「盲目の国では隻眼の者は王である。」
古代ギリシアの格言
ローマ教皇(法王)の逝去に伴い、枢機卿団で開催される教皇選挙(コンクラーベ)を描いたフィクションです。
次々と有力候補の秘密が暴かれ、混沌としていくコンクラーベの人間模様・権力闘争を描いたポリティカルスリラー。
そして、最後のオチで、ある本を思い出したお話です。
あらすじ
ローマ教皇が逝去し、直ちに教皇選挙の準備が開始された。
選挙を取り仕切るのは、実直な人柄で知られる首席枢機卿のローレンス。
続々と集まる枢機卿団の中、有力候補たちが顔を揃える。
- リベラル派のベリーニ枢機卿(バチカン教区)
- 保守派のトランブレ枢機卿(モントリオール教区)
- 黒人初の教皇を狙うアデイエミ枢機卿(ナイジェリア教区)
- 守旧派のテデスコ枢機卿(ベネチア教区)
枢機卿団108票を巡って、熾烈な選挙戦が展開される中、前教皇の秘密任命を受けたというベニテスが現れて、事態はさらに混沌としていく…
以下、ネタバレあり
バチカンという戦場
ローマ教皇、世界のカトリック信者13億人の頂点・首長。神の代官。
その正統性は、イエスが使徒ペトロに「天国の鍵」を託したという福音書の一節に由来します。
私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。
マタイ伝 16章18-19節
そんな教皇の権勢は絶大なものがあります。
その座を巡って、激しい権力闘争が繰り広げられる。
なんせ、世界13億の国境を超えたカトリック信徒と教会のネットワーク。その力は無視できない。
しばしば、国際政治にも大きな影響力を行使します(いや、常に、か)。
教皇の座を射止める有効得票数は2/3
しかし、それに誰も達せずに、投票が繰り返されます。
その過程で、有力候補のスキャンダルや謀略が暴かれ、レースは、混沌としてきます。
「イタリア人を再び教皇に!」と主張する保守派、というか守旧派、いや、ほとんど反動主義のテデスコ枢機卿がトップで推移するに至り、その座を望まないローレンスに、反テデスコの票が集まり始めます。
そして、幾度目かの投票へ。
デウス・エクス・マキナ
「私は盲目であったが、今は見える」
マタイ伝 9章25節
ローレンスが教皇となるか?と思われたその時、まさかの爆風が窓から吹き込みます。
大規模なテロが発生したのです。
これで、ストーリーは大きく進路を変える訳で、神意の介入、あるいは、デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)と言う訳です。
古代から、選挙というものは、実は、それほど、評価されていません。
キリスト教以前、古代ギリシアの大哲学者アリストテレスは、選挙にそれほど高い価値を置きませんでした。
なぜなら、選挙は、人間の浅はかな思慮、つまり「浅慮」によって左右されるからです。
選挙よりも、くじ引きの方が優れている。
なぜなら、くじ引きは、偶然や運の支配するところだが、それは神の手中であり、そこには、「神慮」が反映される、と。
教皇選挙は、所詮は、人間の浅慮の為すところということです。
人は過つ
このテロによって、風向きが大きく変わります。
枢機卿団が避難した劇場で、テデスコが「宗教戦争」を叫び、ベリーニが「恥を知れ!」とテデスコを糾弾し、激しい応酬に、場は騒然とします。
そんな中、ベニテスが「ここにはもう二度と来ないが」と前置きし、演説します。
その演説を受けて行われた投票で、なんと、無名のべテスコが教皇に選出されます。
まさに神慮。
最も権力を忌避する者に権力を。
これはプラトン以来の真理です。
ちなみに、アリストテレス哲学は、中世に「天使博士」トマス・アキナスによって、キリスト教神学の理論的中核をなします。
信仰と教会、あるいは信仰の政治化
「金持ちが天の国に入るよりも、駱駝(らくだ)が針の穴を通る方が、まだ易しい」
マタイ伝 19章24節
ベニテスが忌避した権力、政治化した教会についてもう少し考察してみましょう。
あらゆる活動、人の集合は、組織化した途端に、官僚化し、権力化し、政治化します。
まさに教会がそうです。
「政治化」とは何か?
「政治」のデモーニッシュな面を理論化した政治思想家にカール・シュミットがいます。
(まあ、彼自身の経歴が、そもそもデモーニッシュなのですが、それは置いといて)
彼はどう言ったか?
そもそも、あらゆる分野には、それをそれたらしめている、それ固有の究極的な区別があるから、それが成立します。
美的なものであれば、そこには「美」と「醜」の区別があり、道徳には「善」と「悪」が、経済には「利(益)」と「(損)害」が・・・etc.
では「政治的なるもの」をそれたらしめている固有(特殊)の区別とは何か?
