映画「シビル・ウォー/アメリカ最後の日」(感想・考察)~たとえ内戦を覚悟しても、シーザーは討たれなければならない

(監督アレックス・ガーランド/2023年、米英合作)

内戦には独特の陰惨さがある。それは骨肉間の闘争(Bruderkrieg)である。蓋し敵をも包摂する共通の政治単位内の闘争であり、両陣営ともに共通の統一体に対し同時に絶対的肯定と絶対的否定をもって臨むからである。

カール・シュミット『獄中記』※1

現代アメリカの内戦を描いたA24製作の映画のご紹介です。

「もしアメリカが分断され、内戦が起きたら?」という、挑発的なキャッチ。

時、折しも、アメリカ大統領選挙直前。

鑑賞前ですと、ポリティカル・スリラーを想像していましたが、どっこい、ロードムービーを中核として、様々なテーマを織り込んでいました。

あらすじ

19もの州が連邦から離脱、四分五裂状態のアメリカ合衆国。

激しい内戦状態の中、反乱軍(西部勢力)は、政府軍(連邦軍)を退け、大統領が立て籠るワシントンD.C.に迫る。

ニューヨークで取材中のマグナムに属する女性戦場カメラマンのリー・スミスとロイター通信の記者ジョエルらは、孤立無援の大統領に「最期のインタビュー」を試みようと、危険なワシントンD.C.への車の旅に出発する。

南北戦争以来の「第二の内戦(シビル・ウォー)」の中、一行が目撃するものは…。

※以下、ネタバレあり

アメリカに何が起こったのか?

「写真を送ることで、警告してきたつもりだった。でも、結局、こうなった。」

リー・スミス(本編より)

あくまで、主人公らジャーナリスト一行のロードムービーなので、断片的な情報しか作品では明かされません。

群雄割拠状態、州単位で連合したり静観したりといった状況が想像できます。

カリフォルニア州とテキサス州は同盟関係で、西部(W)勢力(F)を結成。

彼らが、政府軍(連邦軍)を退けて、ワシントンD.C.に進軍します。

「現実には、カリフォルニアとテキサスは政治的風土が違い過ぎて、同盟なんてしないだろうから、あくまでフィクションだという点を監督は強調しているのだろう」

という意見が散見されます。

確かに、カリフォルニアはリベラル(青い州=民主党支持)、テキサスは保守(赤い州=共和党支持)なので、水と油ではあります。

しかし、日本でも、幕末に、あれほど憎しみ合っていた薩摩と長州が薩長同盟を結んで、倒幕に動いたことが好例のように、昨日の敵は今日の友なのが権力闘争です。

その他にも、フロリダ州を中核とする8州の「フロリダ同盟」やオレゴン州を中核とする9州の「新人民軍」(毛沢東主義?!)など、割拠状態。

現大統領は3期目に突入していることが語られます。

米国では、ルーズベルトが戦時という理由で4選して以降、憲法で3選目が禁止されています。

この時点で、超憲的な、専制的・全体主義的な大統領であろうことがわかります。

なぜこんなことになってしまったのか?

昨今のアメリカ社会の「分断」だけでは語り尽くせないものがあります。

キーワードは「州と邦」「共和国」、そして「シーザー」(カエサル)です。

州と邦

アメリカ合衆国を日本人が見る時に、よく間違い易いのは、「州」が「都道府県」と同格のイメージで見てしまうことでしょう。

しかし、アメリカ政府とは、連邦政府であり、日本は都道府県の連邦ではありません。

「州」というのは、本質的に国家であり、その連邦がアメリカ合衆国です。

都道府県と同格なのは州の中の「郡」です。

州は、州憲法を持ち、州軍(州兵)も保有しています。

その国家たる「州」の連邦なので、ワシントンD.C.の中央政府は「連邦」政府なのです。

このことから、時たま、「合衆国ではなくて合州国では?」という疑問の声が聞こえることがあります。

しかし、そこにはアメリカの国家構造の初期(建国当初)とその後の明確な違いがあります。

そもそもアメリカ合衆国は、建国当初、つまり「連合規約」下においては、邦(州)という実質、半主権国家による「国家連合」でした。

連合規約の下でのアメリカ合衆国は国家連合であり、市民は邦政府に自らの権利を一部委任し、邦政府が中央政府を創設して権限の一部を再委任するという原理によって成り立っていた。

