「人、たとえ全世界を手に入れても、己が魂を失えば、何の得があろうか」
マタイ伝16章26節
ミヒャエル・エンデの『モモ』。
言わずと知れた児童文学の傑作ですが、本書を読んでいると、プラトン哲学との強い親和性を見出すことができます。
今回は、『モモ』という作品を、プラトン哲学を手掛かりに読み解いていきます。
モモとは何者か?
「おまえたちは、遊びや物語をするさいごの人間になるだろう。」
ミヒャエル・エンデ『モモ』岩波書店、2020年、37頁。
モモという女の子には、「所有」というものが、もう少し突き詰めると、「所有の欲望」「独占欲」というものがありません。
その代わりに、豊かな想像力というものを持ち合わせています。
物語の序盤で、モモと子供達が、空想の冒険物語の世界に遊びます。
同じような「遊び」を、子供の頃に、公園で、空き地で、校庭で、体験した記憶のある人も多いことでしょう。
それは、想像の続く限り、限界のない世界であり、無限大です。
心の中の想像力の世界とは、換言すれば観念の世界です。
観念の世界は、既にすべてを心の中で持っているし、生み出せるので、「持つ・持たない」という次元を既に超越しています。
「持たずに・持っている」の世界です。
対して、現実の世界はどうでしょうか。
そこには、限界があります。
そして逆説的に、限界があるからこそ、それを所有したいという欲望が湧き、その渇望には、際限がありません。
それを象徴しているのが、灰色の男たちです。
灰色の男たちとは何者か?
「きみがいることで、きみの友だちはそもそもどういう利益をえているかだ。なにかの役に立つか?」
『モモ』141頁。
一体、灰色の男たち、時間泥棒とは何者なのでしょうか?
彼らの正体とは、「経済」あるいは「資本」の暗喩です。
前節で見たように、非観念の、物質的欲望には際限がありません。
灰色の男たちが跋扈した中盤以降の世界の有様を見てください。
子供は、次々と新しいおもちゃを与えられて、想像力を失っていきます。
大人は、資本の増殖に躍起になって、時間を切り売りし、機械のようになろうとしています。
現代は「経済」の専制の時代といえます。
すべてが数値化され、その高い・低い、多い・少ないで評価・利益が決定されます。
唯一の価値評価です。
そこには、必然的には勝者と敗者が生まれます。
資本の厄介な所は、それがどれだけ増殖しようと、それらが、人々の物欲を刺激することはあっても満足させることは、決してないということです。
故に、いくら資本が増大しても、それは争奪戦にしかならず、本質的にゼロサムゲームにしかならないのです。
ゼロサムゲーム、つまり、パイの総量は有限であるということです。
つまり、このゲームは不幸なくしては成立しない。
この究極が、物欲の為に命を懸ける、いや賭けるという、戦争の本質的原因になります。
ここに人類の大きな悲劇があります。
「じっさい、戦争や内乱の争いでさえ、他ならぬ肉体とその欲望が惹起するものでなはないか。というのは、すべての戦争は財貨の獲得のために起こるのだが、われわれが財貨を獲得せねばならないのは、肉体のため、奴隷となって肉体の世話をしなければならないからである。」
プラトン『パイドン』岩波書店、35頁、2001年。
ゼロサムゲームと言いましたが、それは、資本と同時に「時間」も同じです。
時間を切り売りすることで、その資本は更に増殖できます。
昨今の言葉で言えば、「生産性」とか「タイパ」といったものです。
まさに、本作の「時間貯蓄銀行」ですね。
結果、「機械の部品」のような労働者の群が誕生します。
機械は休まず、壊れず、一瞬たりとも止まらないことが理想だからです。
そこでは人間性の喪失が起こります。
資本からすると、人間は、休んだり、想像したり、「無駄」な時間が多すぎる。
この「無駄」を、どれだけ削って、人間を機械に近付けるかが、資本にとっての課題になります。
例えば、作中、床屋のフージー氏を丸め込む、灰色の男の姿。
または、資本家となってしまい、想像力を失ってしまったジジ。
そして、機械部品のような労働者にされてしまったベッポです。
この転落は、悲劇的で、読者も胸が苦しくなったことでしょう。
しかし、物質には限界がありますが、観念に限界はありません。
ゼロサムゲームではありません。
ノンゼロサムゲームであるし、そもそもゲームのような対立構造ではありません。
灰色の男たちが、モモに言う
「おまえたちは、遊びや物語をするさいごの人間になるだろう。」
『モモ』37頁。
ここでの「物語」や「遊び」とは、決して高度資本主義社会が享受しているそれ(バーチャルリアリティなど)ではなく、モモが体現している観念の世界、想像力から生み出される豊かな「物語」「遊び」であり、そこに限界も奪い合いも、遠慮して顔を出しません
マイスター・ホラとは何者か?
一方、この灰色の男たちが恐れる老人マイスター・ホラとは何者なのでしょうか?
