「ウルトラマン」シリーズは、ほぼ見ないのですが、お付き合いで観ることになった、今回の「ウルトラマンアーク」は、いやはや面白かったですね。
特に、第22話「白い仮面の男」には唸らされました。
これ、子供に理解できるのか?
という訳で、今回は、この22話の感想と考察をつらつらと。
あらすじ
怪獣災害も起こらずに、平和な日常を謳歌するSKIP(怪獣防災科学調査所)星元市分所の面々。
しかし、そこには確実に「違和感」があった。
自身の傘が無くなっていることに気づいた飛世ユウマは、馴染みの雑貨屋に傘を買い求めに行くが、店主に、「傘」という単語が通じない。
これをきっかけに、自分たちの周りに「異変」が起こっていることを自覚するSKIPの面々だったが・・・。
※以下ネタバレあり
「脚本押井守?」
往年のファンには、実相寺昭雄の回(ウルトラマン、ウルトラセブン)を想起させたようですが、ウルトラマンに暗い小生は、「うる星やつら」や「機動警察パトレイバー」での押井守の脚本回を思わせる異色回でした。
全体がセピア調で、そこが「普通」の日常ではないことを暗示させる。
そして、「傘」という概念が失われていることに気づいてからの、世界の変化・浸食の進行。
ようやく、自分たちが「侵略」に晒されていると気づくのですが、仲間が一人一人、消えていく恐怖。
「仮面の男」
とにかく怖いのが、能面のような白い仮面(石面)をつけた紳士然とした怪人の存在。
彼を目撃するたびに、人が消えていく。
特に、防衛隊から出向している石堂シュウが、防衛隊本部への道順を「忘れて」しまい、その上、踏切で、仮面の男と遭遇してしまう演出は、鳥肌モノです。
存在論の侵略
そもそものきっかけである「雨」の概念が無くなったという描写。
これを見た時に、すぐに連想したのが、中島敦『文字禍』という短編。
精霊が満ち溢れる古代アッシリアを舞台に、「文字の精霊」の存在を調べる老博士の物語です。
彼が、中盤に、若い歴史学者に、文字の精霊の威力を語る場面があります。
文字の精の力ある手に触ふれなかったものは、いかなるものも、その存在を失わねばならぬ。太古以来のアヌ・エンリルの書に書上げられていない星は、なにゆえに存在せぬか? それは、彼等がアヌ・エンリルの書に文字として載のせられなかったからじゃ。大マルズック星(木星)が天界の牧羊者(オリオン)の境を犯せば神々の怒いかりが降くだるのも、月輪の上部に蝕が現れればフモオル人が禍を蒙るのも、皆、古書に文字として誌されてあればこそじゃ。古代スメリヤ人が馬という獣を知らなんだのも、彼等の間に馬という字が無かったからじゃ。
『中島敦全集1』筑摩書房、2019年、46-47頁。
普通、現代人は、まず事物、すなわち物質が先にあって、それに対して、言葉が与えられると考えがちですが、それはそうとも限らない。
逆に、たとえ事物が存在したとしても、それに意味を付与するには、言葉、名称、つまり概念が先立たなければ、なにも成立しない、あるいは存在しないも同義だ、という見解も存在します。
これを哲学上の論争(普遍論争)にまで敷衍すると、前者は、マルクスの唯物論の世界観でもあります。つまり、下部構造(経済的なもの)が上部構造(精神的なもの)を決定する。
唯物論までいかなくても、経験論の世界観、即ち、経験的なものが優先されるということです。
さらに形而上学的に言えば、唯名論(ノミナリズム)が基底にあります。
ノミナリズムは、実在するものは、現実世界の個々の物体であり、普遍的な名称は、ただ名称に過ぎない(唯の名に過ぎない)。
これは近代自然科学とも相性の良い世界観です。
他方、後者は、実在論(レアリズム)は、普遍的なものこそ実在であり、現実の経験世界の個々の事物は、真には実在しない、仮初の影のようなものに過ぎないと捉えます。
白い仮面の男は、普遍的観念としての「雨」を消し去るという、存在論の次元の、形而上的な侵略をしかけてきています。
白い仮面の男が、その仮面を脱いだ時、そこには、顔はありませんでした。
あったのは、「青い林檎です」。
自らは、考古学者だと名乗っていましたが、もはやそこには認識できる個人は存在しないわけです。
「できるさ。ただ、身を委ねさえすれば良い。名前も顔も捨てた、私のように…」
(本編より)
文字通り、個々の事物(個人)は実在せず、仮初の存在へと自身を変えてしまっている。
個人は普遍へと解消される。
この青い林檎は、ルネ・マグリットの『人の子』という絵画そのものです。
禁断の果実を想起させる林檎は、観念の地平、神の領域に足を踏み入れたことへの暗喩でしょうか。
ウルトラマンアークの一貫したテーマが「想像力」だそうですが、想像力の最も深いところでの侵略と言える回ではないでしょうか。
なぜ楽園は滅びたのか?
白い仮面の男は、地上の「憂い」を次々と消し去り(怪我、雨、そして怪獣)、「楽園」を甦らせようとしています。
そう、甦りなんです。
かつて、そんな「楽園」が、ユートピアが、理想郷が、地上に存在し、その痕跡を、ある考古学者が発見し、この物語は始まっている。
しかし、そもそも、このユートピアは滅びてるんですよね。
それはなぜか?
理想というものは、理想であるからこそ、その字義通りの存在であるという一種の矛盾があります。
つまり、「理想」が一たび実現したら、それは「理想」ではない訳です。永遠に手の届かないものである必要がある。
どういうことかというと、一種の弁証法で考えてみましょう。
「正反合」というアレです。
今、ひとつの現実があった時(正)、それに対して、より善くしようと、理想が提示されます(反)。
それは、紆余曲折を経て、妥協や修正の上、現実と理想を上手く結合して、改善された状態へと変化します(合)。
これを「正」と「反」を「止揚」して「合」としたと表現します。
さて、ところが、「合」というのは、新しい「現実」であり、またそこに新たな「反」(理想)が提示されて、止揚の機会が生まれます。
つまり、この弁証法は、究極の状態、つまり理想郷=楽園が達成されない限りは、延々と続きます。
そして、その究極段階とは、もはや神の段階なのです。
なぜなら、人間とは、神の不完全な似姿に過ぎないのですから。
もし、楽園がかつて、存在したなら、それが今ないのは、この永久的な弁証法の果てに、人間を捨て、神となったのかもしれない。
「憂い」がないということは全知全能の神と同義でしょう。
あるいは、神になったと思った瞬間、その重みに耐えられれずに自滅したのかもしれない。
青い林檎の暗喩は、禁断の果実、つまり楽園への無謀な賭けへを暗示しているのかもしれません。
ユートピア、理想郷は、それが人間のものである限りは、やはり真に理想郷にはなりえないのです。
哲学史上、究極のユートピア国家、理想国を構想した哲学者プラトンさえ、こう言うのですから
「―お前たちが言うように組み立てられた国家が、変動をこうむるということは、たしかに起こりがたいことではある。しかしながら、およそ生じてきたすべてのものには滅びというものがあるからには、たとえそのように組み立てられた組織といえども、けっして全永劫の時間にわたって存続することはなく、やがては解体しなければならぬであろう。」
プラトン『国家』(下)岩波書店、2000年、174-175頁。