待島聡史『アメリカ大統領制の現在』NHK出版、2016年、46頁。

これに代わって成立した「合衆国憲法」は、

連邦制が採用された合衆国憲法の下では、合衆国民たる市民は自らの権利の一部を連邦政府に直接委任し、別の一部を州政府に委任するという原理になった。連邦政府の正統性は市民からの委任に直接由来するようになり、州政府とは別の役割を果たすとされたのである。

待島、同上書、46頁。

アメリカ政治史において、連邦主義(フェデラリスト)と反連邦主義(州権主義/アンチ・フェデラリスト)の対立は繰り返されてきました。

これを踏まえて、シビル・ウォーを観れば、一部の州は、連邦を離脱することにより、かつての「邦」のような存在に回帰したとも言えるでしょう。

半主権国家です。

任期が三期目に突入するなど、専制的・超憲的になった大統領に対して、反旗を翻した州は、特に西部勢力は、自らが、合衆国憲法の憲法秩序の回復者だと喧伝するでしょう。

ここで重要なのは「委任」(信託)です。

抵抗権・革命権~「天に訴える」

アメリカの建国の思想を語る上で、欠かせない思想家といえば、ジョン・ロックです。

「17世紀に身を置きながら18世紀を支配した思想家」(丸山真男)とさえ言われますが、それはつまり、ロックの思想がアメリカ建国(18世紀)に大きく影響したからです。

ちょうど、フランス革命にルソーの思想が大きく影響したように。

この両人とも、いわゆる「社会契約論」の系譜の代表的人物です。

社会契約論で登場する「自然状態」という概念、思考実験があります。

社会契約論の三大思想家と言えば、あともうひとり、トマス・ホッブズを忘れていけません。

ロックもホッブズも共に「自然状態」という概念を理論の出発点にしていますが、同じ概念でも、その内実は両者で大きく異なります。

共に、無政府状態を想定しますが、ホッブズの場合、それは、「人は人に対して狼」であり、世界は「万人の万人に対する闘争状態」という世界です。

秩序がなく、醜くい、限られた冨を奪い合う暗黒の世界です。

映画なら「マッドマックス2」とか、漫画なら『北斗の拳』とか、はたまたコーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』。

あういう、終末的な世界を思い浮かべてください。

このことから、人々は、こんな惨めな境遇を脱するために、政治権力を、それも強大な怪物「リヴァイアサン」のような国家権力を求めます。

専制君主、絶対主義で構わない。

対して、ロックの自然状態は、そうではありません。

こちらの自然状態では、各人が自らの理性によって、自然法を認識する能力があるので、自然法的秩序は存立し、平和で、親愛のある、相互扶助的な世界が実現すると考えます。

故に、必ずしも、国家権力の創設は必要ではないのです。

しかし、他方、「人は理性のみに生きるに非ず」という面もあり、一部の人間が「欲望」の為に、自然法を曲げてしまったり、不正を働く可能性は否定できないことも認めています。

この「どちらに転ぶかわからない」状態を回避する為、公的な手段を創出し、社会状態に移行すべきだとします。

この公的な手段が統治(ガバ)機構(メント)です。

つまり、各個人の持つ自然的権力を政治権力に転嫁するのです。

ここでのポイントはホッブズのような君主のような個人などではなく、「統治機構」という非人格的な組織体を想定していることです。

ホッブズ的自然状態と比べて、ロックの場合、社会状態への移行に、切迫性や緊張感はそれほどありません。

専制・絶対主義なぞとんでもない。

こういう建国の原理により、アメリカの国家観は以下のように言えるでしょう。

アメリカは「政府諸部門」をもつものではあるが、主権国家や絶対主義的政治などはもたない政治社会であるとして、みずからを世界に示したのである。

したがって、アメリカの政治的伝統は、反国家的伝統であったし、今日まで間断なくそうであると解釈されてきた。

シェルドン・ウォリン『政治学批判』みすず書房、2004年、262頁。

さて、この政治権力・統治機構への転嫁は、別の言い方をすれば、個々人による「委任(信託)」です。

故に、既存の信託された統治機構が、私欲に走ったり、公共のことを顧みなかったり(暴政)すれば、「抵抗権」「革命権」が発動できる余地があります。

但し、ロックは抵抗権の発動に極めて慎重です。

それは「天に訴える」と表現していますが、それは、この発動が、「流血」をもたらすからに他なりません。

「内戦」です。

シーザーは討たれる~アメリカ共和国

ジョン・F・ケネディが暗殺された日の晩に、ある友人が涙ながらに電話をしてきてこう言った。「だがなバーナード、だからといって、本当の暴君は殺されて当然だということを断じて忘れてはいけないぞ」。

