相手による一撃での基地無力化を困難にする「要塞」です。

その意味では、抑止を強化する基地です。

しかし同時に、一般住民から切り離された明確な軍事拠点を新しくつくることは、相手に「コラテラルダメージが極めて低い、限定的に攻撃できる目標」を一つ増やすことにもなるかもしれません。

日本全体を攻撃しにくくする基地が、馬毛島それ自体については攻撃の政治的ハードルを下げる可能性がある。

安全保障政策には、こうした逆説がつきまといます。

だから馬毛島基地について考えるとき、「基地が増えれば防衛力が高まる」「基地があるから攻撃される」という賛否双方の単純な議論だけでは足りないのでしょう。

軍事施設を新設することで、相手の選択肢がどう変化するのか。

そして危機になったとき、相手がどのような武力行使なら「管理可能だ」と考えるようになるのか。

そこまで考える必要があります。

一般住民のいない軍事基地は、本当に「安全」なのでしょうか。

逆に考えれば、普天間や那覇、あるいは千歳など、人口密集地に近接する基地では、周辺の一般市民の存在そのものが、攻撃側に付随的被害と政治的コストを計算させる制約になります。

(もちろん、これを「人間の盾」と呼ぶことはできません。しかし結果として、純軍事拠点である馬毛島とは異なる攻撃上の制約を生み出していることは確かでしょう)

軍民分離は住民保護には合理的です。

しかし、その合理性が攻撃側にとっても「限定攻撃しやすい」という別の合理性を生む可能性があるという逆説なのです。

馬毛島の基地建設が進むいま、一度考えておいてよい問いではないでしょうか。

【参考文献】

土山實男『安全保障の国際政治学――焦りと傲り〔第二版〕』有斐閣、2014年。