第十八班がモスクワ放送から流れてくるスターリン演説を傍受して録音盤に収録していたのです。斯波さんは担当者ではなかったですが、居残って、放送を眼をつむったまま聞いていましたが、最後に「リュシコフは失敗したか」とポツリひとり言を言って部屋から出ていってしまったのです。
檜山良昭『スターリン暗殺計画(完全版)』中央公論社、1993年、64頁。
日本推理作家協会賞受賞(1979年)の長編歴史ミステリー小説です。
どこまでが史実で、どこからが虚構なのか。読む者を当惑させる異色のミステリーとなっています。
ソ連最高指導者スターリンを暗殺せよ!
<あらすじ>
1938年のミュンヘン協定の資料を探していた「私」は、日本陸軍による「スターリン暗殺計画」の記述を発見した。
半世紀近く前の、歴史の闇に埋もれた計画。計画は如何に練られて、どう実行され、そしてなぜ失敗したのか?
膨大な資料と、存命の関係者への取材で浮かび上がる真相とは?
そして、計画の核心に存在するゲンリッヒ・サモイロヴィッチ・リュシコフとは何者なのか?
日本版『ジャッカルの日』
本作は歴史ミステリーですが、その実、資料の収集と、関係者へのインタビューで構成されるドキュメンタリー小説の体裁を採っています。
そして、そこで扱われる資料やインタビューは、決して作者の想像の産物ではなく、実際の資料、実在の人物であり、一体、これはフィクションなのか、ノンフィクションなのか判然としません(それは作者自身が明言しています)。
これで思い出すのが、ジャック・ヒギンズの戦争小説『鷲は舞い降りた』
1943年11月、ドイツ軍落下傘部隊によるチャーチル英国首相誘拐作戦の顛末を描いたこの小説で、作者は前書きで、
この本は、驚くべき大胆不敵な作戦にまつわるもろもろの出来事の再現を試みたものである。内容の少なくとも五十パーセントは、証拠書類の存在する歴史的事実である。その残りの部分のどの程度までが推測あるいは虚構であるかは、読者の判断にお任せする・・・
ジャック・ヒギンズ『鷲は舞い降りた(完全版)』早川書房、1997年、4頁。
この「五十パーセントは」というのは、読者の期待を否が応でも搔き立てるものです。また作者(ヒギンズ)自身も登場する点が『スターリン暗殺計画』と共通しています。
また、作者自身も言及しているフレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』。
フランス大統領ド・ゴール暗殺を狙う謎の暗殺者コードネーム「ジャッカル」と、その計画を察知したフランス政府官憲との息詰まる攻防・心理戦を描いた傑作ですが、作者のフォーサイスは、この作品がどこまで真実で、どこからがフィクションかを質問され、それを明かすことは無い旨、言明しているそうです※1
いずれの作品も、「もしや」「実は・・・」という、政治の裏面史を見せてくれるというスリリングな読書体験をもたらしてくれます。
その緊張感は、あそこで「成功」していたら、歴史は・・・、という「if」の想像力を掻き立ててくれます。
その点では、『スターリン暗殺計画』は、上記、二作に劣らない「静かな」緊迫感を秘めています。
そして、そのリアルと虚構の境は、50パーセントと言わず、限りなく100パーセントに近いものを思わせます。
リュシコフ大将亡命事件
本作の核心を握る「リュシコフ」とは、NKVD(内務人民委員部、後のKGB)のNKVD極東局長官ゲンリッヒ・サモイロヴィッチ・リュシコフ大将です。
当時、38歳の若さでNKVDの高官でしたが、スターリンの粛清を恐れ、単身、ソ満国境を越えて、満州に脱出、日本官憲に捕縛され、亡命を希望。以後、日本軍に協力します。
これは全く史実です。
大将クラスの亡命というのは、なかなか想像できないのですが、自由惑星同盟に亡命したメルカッツ提督・・・北朝鮮の黄長燁書記を連想します。
このリュシコフの亡命後の消息がはっきりしない点が、「スターリン暗殺」というミステリーに直結していきます。
歴史家向けミステリー
本書には、派手なアクションも恋愛劇もありません。
しかし、歴史資料の山を狩猟し、関係者にインタビューを重ねるという「歴史の狩人」の物語があります。
例えば、映画でいえばモキュメンタリーが好きな方は大いに楽しめると思います。
ちなみに、1978年の出版から15年後の1993年に、「完全版」が発売され、グラスノスチ(ゴルバチョフの情報公開政策)とソ連崩壊後の資料流出を糧に、一章が追加され、より、「闇」に光が当てられています。
にしても、スターリンにしろ、チャーチル、ド・ゴールにしろ、暗殺されると、歴史が大きく転換してしまうような「巨頭」というのは少なくなりましたね。
【脚注】
※1.フレデリック・フォーサイス『ジャッカルの日』角川文庫、1998年、545-546頁(訳者あとがき)。