バーナード・クリック『デモクラシー』岩波書店、2004年、53頁。

アメリカは建国当初から、独裁者が生まれることに大変な警戒心を持っていたようです。

つまりそれは、シーザーの登場と、甥のオクタヴィアヌスによるローマ皇帝即位に見られるように、共和政が廃されることへの強い警戒心です。

ここで、「共和国」(共和政)といって「民主主義」「民主国家」と、あえていわないことには強い理由があります。

そもそも「共和政」を支える「共和主義」とは一体何でしょうか。

単純に思いつくのが、「君主(制)に反対する(君主が存在しない)のが共和主義」という定義ですが、どうもそうとも言い切れないのです。

一体どういうことか。

実はこの言葉は、多義的で、時代や論者によって、その使用法が、大きく異なります。

まず、共和主義の源流としては、古代のローマ共和制が挙げられますが、「共和国」とはラテン語の「レス・プブリカ」(公共のもの)に由来します。

古代ローマの哲学者キケロなどが典型ですが、国家レス・プブリカは、公共のもの(事柄)であり、誰かの私的なもの(例えば専制君主個人の)ではない。

この「公共のものに」によって公共利益(≠私的利益)を達成するのは、自由な市民の責務であり、その為には、市民には教育によって「徳」(公共精神)を涵養する事が必要です。

こう考えると、君主を戴いていても、公共の利益を考えた自由な市民による君主国であるならば、「共和国」と言えるのではないでしょうか。

例えば、現代の欧州の立憲君主国家群はどうでしょう?

勿論、君主制を認めない共和制論者もいます。

ただ、共和主義の大筋のところ、最少公約数には、恣意的な専制支配への抵抗と公共の利益という一致点があるように見受けられます。

さて、この共和主義の伝統は、古代ローマの後、特にマキャベリ以降に、西欧政治思想で復権します。

アメリカ合衆国は、自身は共和制国家と自負しているでしょう。

アメリカは共和国であり、共和国を解体させるような独裁官を望みません。

専制者は、ローマ市民の歓呼喝采から生まれる。

歓呼喝采の政治とは、「徳」を喪った市民による衆愚政です。

西洋政治思想には、衆愚政への警戒感が底流のように流れています。

衆愚政の別名を民主主義と言います。

民主主義、デモクラシーが、肯定的な意味に転換したのは、せいぜい20世紀に入ってからです。

それまでのデモクラシーとは、無知蒙昧な民衆が、感情に踊らされて行う愚かな政治のイメージです。

その源流は、古代アテナイにおけるソクラテス裁判とその弟子プラトンの怒りの筆致にあります。

プラトン哲学の影響力というのは、神がかっているので、以降の歴史において、デモクラシーにはマイナスイメージがつきまといます。

さて、アメリカは、デモクラシーでもなく、さりとて専制君主制でもなく、共和国の道を歩みます。

故に、共和国の破壊者、シーザーは討たれなければならない。

シーザー的大統領像の系譜

アメリカ史で、あえて「シーザー的」な大統領を挙げるとすると、エイブラハム・リンカーンとフランクリン・デラノ・ルーズベルトでしょう。

前者は南北戦争、後者は第二次世界大戦での戦時大統領です。

南北戦争は、「強大な連邦政府」という存在を一時的にではありますが、誕生させました

連邦政府、特に大統領の権限拡大によって、憲法上戦争開始後のアメリカ合衆国は戦前とまったく違う国となる。戦前唱えられ広く信じられた、合衆国は主権を有する州の自由な連合であり連邦政府は弱い存在であるという理論と現実は、リンカーン大統領の戦争遂行によって完全に打ち破られた。

阿川尚之『憲法で読むアメリカ史』(上)PHP研究所、2004年、288頁。

そして、ニューディール政策と第二次大戦の戦争指導をしたルーズベルトに至っては、

こうして戦争がはじまる前から、かなり自由に権限を行使したローズヴェルト大統領である。開戦後はだれからも制限を受けることなく戦争政策を立案実施して、アメリカ国民を引っ張った。

戦時体制を構築するにあたって大統領は既存の法律を用い、必要であれば議会に必要な法律を制定させた。しかし同時にしばしば、憲法上の戦争権限によるという以外なんらその根拠を説明しようとしなかった。