シュミットは、「友」と「敵」の区別こそ「政治」の本質であるとする、いわゆる「友敵理論」を唱えます。
あらゆる分野の区別も、それが闘争の色彩を帯びて来れば、やがて「政治的なもの」に転嫁し、友と敵に分かれます。
友と敵に分かれると、そこに初めて、「政治」が立ち現れる。
これが権力の論理です。
これを、キリスト教に当てはめれば、本来、「宗教」は「信仰(信)」と「疑」(迷?)といった区別があるでしょうが、これが、闘争の色彩に昇華(いや、堕落)し、宗教戦争に陥る。
これは、教会内部も同じで、正統の確定と異端の烙印と弾圧・追放が繰り返されます。
ここでは「信仰」はその手段に過ぎなくなり、教条化・ドグマに堕する。
作中、ローレンスが、「信仰ではなく、教会に疑問を持っている」と吐露します。
確かに、ローレンスは、官僚化したバチカンの良心的存在です。
しかし、まだ彼も「盲目の国では隻眼の者は王である」の諺にある通り、隻眼なのです。
対して、ベニテスは、もっとはっきりと、政治化した教会を批判します。
彼は、遠く異教の地、戦地カブールで文字通りの奉仕をしていました。
初めから盲目の国=バチカンの人間ではない。
『ファティマ第三の予言』
「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」
マルコ伝 2章27節
新しい教皇に選出されたベニテスには大きな「秘密」がありました。
それを知った、ローレンスは、彼の元に走り、人払いをします。
ベニテスはインターセックスだったのです。
それを前教皇も承知の上の任命だった。
そして彼の体には子宮も存在する。
「神の与えたもうた体を傷つけるべきではない」
と、手術をしていないのです。
ローレンスは、この事実に驚愕しつつも、受け入れます。
ここにカトリックの歴史的転換が始まったのです。
ところで、この作品を鑑賞し終えて、真っ先に連想した小説がありました。
スティーブ・ベリー『ファティマ第三の予言』です。
バチカンを巡るミステリー、あるいはスリラー小説となっています。
タイトルのファティマ第三の予言とは、1917年にポルトガルの片田舎の町ファティマで起きた事件、いや奇跡です。
3人の子供の前に聖母マリアが現れ、幾つかの予言・メッセージを伝えます。
まずは、地獄の実在。
そして、第一次世界大戦の終結と第二次世界大戦の勃発、ロシアの無神論による災厄。
しかし、3つ目のメッセージは、公開されず、3人の内、最年長のルシアは、この内容を口外せずに、バチカンのローマ教皇庁に伝えました。
その内容に、教皇庁は驚愕し、この内容を非公開にします。1960年代に、この内容を読んだローマ教皇パウロ六世は、衝撃のあまり気を失ったとか…。
この秘された第三の予言は、様々な憶測を呼びましたが、2000年に、時の教皇ヨハネ・パウロ二世によって公開されます。
その内容は、1981年に起きた自身の暗殺未遂事件であったと。
しかし、半世紀以上も最高機密であった予言の内容が「その程度」な訳がないと、疑問の声が上がり、実は、この発表内容はフェイクではないかとの、噂が絶えません。
だって、暗殺された(であろう)教皇なんて、他にもいますし。
さて、ここからが本題ですが、この「第三の予言」を巡るミステリー小説が、『ファティマ第三の予言』なのです。
完全にネタバレしてしまいますが、本作でのファティマ第三の予言の真実とは、聖母マリアが
「愛に境界はありません。女性も教会の一部です。神に仕える者も伴侶と子供を得る喜びを知りなさい。」
と宣われたというもの。
つまり、カトリックが禁じてきた、同性愛、女性の聖職者、聖職者の妻帯を、神はお認めになったということ。
その衝撃は計り知れません。
イエスが独身で、かつ12人の弟子が全て男性だったことに由来する聖職者の禁欲(独身)と女性禁止が、信仰の末の結論ではなく、教会のドグマ・教条主義となってしまっている。
それへの強烈な否定です。
そりぁ、教皇だって気を失いますよ。
ドグマのために人があるのではない。人のために掟はあるのだ。
こっちもオススメ
ちなみに、教皇選挙をテーマにした作品は、いくつもあります。
教皇選挙がテロと誘拐殺人事件に舞台となるミステリー、ダン・ブラウン『天使と悪魔』なんか有名ですかね。
個人的に高評価なのは、実在のベネディクトゥス16世(演:アンソニー・ホプキンス!)の生前退位を巡る、ベルグリ枢機卿(次代のフランシスコ教皇)との対話・交流・葛藤を描いた映画「ふたりのローマ教皇」です。傑作。
(ソフト化されていない!!Netflix配信です)