これは、モモ自身も疑問に思っています。そして、それを本人に確かめる場面があります。
「あなたは死なの?」
マイスター・ホラはほほえんでしばらくだまっていましたが、やがて口をひらきました。
「もし、人間が死とはなにかを知ったら、こわいとは思わなくなるだろうにね。そして、死をおそれないようになれば、生きる時間を人間からぬすむようなことは、だれにもできなくなるはずだ。」
『モモ』237頁。
このちょっと謎めいた答えに似たようなことを述べている歴史上の人物がいます。
プラトンの師であるソクラテスです。
プラトン『ソクラテスの弁明』の中で、ソクラテスは「死」について
「死を恐れるということは、いいですか、諸君、知恵がないのに、あると思っていることに他ならないのです。なぜなら、それは知らないことを、知っていると思う事だからです。なぜなら、死を知っている者は、だれもいないからです。ひょっとすると、それはまた人間にとって、いっさいの善いもののうちの、最大のものかもしれないのです。」
『プラトン全集1』岩波書店、1975年、82頁。
更には、ソクラテスは、「死」の可能性が、完全な「無」か、天上のようなところへの旅路の二つに一つであるならば、どちらも「善い」ことではないかと言います。
それは、もし、永遠の眠りであるならば、そんな夢一つ見ないような熟睡に等しきものならば、何たる幸福であるか、ということです。
「私はこれを一つの利得であるといおう。その時永遠はただの一夜よりも長くは見えまいから。」
同上書、57頁。
他方、もし、それが別の世(天上)への遍歴、旅路であったなら、そこでは真の裁判官がおり、偉大な過去の人物と親たしく交わる事ができるならば、何たる幸福か、と。
「何となれば、あの世の人達は他の点においてもこの世の人達よりも幸福であるのみならず、はたして人のいうところが本当ならば、またとこしえに不死でもあるだろうだから。」
同上書、58頁。
「死」というものが、最大の悪徳であるかのように扱われることは、先ほどの物質的欲望の問題とも絡んできます。
なぜ、物質的欲望にとらわれるかと言えば、それは、少しでも生存したい、死から逃れたいという恐怖心の裏返しだからです。
そして、政治権力のような恐ろしいものが存在する余地もこの一点に掛かってきます。
「政治の幅はつねに生活の幅より狭い、本来生活に支えられているところの政治が、にもかかわらず、屡々、生活を支配しているとひとびとから錯覚されるのは、それが黒い死をもたらす権力を持っているからに他ならない。」
埴谷雄高『幻視の中の政治』未来社、1971年、9頁。
政治が恐ろしいのは、「死」を司り、それを与えうる権能を持つからです。
そして、「死」を恐怖の対象とする時、「時間」は単なる「死へのカウントダウン」という悲観的な存在となります。
しかし、恐れる前に、
「その《死》とは一体何のかね?」
と、マイスター・ホラとソクラテスは我々に尋ね返してくるのです。
恐れるよりも知ろうとすることです。
「死」が恐怖の対象ではなく、探求の対象となった時、「時間」は恐怖のカウントダウンであることを止めて、別の意味を持つでしょう。
そして、マイスター・ホラは、観念を司るもの、いわば「哲学」の象徴です。
哲学とは、何より知ることを欲すること。
「死」も「時間」も知らないのだから。
マイスター・ホラと灰色の男たちとの戦いとは、哲学と経済(資本)との戦いの寓意です。
対立する二つの原理(歴史の行方)
「死」を探求の対象とした時、「時間」は如何なる存在になるか?
ソクラテスの言葉に戻ってみましょう
「諸君、死を脱れることは困難ではない、むしろ悪を脱れることこそ遥かに困難なのである」
プラトン『ソクラテスの弁明』岩波書店、1989年、54頁。
灰色の男たちの、目指すもの、資本の論理の究極・目的は、物質的な潤沢・利益の最大化。
そのためには如何なる犠牲もいといません。
彼らに踊らされる人々は、幸福はもはや経済的成功、資本のそれにしかない。と、思い込んでいます。だから時間を切り売りして、あくせくして働いている。
経済的成功の為に悪徳にすら手を染める。
他方、それを止めようとするマイスター・ホラは、「死」や「時間」を知らないように、「幸福」と言うものが、本当は何かを問いかけているようにも見えます。
モモは、言語化できなくても、心のどこかで、真の「幸福」を知っている。
だから、マイスター・ホラに導かれたのでしょう。
ここでは2つの原理が対立しています。
「身体の愛求者」の生き方を導く原理は、
―生物的生存の切断としての「死」を恐れざるをえない「生き延び」の原理
であり、他方、「知の愛求者」の生き方を導くのは、
―生き延び本能に逆らい、それに動因づけられた欲望や快楽との対立を生き抜く中で〈知〉を求めてやまない「精神」の原理
藤沢令夫『プラトンの哲学』岩波書店、2001年、107-108頁。
資本の論理というのは、究極的には前者に属します。
他方、「死」といいうものを恐れるよりも、知ろうとする「知」を愛する心は後者に属します。
知を愛する、とは、そのままフィロソフィア=哲学のことです。
哲学と資本の戦い、あるいは、観念と物質の戦いの終局はどうなるのでしょうか。
作中では、モモによって、灰色の男たちが消え去り、世界は生きることを取り戻したようです。
では現実の世界はどうでしょうか?
これは誰にも分からない。
ただ、経済至上主義・高度資本主義といったものに、人々が「疲れ」始めているのは間違いないでしょう。
最後に、作者エンデの言葉を載せておきます。
「精神」という言葉が、どうも知性とか、知識とかと混同されています。経済の構造が「精神」を食いちらかしてしまったからでしょうか。しかし、私はそれでもなお、「精神」という言葉の中に、プラトン的なものがあると信じるのです。
(対談:和田俊『欧州知識人との対話』朝日新聞社、1986年、300頁)
【参考文献】
藤沢令夫『プラトンの哲学』岩波書店、2001年。
藤沢令夫『ギリシア哲学と現代』岩波書店、2002年。