阿川尚之『憲法で読むアメリカ史』(下)PHP研究所、2004年、195-196頁。

ルーズベルトは、それまでの慣例(初代ワシントンが三選を固辞した)を超えて、四選の大統領となります。

強大な連邦政府というのは、アメリカ人にとって、独立戦争時の宗主国イギリスであり、独裁官シーザーです。

建国の父たちはそれを警戒していました。

皮肉にも、この二人は、任期中に天に召されます。

日本帝国による一大調伏によって呪殺された病死のルーズベルトはともかく、リンカーンは暗殺者の凶弾に斃れます。

リンカーンを暗殺したジョン・ブースは、その際にラテン語で

「シク・センペル・ティラニス(専制者は常にかくのごとし)」

と叫んだと言われています。

まさに、リンカーンは、シーザーと見なされていた訳です。

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フィクションの中の「専制国家アメリカ」

アメリカ映画などでは、専制的な全体主義国家アメリカが時折登場しますが、これは、シーザーの台頭に対しての根源的な恐怖心、警戒感、嫌悪感からでしょう。

そんなアメリカ人の深層心理を表象している2つの映画をご紹介します。

共にカルト的人気を誇る傑作です。

『ウォッチメン』(2009年)

原作はアラン・ムーアの同名タイトルのアメリカンコミックの最高峰。

ザック・スナイダーが映像化しました。

この作品は、「もしスーパーヒーローが20世紀のアメリカ現代史に実在し、介入していたら?」という偽史SFの体裁を採っています。

舞台は1980年代。

スーパーヒーローの助力でベトナム戦争に勝利したニクソンは、4選を果たしています。

長期政権化すれば、それだけ腐敗や強権化の温床となることは、避けられない訳で、作品全体にその雰囲気が醸し出されています。

映画では直接言及されませんが、コミック版の描写では、ウォーターゲート事件は政府側のヒーロー「コメディアン」の活躍(暗躍)で闇に葬られています(ボブ・ウッドワードは暗殺されている)。

専制とまではいきませんが、その兆候はあらわれており、リベラリズムは後退しているような世界観です。

『エスケープ・フロム・L.A.』(1996年)

鬼才ジョン・カーペンターの近未来ディストピアSF映画です。

カート・ラッセル演じる「スネーク」のキャラクターは、後に大きな影響を与えました(「メタルギアソリッド」など)。

この作品のアメリカは、完全に全体主義国家になっており、大統領も終身制(!)になっています。

「アメリカ合衆国国家警察」なるKGBやシュタージの末裔みたいな組織が誕生しているなど、州権主義はもう息をしていないようです。

首都はワシントンD.C.から、キリスト教色が強いバージニア州リンチバーグに遷都。

この大統領、やたらと道徳やら偉大さを強調し、聖書を引用します。

実質的に神権政治体制を匂わせている。

ここで終身大統領のイメージがトランプと被るのは気のせいか?

前述の『ウォッチメン』のニクソンが4選目なら、こちらは、なんと憲法改正の上、終身独裁官もとい終身大統領にまで、なってしまっています。

「権力は腐敗する、絶対権力は絶対腐敗する」(アクトン)の警句の通り、専制政治は権力の膨張を止めることを知らず、腐敗と悪政の苗床にならざるを得ません。

シーザー殺しとモナルコマク

そしてその正当な権力は被治者の同意に由来するものであることを信ずる。そしていかなる政治の形態といえども、もしこれらの目的を毀損するものとなった場合には、人民はそれを改廃し、彼らの安全と幸福をもたらすべしと認められる主義を基礎とし、また権限ある機構をもつ、新たな政府を組織する権利を有することを信じる。

「アメリカ独立宣言」(抜粋)

「邦」やらジョン・ロックやら、わりと遠回りをしてきましたが、ようやく「シビル・ウォー」の世界に戻ってきます。

作中、FBI(連邦捜査局)を大統領が解散させたということが語られます。

これの行間を読むと、こうではないでしょうか。

大統領が三選するのに対して、司法長官との間に確執があった。

司法長官は、大統領顧問団(内閣)の一員ですが、法曹界出身者が登用されますし、一定程度、大統領との距離感があります。

三選を巡って、憲法上の問題で、かなり司法長官・司法省は抵抗したのではないか?

そして、当のFBIは司法省傘下の法執行機関です。

FBIにも一定程度の独立性があります。政権が交代しても、民主・共和両党が入れ替わっても、FBI長官が続投することは普通です。

FBIが常に政権(ホワイトハウス)に「忠実」だという保証はありません。

FBIといえば、創設者にして初代長官ジョン・エドガー・フーヴァーの存在を抜きにして語れません。

フーヴァーは、半世紀近くその座に留まり、8人の大統領に仕えました(仕えたのか、手のひらの上で踊らせたのか…)。

それを可能にしたのはFBIの情報収集能力です。俗に「フーヴァー・ファイル」と呼ばれた政界人の個人的な「内密な事柄」の山は、政治都市ワシントンの住人たちを恐れさせました。

ニクソンのウォーターゲート事件の際、ワシントンポスト紙に情報提供していた「ディープスロート」(内通者)の正体は、時のFBI副長官その人でした。

このように見ていくと、大統領が三選へ、専制化していく過程で、司法省・FBIとの確執・対立があり、大統領は、強権を発動して、FBIを解体してしまったのではないでしょうか。

想像するに、この後の、大統領の暴走は目に余るものがあったのでしょう。

各地で反政府暴動も起こったでしょう。

そして、国内の反政府暴動に連邦軍に武力行使させたのでしょう。

原則、連邦軍は国内での治安維持・法執行を禁じられています(民警団法)。

例外は、反乱法の発動ですが、これは、普通、知事の同意の上で発動されます。

おそらく知事の同意なしに、反乱法発動を強行したのでしょう。

流血の事態です。

そうでなければ19州が離脱するという事態は考えられません。

ここまでくれば、いよいよ内戦前夜です。

米国で常に論争になる銃規制問題があります。

銃規制反対派は、憲法修正第二条を根拠にすることが多々あります。

規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有しまた携帯する権利は、これを侵してはならない。

アメリカ合衆国憲法修正第二条

これを盾に、民間人の武装権、民間の民兵(ミリシア)組織が結成されます。

但し、ここに議論があって、現代では、ミリシアは、ほぼ州兵を指すという指摘もあります。

こうして暴力を引き起こしている団体と、政府の治安組織が、同じミリシアという名で呼ばれているのは、なんとも奇妙な話である。(中略)実際、2021年の連邦議会議事堂では、暴動を扇動したのは民間人のミリシア団体で、それを鎮圧するために出動したのが政府のミリシアである。

中野博文『暴力とポピュリズムのアメリカ史』岩波書店、2024年、IV頁。

現代における「ミリシア」の位置づけは、ともかく。

憲法修正第二条は、「自由な国家」の為に武装権を認めているので、国家が専制で自由を失っているなら、これは先述した「抵抗権」「革命権」に直接関わるということは容易に類推できるでしょう。

大統領の暴挙が止められなければ、一部の州では、州知事や州議会で、連邦離脱や抵抗権の発動が議論に上ってくるでしょう。

それでもなお、抵抗権の発動には高いハードルがあります。

修正二条が、人民の意思を無視して圧制を繰りかえす連邦政府に対して、人民の究極の権利である抵抗権を担保する、共和主義的モーメントを含むものであると解されるなら、武器をもって連邦政府にたてつくことの正統性が憲法上付与されることになる。問題は、かかる抵抗権を行使できる前提となる圧政(oppression)の要件である。これが客観的に一義的に明確にならないかぎり、個人の主観的な判断で連邦国家内でつねに武力闘争がおこなわれ、不安定な状況が招来され、しかもこれが憲法上ゆるされたものという矛盾した憲法状態が展開されることになる。

富井幸雄『共和主義・民兵・銃規制』昭和堂、2002年、304-305頁。

一体なにをもって、客観的に「暴政」と断じて、「抵抗権」を発動し、内戦への道を開くのか?

政治思想史には、暴君放伐論(モナルコマク)という系譜があります。

これは、つまり、暴君・暴政に対して、これを排するという手段への正当性や条件に関する一連の議論ですが、そこでは様々な議論が交わされています。

シーザー暗殺に対して、キケロは暗殺者ブルータスを称賛しました。

キケロは、それを私的な殺人と分かつ指標を「共通善」に求めています。

また近代においては、先述したジョン・ロックもそうです。

現代ドイツの「戦う民主主義」は、ナチス専制の反省から生まれました。

また、「合法性」と「正統性」という政治学・法学上の概念があります。

合法性は文字通り、法に照らして、法のとおりに行われたことは、正しいことになります。

たとえ、大統領職を三選しようと、自国民に銃を向けようと、憲法修正などで対応し、反乱法を発動すれば、それが適法であればそれは正しい。正当性は合法性の中に解消されてしまう。

しかし、正統性は違います。

法を超えた、正しさの規準はあると考えます。

大統領の行いが、法の生まれたそもそもの原理、合衆国憲法の理念、建国の父たちの理想を、踏みにじるなら、それは不当であり、暴政である、と。

内戦前夜に、それそれはドラスティックな激論・交渉・決断を経て、各州は抵抗権を発動したことでしょう。

内戦下のアメリカ軍

さて、前節までは、思想的な背景などを見てきました。

ここからは、「アメリカ内戦」の実相に迫っていきましょう。

それは、どのように戦われるのか?

米軍の特徴として、まず挙げられるのが、連邦軍と州軍の存在、そして、統合軍制です。

米国の正規軍(国軍)は、連邦軍であり、これがいわゆる、我々が知る「アメリカ軍」な訳です。

対して、州は、「州軍」(州兵)を保有しています。

連邦軍と州兵は確かに別個の存在なのですが、実質的には、連邦軍の予備軍として運用されています。

装備も連邦軍に準じていて、遜色ありません。

戦車や攻撃ヘリといった重装備、戦闘機といった作戦機も装備しています(州兵空軍)。

湾岸戦争など、連邦軍と一体的に運用されることも多々あり、指揮権は州知事にあるのですが、連邦軍に編入されると、当然、大統領の指揮下に入ります。

かつて、南部での人種差別問題が燃え上がっていた頃には、州知事が州兵を動員し、これに対して、大統領が、州兵を連邦軍に編入して、知事の指揮権を奪ってしまうという事態もありました。

1957年に、南部アーカンソー州で起こったリトルロック高校事件では、黒人学生の登校を阻止しようと、州知事が州兵を動員。これに対して、アイゼンハワー大統領は、アーカンソー州兵を連邦軍に編入し、知事の指揮権を剥奪。

更に連邦軍の陸軍第101空挺師団を現地に派遣し、黒人学生の通学を「護衛」しました。

1962年のメレディス事件などと同様、州知事の指揮権剥奪や連邦軍の派遣という、連邦(ワシントンD.C.)と州(この時は南部諸州)の間で、非常に緊張した状況がありました。

連邦の法執行機関(連邦保安官など)と州の法執行機関(州警察など)が睨み合うという、およそ日本では考えられない事態です。

最終的に、大統領が州兵を連邦軍に編入するという「最終手段」があるので、連邦に軍配が上がります。

上記のような緊張状態が臨界点を超えたのが「シビル・ウォー」の世界なのでしょう。

大統領命令に州兵が帰順しなかったら?

連邦軍各部隊が指揮命令を拒否したら?

米軍のもうひとつの特徴は、統合軍制です。

軍制(軍政)上としては、陸軍・海軍・空軍・海兵隊・宇宙軍という5軍制ですが、軍令(作戦指揮)上は、別途、統合軍を編成しているという二重構造になっています。

統合軍には2種類あって、一方は、機能別の機能別統合軍(輸送軍、サイバー軍、特殊戦軍、戦略軍、宇宙統合軍)。

他方は、地域別の戦域統合軍です。

この「地域」というのは、アメリカ中西部とか、アメリカ西海岸とか、アメリカ国内の「地域」ではなく、地球上をいくつかの「地域」に分けているという、世界覇権を握る「現代のローマ帝国」らしい体制なのです。

即ち、欧州軍、アフリカ軍、中央軍(中東)、インド太平洋軍、北方軍(北米大陸)、南方軍(南米大陸)です。

これら統合軍が、5軍種(制)の垣根を超えて、実際の作戦・軍事行動を行っています。

これらを踏まえて、「シビル・ウォー」を観ると、本土の軍事力は、この指揮命令系統は崩壊しているのは明らかでしょう。

州兵は州知事の指揮に従うであろうし、連邦軍はそれこそ、師団、旅団、連隊などで、ある部隊は駐留している州に加わったり、引き続き連邦政府の指揮下に服属したりと、四分五裂状態でしょう。

アメリカが内戦になった場合、本土以外の兵力、つまり海外派遣軍である各戦域統合軍の動向という、特殊な問題を抱えています。

各戦域統合軍が、どう動くかは未知数なのですが、考えられる各パターンは

  1. 本土に引き上げて連邦側に
  2. 本土に引き上げていずれかの分離勢力側に
  3. 海外に展開を維持し局外中立を宣言

のいずれかになるでしょう。

個人的には③を選択する将官提督が多数ではないかと見立てています。

連邦も各分離勢力も、「アメリカ合衆国」そのものの解体を望んでいないと推察できるからです。

西部勢力も、単なる分離独立なら、連邦軍を撃退するだけで、わざわざワシントンD.C.にまで攻め上って、「暴君」を処刑をする必要などないからです。

すると、「戦後」も見据えれば、最も警戒すべきなのは内戦に外国が介入してくることです。

海外の戦域統合軍は、局外中立に徹して、外国による「アメリカ内戦」への介入を阻止することに目を光らせたのではないかと。

特にこれは、アメリカ海軍にあって顕著かもしれません。

海軍、というかシーパワーというのは、広い海を縄張りにする伝統からか、昔から開明的で、民主的な気風があると言われています。

すると、専制的な大統領の側につくとは、あまり考えられません。さっさと、局外中立を宣言してしまったのではないか。

特に北米大陸両岸を管轄する太平洋艦隊と大西洋艦隊は、北米大陸を「封鎖」することで、内戦への外国の介入を防ぎ、かつ、他の統合軍(特に海外駐屯陸軍・空軍)の内戦介入を阻止したのではないでしょうか。

こうなると、本作の内戦は、米本土内の陸軍・空軍・海兵隊・州兵による戦いとなるでしょう。

ところで、アメリカの内戦には、軍の分裂や海外派遣軍以外にも、重要な問題が存在しています。

それは民間人の銃器所持です。

米国の場合、民間人も銃器を持てるので、自然、各種の民兵も容易に跳梁跋扈することでしょう。

作品前半で、政府軍?と交戦していた男たちは、ラフな服装にタクティカルベストを上から着ていただけの民兵でした。

民兵といえば、「自警団」の姿は、いくつも登場します(どちらかというと悪い意味で)。ガソリンスタンド、一見「平穏な町」、そして赤いサングラス…

法執行機関が内戦で機能不全や消滅した後の「地獄」です。

日本の関東大震災の際の自警団の蛮行を持ち出すまでもなく、法の埒外に置かれた武装集団ほど厄介なものはありません。

さて、アメリカ内戦には、これ以外にも憂慮すべき事項があります。

いわばジョーカー。

統合軍でいえば「戦略軍」。

それはつまり核兵器運用部隊です。

アメリカの核の三本柱は、戦略空軍(核搭載戦略爆撃機)、大陸間(IC)弾道弾(BM)、戦略原子力潜水艦です。

この内、北極海などに常時潜んでいる戦略原子力潜水艦は、いうでもなく海軍なので、先の仮説通りなら、局外中立を宣言し、外国の介入、もっといえば、内戦の混乱に乗じて、合衆国への先制核攻撃を牽制する役割を持つでしょう。

もとから戦略原潜は、深海に潜んでいるので、敵対国が事前にこれら原潜を殲滅することは困難です。

先制核攻撃を受けた後、報復核攻撃を行う原潜がある限りは、敵対国は自国の被爆を回避できないため、相互確証破壊(MAD)が成立します。

これは問題が大きくない。

問題なのは、米本土に基地がある戦略空軍と、同じく、本土に発射サイロがあるICBMでしょう。

作中、大統領への質問案を一行が練る中、「自国民への空爆をどうお考えになりますか?」というのがありました。

これがエスカレートすると、自国内の敵対勢力に核攻撃を行うという選択も、狂気の沙汰ですが、あり得ない話ではない。

連邦軍が劣勢になり、ワシントンD.C.が陥落寸前なら、西部勢力軍やフロリダ同盟軍に戦術核兵器を使用するという暴挙も考えられます(しかし、実際はそうならなかった)。

思うに、自国内、米本土において核使用に踏み切るというのは、どの勢力の軍人たちにとっても、許容できないものであり、例え大統領が命令しても、実行に至らないのではないでしょうか。

また、空軍が管轄しているICBMの地上発射サイロは、ワイオミング、ノースダコタ、モンタナ各州などに設置されています。

これ、まるごと「新人民軍」の勢力圏という、不安しかない状態にあります。

作中の会話から、西部勢力とフロリダ同盟は共にワシントンD.C.に攻め上っているようですが、新人民軍に関してはどうも違うようです。

毛沢東主義という言葉まで飛び出しましたが、彼らは、他の勢力と違い、合衆国の再統合に興味がないのかもしれません。

それに核がつけば、完全な独立も夢ではありません。

もしかすると、「戦後」の最大の不安定要素かもしれませんね。

大統領の最期と政治的メシア主義

「ムッソリーニやカダフィ、チャウシェスクと同じだ。大したことは言わんさ」

サミー(本編より)

終盤、ニューヨークタイムズのベテラン記者サミーを喪った一行は、西部勢力軍の集結拠点シャーロッツビルで、連邦軍降伏の報に接します。

米軍総兵力は、およそ140万人、内、米本土には90万人程度が配置されています。

州兵は全州合わせて33万です。

思うに、連邦軍の相当数は、局外中立か分離勢力側について、連邦軍それ自体は、本来の規模で戦えていたわけではないでしょう。

憲法秩序の回復者との宣伝が功を奏していれば、西部勢力側につく連邦軍部隊も多い。

ともかく、連邦軍は後退戦を続けて、主力は降伏した訳です。

この後、西部勢力軍は連邦首都ワシントンD.C.攻略戦に臨み、一行も従軍します。

ここを守るのは、大統領直轄軍の性格を持つコロンビア特別区陸軍州兵かもしれません。

しかし絶望的な抵抗です。

主力野戦軍が降伏した時点で、勝ち目はなく、無意味な流血です。

この辺りが、専制国家の狂気が垣間見える。

首都の部隊が捧げる、専制化した大統領への忠誠心が一体何を根拠にしているのか。

対する、西部勢力軍にも容赦がありません。

要塞化されたホワイトハウスから脱出してきたビースト(大統領専用車)にも、投降を呼びかけずに、丸腰の大統領夫人を射殺。

交渉にきた無抵抗の女性シークレットサービスも捕虜にせずに射殺。

そして極めつけは、大統領の即時射殺。

逮捕拘引して、形式でも裁判を行ってから(東京裁判やニュルンベルク裁判)、銃殺するとかの「政治的演出(ショー)」はなく、即時射殺。

戦争でもみられるような敵将への敬意みたいなものもなく、引きずり出して銃口を向けます。

これは、本当に大統領が人民の敵としての「暴君」として見なされていたとわかるシーンです。

最期に、ジョエルが兵士らを制して、今際の言葉を聞き出します。

それは亡きサミーの「予言」通りでした。

「私を殺させないでくれ」

そんな哀願を最期に、兵士の銃弾が大統領に叩き込まれます。

もしかしたらその場で兵士がこんな言葉を口にするかもしれません。

「シク・センペル・ティラニス(専制者は常にかくのごとし)」

この、無様な最期は、独裁者が一個のか弱い人間に過ぎないことを物語ってます。

専制・独裁の生まれる多くの背景には、政治的メシア主義があります。

偉大に見える政治家が登場し、民衆は、彼が全てを解決してくれる救世主(メシア)であると錯覚し、歓呼喝采で権力を与えるのです。

しかし、そんな神の如き人間はいない。

演出されたものに過ぎません。

そしてピュリッツァー賞で幕を閉じる

斃れた大統領とそれを取り囲む兵士たち。

その光景を、静かに、ジェシーはカメラに収めていきます。

歴史の1ページ。

きっと、その年のピュリッツァー賞を受賞するであろう、その1枚。

果たして、この後、アメリカはどうなるのでしょうか?

第二の内戦に傷つき、再び建国の理想を取り戻そうとするのか?

それならば、この写真は、暴君を倒した、新しい建国神話の象徴的な存在となるでしょう。

しかし、もし、まだ各勢力が戦い続けるとしたら?

どの勢力がアメリカを再統一するのか?

それとも北米大陸に分断国家群が誕生するのか?

海外の巨大な駐留軍はどう動くのか?

未来はまだ見えません。

【了】

【注】

※1.長尾龍一・編『カール・シュミット著作集Ⅱ1963-1970』慈学社、2007年、159頁所収。

【参考文献】

将基面貴巳『反「暴君」の思想史』平凡社、2002年。

富井幸雄『共和主義・民兵・銃規制』昭和堂、2002年。

待島聡史『アメリカ大統領制の現在』NHK出版、2016年。